江戸時代

尊王・勤王・攘夷・佐幕・倒幕・公武合体ってどんな意味?分かりやすい用語解説

歴ブロ

【尊王】【勤王】【攘夷】【公武合体】【佐幕】【倒幕】(※順不同)は全て江戸時代末期・いわゆる幕末によく使われた用語です。

曖昧なまま使っている場合もあると思うので、今回はこの用語がどんなものか簡単に解説していきます。

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当時の状況のおさらい!

1853年、アメリカからペリーの乗った黒船が来航。これ以降、日本は【幕末】と呼ばれる時代に突入します。日米和親条約を皮切りに国内の港を開くことを決めると、アメリカ以外の国々とも条約を結びました。

幕末の情勢

日米和親条約は、薪や水、食料などの買い入れのために下田(静岡県伊豆半島南東部)・箱館(北海道函館市)の開港のみに留まっていましたが、その後結ばれた日米修好通商条約では開港の範囲をさらに広げた上に貿易込みの不平等条約。異国を倒そうと思う者がますます増えていったのでした。

「開国派」vs.「攘夷派」勃発!どんな思想だったの?

こうした動きに対して日本国内の意見は真っ二つに割れていました。どちらも攘夷を行うのには変わりませんが、やり方が微妙に違っていたのです。

  • 開国派:今の日本では敵わないから受け入れざるを得ない。異国に学んで国力をつけてから追い払うべし!
  • 攘夷派:すぐにでも異国を打ち払うべし!!

攘夷派からすると開国派は弱腰にしか見えませんでした。

言葉が「開国派」なので勘違いしやすいですが、開国派も「現実に即して異国に学び財を蓄えた上で攘夷する」という意味で開国を訴えている広義の攘夷派。これを大攘夷とする定義の仕方もあります(上の定義でいう攘夷派小攘夷とされています)

そして政権中枢部は「開国派」。幕府は日米修好通商条約に反対した大名や公卿・志士達を捕らえ処刑したり謹慎させたりする【安政の大獄(1858~1859年)を起こしました。

※なお、この時は条約の締結に加えて将軍継嗣問題が浮上していたことも弾圧の一因となっています

次々と外国と条約を結び、反対意見を出した者を弾圧している様子を見た「攘夷派」は激怒。こうして安政の大獄を主導した井伊直弼が弾圧し過ぎにより【桜田門外の変】で攘夷派により暗殺され命を落としています。

倒幕派と佐幕派の登場!

安政の大獄・桜田門外の変を経て、ますます開国派との溝が深くなっていた攘夷派。外には弱腰なくせに自分達を弾圧するやり方に当然反発しました。攘夷派は幕府を倒す方向に向かいます。

この幕府を倒そうとする派閥は「倒幕派」と呼ばれました。一方で幕府や将軍を守ろうという人達もいます。倒幕派に対して彼らは「佐幕派」と呼ばれます。「佐」とは「助ける」「補佐する」の意味を持つ漢字です。

  • 倒幕派:幕府を倒そうとする勢力
  • 佐幕派:幕府を助ける側の勢力

彼らに共通する思想「尊王思想」とは?「勤王」との違いは?

これまで挙げた「開国派 vs. 攘夷派」も「討幕派 vs. 佐幕派」も、どちらも共通意識として持っていたのが「天皇を尊ぶ思想」である【尊王思想】でした。幕末には誰もが持つ当たり前の感覚です。

もう一つの勤王もほぼ同義なのですが、勤王の方がより「行動を起こしていたケース」を指しています。思想そのものだけでなく「幕府じゃ頼りないから天皇が中心に立つべき」とする政治運動も含めた意味を持つこともあります。

どういう人たちが多かったかというと、当然、倒幕に傾いていた攘夷派がメインです。

彼らは「打倒・幕府!」状態になっていた上に当時の天皇が日米修好通商条約を結んだ際に激怒した異国嫌いの孝明天皇であったため、「尊ぶ思想」だけでなく「実権を握ってもらうために行動を起こして忠義を尽くそう」という行動を取る者が出てきていたのです。

そのため「勤王の志士」というと大体が幕末の京で取り締られていたような過激派の志士たちを指しています。

本やサイト、人によっては当時の当事者も過激派を指して「尊王攘夷派」とするケースも多いです。同時に佐幕派でありながら「尊王攘夷」の人も数多く存在しているため厳密な定義はできていないのが現状じゃないかと思います。

「公武合体」とは??

幕府の権威が地に落ち、今でいうテロ活動が盛んに行われている状況と異国から狙われている状況をなんとかしようと「(朝廷・貴族)(幕府)が力を合わせて国難を乗り切りましょう」とする動きが生まれ始めます。これが【公武合体】と呼ばれるものです。

公武合体:公(朝廷)と武(幕府)が一体となり、内外の政局に対応しようとする考え方のこと

幕府としては「改めて政権の正当性を持たせ、朝廷が攘夷派の拠点とならないようにしたい」との意図があって、幕府側から提案しました。一方の朝廷側は攘夷を基本的な考えとして持っていたため「攘夷決行を条件」に幕府の提案を飲んでいます。

この時、孝明天皇の妹・和宮(婚約者が既にいた)が第14代将軍・徳川家茂の元に嫁ぐことで両者が結びつきました。降嫁する際、完全な政略結婚で和宮は江戸へ行くのを嫌がっていましたが、二人は仲睦まじい夫婦になったようです。

福井、土佐(現高知県)、宇和島、薩摩(現鹿児島県)などの雄藩も、この公武合体論を支持しています。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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