かんたんでわかりやすい所得倍増計画とは何だろう??
現在では考えられない10年間で国民の所得を2倍にするこんな政策が1960年代に政府が打ち出しました。その政策が所得倍増計画です。この頃高度経済成長に入っていた日本は、その所得倍増計画を軽々と達成しています。
今回はそんな所得倍増計画について書いてみたいと思います。
所得倍増計画とはなんだろう?
1960年に第二次池田勇人内閣が閣議決定した経済対策の基本計画の事を言います。
1961年~1970年までの10年間で、実質国民総生産【実質GNP】を年平均成長率7.2%を達成し、実質的に国民所得を倍増させる目標が掲げられました。
この計画の元で高度経済成長を支える様々な政策が行われた結果、日本は当初の計画を上回るペースで経済成長を成し遂げました。
しかし、都市部の過密化や農村部の過疎化、物価の上昇、公害の発生などの歪みも生んでいます。
所得倍増計画の目的
所得倍増計画の目的は、国民の生活水準を改善することにありました。
閣議決定によると、国民の完全雇用を達成するとともに国民にある格差をなくすことが目的に挙げられます。
しかし、所得倍増計画にはもう一つの目的がありました。
それは、前年から続いていた安保闘争から国内の経済対策へと国民の目を向けさせると言うものでした。
この計画が発表される前の1959年は、日米安全保障条約の改定をめぐって、政治が大きく揺れ動いていました。
アメリカとの条約改正交渉が進む中、革新政党やと労働組合、学生団体、市民団体が次々に反対運動をおこしました。1960年5月19日に自民党のみで条約改正を強行採決すると、反対運動に火が付き、連日による国会議事堂の抗議デモが押し寄せるようになります。
その後、さらに抗議デモが過激化し、アイゼンハワー大統領の訪日に合わせて来日した、秘書官の車をデモ隊が囲み立ち往生し、1時間後に米海兵隊に救出される事件や、国会に突入した全学連が警官隊と衝突する中で、女子学生が死亡する事件も発生しました。
こうした状況受け、改定された新・日米安全保障条約が発効した6月23日に、当時の岸信介首相は辞任し、翌月には内閣が総辞職しました。
この後に総理大臣となったのが池田勇人で、混乱してた政治状況を正常化するために、『寛容と忍耐』をスローガンに掲げ、これまでの自民党政治を改めることを約束します。
その池田内閣で目玉政策となったのが、所得倍増計画だったのです。
所得倍増計画の内容
経済審議会の問答を元に、1960年~1970年の10年間で実質国民総生産の年平均成長率7.2%を達成し、実質国民所得を倍増させることが目標に掲げられます。
これを達成するために5つの政策がとられました。
- 農業基本法を制定し、農業の構造改革を進める
- 中小企業の生産力を上げ、企業間格差をなくす
- 国内で開発が遅れている地域のインフラを整備し、地域の産業を振興
- 経済合理性に基づき、地域の産業のあり方や投資の仕方を再検討
- 輸出を拡大して外貨収入を増やすとともに、各国と経済協力
具体的な中身では、道路や港を整備する事で国民の完全雇用を目指す事、社会保障や社会福祉を充実させることに触れている他、経済成長を支える人間の要素に注目し、国民の教育や職業訓練、科学技術の発展を重視しています。
また、負の側面である経済格差や地位開発の遅れと言った問題が積極的に取り上げられている点も特徴的です。
所得倍増計画の結果と効果(達成?失敗?)
日本は1960年代を通して、所得倍増計画を上回るペースで経済成長を続け、1968年にはなんとアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国になりました。
こうした経済成長の背景には国内外のいくつかの要因があります。例えば
- 国内では戦前から積み重ねてきた技術が産業に応用できたこと
- 国民の完全雇用を目指した政策によって多くの失業者を産業発展のために取り込むことができたこと
は、特に重要でした。
国際的に見れば、IMF体制下で国際通貨が安定していた中、日本が世界貿易の成長率のほぼ2倍の成長率で輸出を拡大し、需要を増やすことができたことが、日本の経済成長を促しました。
輸出で稼いだ外貨は重化学工業に必要な原材料や燃料を輸入するのに使われ、それで輸出品を作るという好循環が生まれました。ちょうどこの時期に、世界的に原油価格が低下したことも、日本にとってはラッキーだったと思います。
このような経済成長は、日本経済の構造そのものも大きく変化させました。まず、戦後から1960年ごろまでは、労働者に対して雇用が少なく、失業者が多数いましたが、それ以降は一転して人手不足になりました。
その結果、労働者を集めるには賃金を上げずにはいられなくなり、それまでは低かった若年労働者の賃金が改善されたり、大企業と中小企業の間の極端な賃金格差が解消されました。
こうした経済成長によって、国民の所得は向上し、豊かな生活が送れるようになりましたが、その反面で副作用もありました。
経済成長による大きな副作用
一番は、多くの人々が仕事を求めて、農村から都市部へと移動したことで、農村で農林業を担う人たちが激減しました。これによって、都市部の過密化と農村の過疎化が進みました。
また、賃金が上がったことにより、製品の生産コストも上がり、その結果として物価も上昇しました。ただし、高度経済成長期には、賃金の方が物価よりも早いペースで上がったため、こうした物価上昇に気が付きにい状況でもありました。
そして最大の問題は公害でした。
1950年代後半~1970年代にかけて、四大公害病(水俣病・第二水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)をはじめとして、多数の公害が発生しました。
こうした公害に対応するために1967年に公害対策基本法が施行されました。
公害についてのリンクがあるので読んでみると良いかもしれません。
日本でも高度経済成長は1973年の石油危機(オイルショック)で終でりを迎え、経済は安定成長の時期に入っていくのでした。