全国の民権派が集まり、結成された愛国社は、国会期成同盟と改名されて国会開設の要求をしますが却下されます。
中には、国会開設を求める参議もいました。その中の一人が、大隈重信です。
大久保利通の暗殺後、政府の中心は大蔵関係のトップである大隈と内務関係を掌握していた伊藤博文でした。
しかし、その国会開設の仕方をめぐり伊藤・大隈両氏は対立していました。
そんな時、開拓使の官営事業が藩閥関係の商社に安く払い下げられる事が明らかになり、政府に対する批判が高まりました。これにより、政府は払い下げを中止し、国会開設を明治23年と約束します。この出来事により、責任を取らせる形で大隈を罷免しました。
この出来事を明治14年の政変と呼ばれます。
この一連の処置により、主導権は伊藤博文が握ることになります。
自由民権運動の弱体化
国会開設が約束されると、板垣退助は自由党を大隈重信は立憲改進党を結成します。
自由党は元士族が多く急進的で、改進党は知識人層が多く、比較的穏健派が多くいました。また、政府寄りの立憲帝政党も旗揚げしています。
結党の翌年、板垣退助は襲撃されますが、一命は取り留めます。その後、政府の働き掛けで、板垣はヨーロッパへ。これは、政府による自由党の弱体化を図ったもので、指導者を失った自由党は、過激な行動に出ます。
不況が続く農民たちの不満と結びつく事件などを起こし、純粋な民権運動とは程遠いものでした。その後、改進党の大隈も党を離脱して、民権運動は崩壊の一途をたどります。
板垣本人も、ヨーロッパ外遊中に自由民権運動の母国であるフランスの政治を見て幻滅し、その後はイギリスを模範にするべきだと考え始めます。これは政府の目論見どおりで、板垣の思想を変化させて自由民権運動自体崩していく原因ともなりました。
そして政府は、憲法発布に際して、伊藤博文をドイツのプロイセン憲法を学びに行かせ、本格的な憲法制定の準備に取り掛かります。内閣制度も制定されて、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任することになります。
最終的に憲法は、天皇の諮問機関である、枢密院で審議され発布されることになり、アジア初の立憲国家としてスタートさせるのです。