昭和

オイルショックの原因とトイレットペーパー騒動!!

皆さんの生活に必要不可欠になっている燃料である石油。

しかし、この石油が一時期日本に来なくなってしまうかもしれなかった時代がありました。

今回はそんな日本中で大騒ぎになった出来事『オイルショック』についてわかりやすく解説していきます。

 

オイルショックと中東問題

1973年【昭和48】に世界的に起こった石油危機の事を【オイルショック】と言います。

その背景には、第四次中東戦争によるアラブ諸国の思惑がありました。

まずは、中東問題について理解を深めてからオイルショックについて書いてきます。

中東問題の発端

中央のイスラエル地域は、現在でも紛争が多い地域です。

約3000年前のイスラエル地域には、ユダヤ教を信仰するユダヤ人の国【イスラエル王国】が存在していました。紀元前600年頃にローマ帝国の侵略により、ユダヤ人は追放されこの地域ではキリスト教が普及し始めます。

さらに紀元後600年頃にはイスラム帝国が占拠し、イスラム教が広がってきます。

 

こうした歴史の流れから、聖地エルサレムにはユダヤ教・キリスト教・イスラム教と言った3つの宗教の聖地ができあがりました。

さらに歴史が進み、16世紀頃にはオスマン帝国がこの一帯を支配し、イスラム教の色が強い地域になっていきました。このオスマン帝国の支配時代に、この地域を【パレスチナ】と呼ぶようになります。

 

一方で、最初にイスラエル王国の住人であったユダヤ人たちは、各地に散らばり活躍を見せていたのですが、優秀があるがゆえに迫害を受け、多くのユダヤ人が聖地に戻ってくるようになりました。

このため、この地域ではアラブ人【イスラム教】ユダヤ人【ユダヤ教】の人々が程々に共存して成り立っていました。

 

そんな生活が成り立っていたオスマン帝国に、暗雲が立ち込めます。

それが、1914年に始まった第一次世界大戦です。

この戦争で、オスマン帝国VSイギリス・フランス・ロシアの対立が起こります。この時、オスマン帝国の内部崩壊を狙っていたイギリスは、アラブ人へ武力協力の見返りに、勝利後のアラブ人国家の建国の約束し、さらにユダヤ人にも同様の約束をします。

その上で勝利後はどちらの約束も守らず、第二次世界大戦後にはこの地域から撤退し、問題を国連に丸投げしました。

 

権益強化を狙い日本も参戦した第一次世界大戦 第一次世界大戦を始める前に、1914年のサラエボ事件から1919年のベルサイユ条約までの年表を書いておきますので、こちらを参考しなが...

中東戦争とは??

パレスチナ支配権問題をイギリスに丸投げされた国連は、アラブ人とユダヤ人の国を作るべく分割を始めるのですが問題が発生します。この分割構想に、国連の構成国の意思が働いてしまうのです。

アメリカにとっては、本土に住むユダヤ人の票が非常に重要で、当時のトールマン大統領やトランプ前大統領もこのユダヤ人票の力を経て当選していました。そのため、パレスチナの良質な土地側をユダヤ人の国【イスラエル】としたのです。

この決定に納得いかないのがアラブ人で、彼らはイスラエルに向けて攻撃を加えてしまいます。その後も、様々な国の思惑から現在に続く泥沼状態になってしまうのです。

建国されたイスラエルに対して、アラブ諸国との戦いが何度も起こりますが、これらを【中東戦争】と呼び、何度も繰り返されています。

第一次中東戦争

イスラエル建国当初に起こった争いを【第一次中東戦争】と呼んでいます。

エジプトとヨルダンの支援により、アラブ人側が【ガザ地区】【ヨルダン川西岸地区】を掌握しますが、その後すぐにイスラエルに奪取されます。この地域のうち、大部分をイスラエルが獲得しますが、上記の2つの地域をアラブ人の住む『パレスチナ自治区』として国連が認定し、ここに住むアラブ人をパレスチナ人と呼ぶようになっていきます。

この『第一次中東戦争』でイスラエルが反撃し勝利できたのは、バックにアメリカとイギリスの協力があったからといわれます。

第二次中東戦争

1869年にエジプトとフランスの共同で建設を進めたスエズ運河が完成しました。

海運交通の要所であるこの運河ですが、当時財政難に陥ったエジプトが保有株をイギリスに売却してしまつたことで、イギリスが筆頭株主になっていました。しかし、1956年にエジプトがスエズ運河の国有化を宣言した為、イギリスは激怒しフランス・イスラエルに協力を仰ぎ、第二次中東戦争が勃発します。

 

この戦いでは、国連の停戦要求やソ連のエジプトへの協力、アメリカの反対などにより終了しました。

エジプトのスエズ運河の国有化は認められましたが、戦争自体はイスラエル側の勝利でした。しかし、イスラエル側への批判は大きく、世論はエジプト側の支持が増えていくことになります。

第三次中東戦争

国際世論がエジプトを中心としたアラブ諸国になり、イギリスやフランスも堂々とイスラエルを支持できなくなり、イスラエルは自力で軍事力強化に乗り出します。

ゴラン高原のユダヤ人居住によるアラブ諸国との緊張が高まる中、1967年に第三次中東戦争が勃発。イスラエルの急襲によりエジプト・ヨルダン・シリア・イラクなどの軍事基地を破壊します。

6日の短期間に『シナイ半島』『ガザ地区』『ヨルダン川西岸地区』を占領しました。

第四次中東戦争とオイルショック

イスラエルにアラブ諸国が負け続ける中、1973年エジプトがイスラエルに対する奇襲攻撃を成功させます。対するイスラエル側もアメリカ・イギリスの援助を受け争いは泥沼化に。

奇襲攻撃の成功でエジプトはシナイ半島の奪還を達成しましたが、ガザ地区とヨルダン川西岸地区からのイスラエル人撤退とはいきませんでした。

この戦いにおいて、アラブ諸国が石油戦略を展開することで休戦へと持ち込みます。

シナイ半島は、エジプトが奪還しましたが、ガザ地区とヨルダン川西岸地区からのイスラエル人撤退とはいきませんでした。

 

何とかアラブ諸国が優勢となりましたが、イスラエルの後ろにいるアメリカとイギリスの支援がとても邪魔でした。そこでアラブ諸国は、アメリカとイギリスやイスラエルに支援した国への制裁措置として、石油禁輸制裁を出しました。

当時の石油の産地といえばソ連か中東の油田しかありませんでした。

エスラエルの支援国の石油さえ止めてしまえば、それぞれの国が回らなくなり支援どころではなくなるとアラブ諸国は踏んだのです。

こうしてOPEC諸国は、21%と言う考えられない価格のつり上げをして石油禁輸制裁を開始。これにより世界各国で、石油がなくなるオイルショックが起きました。

 

オイルショックの日本への影響

こうしてアラブ諸国による石油禁輸制裁が始まったわけですが、日本にも大きな影響を与えることになります。アメリカの同盟国である日本も中東諸国からしたら支援国の一つと考えられ、禁輸制裁の対象となりました。

日本も何とか、中東に対してアメリカと同盟関係ですが、イスラエルに支援はしてないので石油をちょうだいと弁明しますが、結果は変わりませんでした。

 

当時の日本は、高度経済成長で安定した経済成長の状態でしたが、1970年になるとニクソンショックのアメリカの経済改革のあおりで日本にも影響を与えていました。そこに、オイルショックが直撃したので、日本経済のダメージは深刻なものとなりました。

さらに、このころの日本はエネルギー改革を推進しており、工場の機械や発電などの燃料を石炭から石油に代わっていた時期で、中東の石油が来ないことで日本中の向上などがストップする恐れがありました。

この頃の日本はエネルギー革命といって工場の機械や発電などの燃料が石炭から石油に変わっていた時で、中東の石油がこないとなると機械などが動かなくなるというという最悪の事態が訪れてしまう可能性がありました。

インフレーションに突入

石油が入ってこないとなると、企業などは燃料である石油を節約するために機械の稼働を少なくします。そのため、商品の生産が少なくなります。

さらに、プラスチック製品などは石油が原料なので、製品がつくられなくなりました。

こうなると、モノの値段が上がり、お金の価値が下がるというインフレーションが起きます。この時、物価が20%上昇するなどの狂乱物価と呼ばれるあり得ないレベルまで上がります。

この物価上昇は、石油製品以外にも広がり、醬油や砂糖などの調味料にも及ぶようなりました。

こうしてインフレーションに突入した日本は一気に不況になり、戦後初のマイナス成長を記録し、高度経済成長は終わりを告げました。

オイルショックのトイレットペーパー騒動

オイルショックを受けて、連日マスコミが石油資源不足を報道し、国民の不安は大きくなっていきました。1973年10月に政府が【紙資源節約の呼びかけ】から、【紙がなくなる】と言うデマが流れ始めました。

そして、11月に大阪のお店でチラシの特売のトイレットペーパー購入に主婦が殺到した結果、即売。急遽店側が通常品(通常価格品)を出し対応したのですが、それもあっという間に感がする出来事が起きました。

その情報聞いた新聞社が【あっという間に値段が二倍!】という記事を出してしまいます。特売品と通常品の値段が違うのは当たり前なのですが、この記事の見出しは非常にインパクトがあり、騒動が大きくなるには十分でした。

このため、全国各地でトイレットペーパーの買い占め騒動が起きでしまうのでした。

 

騒動が起きた当初は、実際に品不足はなくマスコミや口コミに踊らされだけでした。

ところが、国民の購入過多からの在庫不足が発生し、政府から買い占め自粛要請が出るほどの事態となります。現在でも、テレビで特集された商品が一時的に店頭から消えてしまう現象は皆さんも経験していると思います。

さらに政府は、石油緊急対策要綱を閣議決定し、石油総需要の抑制に努たことで国内の消費はさらに冷え込みます。

 

オイルショックへの対策

オイルショックが起きたことで、日本各地で省エネと呼ばれるエネルギー節約の動きが出てきました。わかりやすいところで、夜のネオンサインの減少、深夜営業・深夜放送の廃止、エスカレーターの運転停止などがありました。

日本政府は、石油に依存していた現状を見直そうと、石油を使用した火力発電所からエネルギーの安定供給していた原子力発電所の整備をはじめるようになりました。

 

オイルショックの終了とその後

オイルショックは第四次中東戦争の終結のよって終わりましたが、これ以降世界各国で中東の石油依存を見直し、北海油田の開発やアメリカ国内の油田開発を自国で供給していくという動きがみられました。

また、当時のフランスの大統領の呼びかけでオイルショック後の世界経済についての会議、主要国首脳会議(G7)を開催するようになります。

1979年に再びイラン革命の影響で、世界第2位の産油国だったイランからの原油輸出量が減少し、再び石油危機が起こります。これを第二次オイルショックと言いますが、日本は前回の教訓を活かした政府の対応の早さから、日本国内での影響はさほど出ていないとのことです。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。