帝国議会とは?大日本帝国憲法での議会の立ち位置や議員の選び方を詳しく解説
大日本帝国憲法 には藩閥政治ではなく選挙で選ばれた議員による政治参加が可能な帝国議会に関する条例も盛り込まれていました。日本で最初に作られた議会で、現代でいう国会にあたる機関です。
ここでは帝国議会が大日本帝国憲法のもとで定められた国家機構の中でどんな立ち位置だったのか、議会に参加するはどんな人がどのように選ばれたのか、選ぶ際の基準などについてまとめていきます。
帝国議会の特徴とは?
帝国議会は大日本帝国憲法(明治憲法)下における最高立法機関のことを指しています。実際には天皇大権が強く、議会は協賛機関(同意の意思表示をする)に留まったもので法律と予算を審議する職務を担っています。
なお、天皇大権とは
- 議会閉会中に法律に代わる緊急勅令を発することができる
- 文武官の任命や行政組織を定める行政大権
- 陸海軍の作戦・葉柄を行う統帥(大)権
- 陸海軍の兵力量を定めることのできる編成大権
- 条約の締結・宣戦布告・講和を定める外交大権
のことです。天皇が強い権限を持つことが定められていました。
とは言っても予算や法律を決めるにあたって天皇が全て決めるなんてことは現実的ではありません。そこで、国を現実的に治める政府によって提出された予算案や法律案を帝国議会が審議するという形をとっています。
帝国議会の時代による変化
帝国議会は貴族院/衆議院の二院制で成り立っています。衆議院が予算先議権を持つ以外は両院ほぼ同格の存在でした。
国民の選挙によって議員が選ばれていた衆議院が民衆の意見をより取り込みやすくなっています(後述)。逆に言えば、貴族院には衆議院のストッパー役を任されていたわけです。
設置された当初の政府は自由民権運動の激化の後に議会や憲法が出来上がったという経緯もあって
浅い知識しか持たず、言いたい放題で暴動まで起こすような民衆たちの意見などに制約されないよう独自の路線を貫こう。政党なんて気にすんな。
という考え方=超然主義をとる議員が多数いましたが、時代と共に特に衆議院を中心に議会を重視する人たちが増え少しずつ状況が変わっていきました。
政府が出した予算案や法律案を審議するにあたって帝国議会は賛成だけでなく否決することも可能※だったことで、政府は『協賛機関』といえども議会の意向を無視することが出来なくなっていったのです。
※『山川歴史総合用語解説(P.93)』を参考にしています。
貴族院
ストッパー役を任された帝国議会の上院にあたる貴族院は
- 皇族(任期終身)
- 華族(任期終身:公爵・侯爵議員、任期7年:伯爵・子爵・男爵議員)
- 勅選議員(任期終身)
- 多額納税者議員(任期7年)
で構成されました。
皇族と公爵・侯爵はある特定の年齢(25歳、後々30歳に改定)に達すると自動的に議員になることができます。ただし、現役軍人は政治不関与の原則があったため、皇族議員や公侯爵議員であっても議員として議論に参加することはなかったようです。
また、勅選議員とは勲功のある者、学識経験者から天皇によって選ばれた議員を指しています。任期は終身ではありましたが、唯一定数の決められた終身議員でした。官僚出身者で有能な人が多く、貴族院は彼らがリードすることが多かったとか。
一方の伯爵・子爵・男爵議員は任期7年で互選にて選出されます。互選とは関係者がお互いに選挙して選ぶ方法のことです。
※華族については『明治政府が大日本憲法制定と同時期に行った国家体制の整備について詳しく解説』の記事で華族制度に触れています。
定数はなく、おおむね議員総数250名~400名程度で推移しています。
衆議院
大日本帝国憲法が定められ、目玉となった議会はこの衆議院でしょう。国民が多少なりとも国の予算作成や法律制定に選挙を通じて関われるようになりました。
憲法と共に公布された衆議院議員選挙法により選挙に参加して議員を選ぶことのできる資格【選挙権】を持つ者や議員に立候補する資格【被選挙権】を持つ者を定められています。
- 直接国税(地租・所得税など)を15円以上納める者
- 満25歳以上の男子
この「15円以上」という金額は現在でいう60~70万円。ほぼ自給自足の生活をする者たちが多い社会では、かなり高額な納税額でした。全人口の1.1%にとどまっています。
- 直接国税を15円以上納める者
- 満30歳以上の男子
選挙権も被選挙権も時代により条件は変わっていきますが、帝国議会が出来た当初は上の条件がついていました。こうした制限付き選挙は制限選挙と呼ばれています。
ついでに選挙権・被選挙権の変遷についての表を置いておきます。
年号 | 選挙権 | 被選挙権 |
---|---|---|
1889(明治22)年 | 直接国税15円以上納める満25歳以上の男子 | 直接国税15円以上納める満30歳以上の男子 |
1900(明治33)年 【第二次山縣内閣】 | 直接国税10円以上納める満25歳以上の男子 | 満30歳以上の男子 |
1919(大正8)年 【原内閣】 | 直接国税3円以上納める満25歳以上の男子 | |
1925(大正14)年 【加藤高明内閣】 | 25歳以上の男子全員 |
後々、納税という制限をなくそうとする普選運動が活発になりますが、しばらくの間は貴族院の反対で成立せず。制限が撤廃され普通選挙(男子のみではありますが)が導入されるのは大正時代末まで待たなければなりませんでした。
第一回帝国議会(1890年11月29日)
華族制度や憲法、内閣制度を作ったり...と入念な下準備の期間を経て、1890年7月にようやく衆議院の総選挙が行われました。
結果は以下の通り(下のグラフ参照)で、板垣退助が党首の立憲自由党や大隈重信が党首の立憲改進党ら野党勢力・民党が多数を占めています。どちらも藩閥政治に反対する政党で、かつて国会開設を要求した張本人たちです。
※政府寄りの政党『大成会』や『国民自由党』などは吏党(りとう)や温和派と呼ばれます。
なお、後に時代の経過でパワーバランスが変わり、吏党も民党も死語にいきますが。
この選挙が行われたのは、1885年に既に内閣制度は始動し山縣有朋が内閣総理大臣を務めた第一次山縣内閣(1889年12月ー91年5月)の時。
山縣有朋自身が長州藩出身だっただけでなく、国務大臣10人のうち旧薩摩藩3人/長州藩3人/土佐2人/肥前1人と完全に民党と敵対する形の内閣だったので、民党が大勢選ばれた帝国議会は荒れました。
山縣内閣は利益線(朝鮮)防衛のための軍拡を主張した予算案を提出するも、衆議院は国民たちの主張を重視する民党の議員ばかりでしたから「民力休養・政費節減」による国民生活再建を掲げて予算案を削減しています。
そのまま衆議院が動かなければ、予定していた予算は組めず内閣の方針が狂いますので自由党の一部を切り崩す工作を進めて何とか予算を可決させることに成功しました。
初期議会
第一回を何とか無事に閉会させた帝国議会は、1890年の第一回議会から1947年の第92回議会まで開会することが出来ました。
基本的に年に一度必ず行われる通常会(11月か12月ごろに召集)の他、臨時緊急で議論が必要な時に開かれる臨時会、天皇大権で衆議院解散が命じられ新たに衆議院議員選挙が行われた後に開かれる特別会(時期などにより通常会や臨時会が代わりに開かれるケースもあった)で議論が行われます。
憲法では基本的に天皇が議会を召集すると制定されていますが、実質的には内閣が召集決定権を持っていたようです。
続く1891年に開かれた第二回帝国議会は第一次松方内閣の下で召集されました。
他国との条約改正、朝鮮をめぐるロシアや清との対立などを見据えて軍拡をしたい藩閥政治を行う内閣と民衆の意見を取り入れた民党の「民力休養・政費節減」が相容れることはありません。何度も何度も議会は紛糾しました。
そして、とうとう内閣が予測した事態・日清戦争が勃発すると、日清戦争を機に議会はようやくまとまりはじめました。協力体制を敷き、全会一致で戦争関係の予算・法案を可決させていったのです。
この日清戦争が開戦するまでの第6回までの帝国議会は初期議会と言われています。
政党内閣の台頭
詳しくは別の記事で改めて書いていきますが、日清戦争が終わった後は帝国議会のあり方が全く違うものになっていきます。
戦後経営のための軍拡や産業育成といった課題を乗り越えるためには「衆議院での同意が不可欠」ということで第一党である自由党の党首・板垣退助や立憲改進党改め進歩党の党首・大隈重信が入閣する形を作り上げ、藩閥政治と政党との連立内閣がたびたび出現しています。
これにより政党が力を増し、以前とは違った形で帝国議会が開催されていくことになりました。この後も護憲運動、普通選挙法の施行、翼賛体制と政治体制や情勢の変化に伴い、その時と場合に応じた議会が開かれていくのでした。