地政学

【地政学的近代史】19世紀初頭のナポレオンの台頭と大英帝国の拡大

歴ブロ
出典:イラストAC

19世紀に入ると、ヨーロッパではナポレオンによる大陸支配の時代が幕を開けました。

ナポレオンは、大規模な侵略戦争を巻き起こしましたが、同時にフランス革命の理念である自由主義や国民主義を広める役割も果たしました。その結果、ヨーロッパ全体で政治的・社会的な変革が引き起こされます。
彼の侵略によって国境が再編され、新たな国家が誕生するなど、地政学的な秩序が大きく転換する時期でした。

こうしたナポレオンの台頭に対抗すべく、各国はウィーン会議によって勢力均衡を図るウィーン体制を築きました。これにより、ヨーロッパは安定を取り戻し、各国の勢力が釣り合った状態が保たれます。
ウィーン体制は、ナポレオン戦争後の混乱を収拾し、ヨーロッパの秩序を再構築する重要な一環となりました。

世界の地政学、今回のテーマは19世紀について紹介して行きたいと思います。

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ナポレオンによる貿易統制と敗戦

出典:イラストAC

1804年フランス革命後の混乱の中で、ナポレオンは皇帝として即位しました。

その後、ナポレオンは対フランス大同盟との戦いに勝利し、周辺国々を次々と制圧。西ではスペイン、東ではポーランドやハンガリーまで支配を広げます。さらにイギリスに打撃を与えるため、周辺国に対してイギリスとの貿易を禁止する法令を制定しました。

しかし、ヨーロッパの市場を失っても大西洋貿易が順調に続いたため、イギリスへの決定的な影響を与えることはできませんでした。むしろ、ヨーロッパ諸国の中でロシアがフランスとの貿易禁止令を無視してイギリスとの貿易を再開する動きが見られます。

こうしたロシアの行動に反応して、ナポレオンは1812年にロシア遠征を決行しました。しかし、過酷な冬で兵力の9割を喪失する大敗北を喫しました。この敗北がきっかけで、ナポレオンの勢いは急速に衰え、没落の道を歩むこととなりました。

流れのように書いているので、前回の記事も参考になると思います。

ウィーン体制による勢力の均衡

ナポレオンはロシアとの戦いでの敗北により勢いを喪失し、徐々に勢力を減少させることを余儀なくされます。最終的に彼は皇帝の地位を退位せざるを得ませんでした。

その後のウィーン会議ではヨーロッパ諸国は新しい秩序を築き、平和とバランスを維持しようと協議しました。この新しい秩序は『ウィーン体制』と呼ばれ、特徴的な点は各国の力が釣り合う勢力均衡の考え方を導入したことです。

敗戦国であるフランスに対しては最低限の賠償金と領土の一部割譲が行われました。これによってフランスがロシアの台頭に対する防波堤として機能することが期待されたと言われています。

ウィーン体制は、フランス革命の影響で浸透した自由主義や国民主義の理念を否定し、以前の絶対王政の復活を図る意図がありました。フランスでは王政が回復されましたが、自由を求める人々の反乱が多発しました。

1848年には、フランスで二月革命が勃発し、これがオーストリアやプロイセンなど他国にも波及し、ウィーン体制は次第に崩壊していきました。この時、ヨーロッパ各地で革命が広がり、既存の秩序が揺らぐ結果となりました。

イギリス『大英帝国』の拡大

ウィーン体制が維持されると一定期間大きな戦争は起きませんでした。

各国間の緊張緩和によって列強たちは海外進出に力を入れる事が出来るようになります。
中でも意欲的だったのがイギリスで、アジアにおいてはインド以東の支配に着手。

1826年のチョークポイントマラッカ海峡周辺を植民地にしました。

チョークポイントとは?

地政学の概念の一つで、戦略的に重要な海上水路の事を指します。

出典:Wikipedia マラッカ海峡周辺地図

そこで目を付けたのが中国市場で、英・印・清の三角貿易が本格的になるのがこの頃からといわれています。イギリスは清から茶や絹を輸入し、インドから綿布を輸出。さらにインドから清にはアヘンを輸出すると言うものでした。

三角貿易とは?

3つの国や地域が関係する貿易構造。主に、イギリスで展開された大西洋での貿易を指すことが多いですが、清とイギリス、インドでも同じ構造が出来上がりました。

清の人々はアヘンに夢中になり、アヘンの購入に伴う銀がインドを経由してイギリスへと流れる状況が広まります。

このアヘンの流行により、清の国力は急速に低下し、さらに1840年に勃発したアヘン戦争の敗北で清の衰退を加速させました。

イギリスによる清の支配体制は直接的な支配ではなく、アヘンの売買などの自由貿易を通じて清を従属化する手法を取りました。この方法は、植民地支配にかかるコストを削減できる利点があります。

この戦略の実現には、イギリスが他の競合国を寄せ付けないほどの経済力を有していたことが不可欠です。さらにシーパワーとして、中国からインド、イギリスへの商品輸送を円滑に行うための海上の「チョークポイント」を支配していたことも重要でした。
この要因が、世界をますますイギリスの有利な地位へと導いていくことになります。

上記のように、19世紀に入るとイギリスは世界各国に植民地を広げ、経済的な影響力を拡大しました。特にアジア・アフリカ・オセアニアなどで植民地を獲得して、その地域の地政学的な構造が変化します。

一方で、他のヨーロッパ諸国では二月革命以降に、イタリアやドイツなどの新興国が成立し、国境の再編も進みました。これによってヨーロッパの地図が大きく変わっていきます。

アメリカ合衆国では19世紀に領土を西に拡大し、国内外で影響力を持つようになりました。政策ではモンロー主義に基づき、ヨーロッパの干渉から距離を置いています。

こうした事を踏まえながら次回は、19世紀後半について書いて行きたいと思います。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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