現代史

【日米関係】日本とアメリカの同盟関係と安保関連法案による変更

2015年9月に安保関連法案が可決され、安全保障に関するルールが色々と変わりました。

この改正での大きな目玉は、集団的自衛権の行使について部分的に認められた事です。

これまで、内閣法制局が憲法違反としてきた集団的自衛権の行使が認められた事により、日本との密接な関係にある国が攻撃され、日本の平和や私たちの生命が脅かされる事態になると集団的自衛権が行使できるとされました。

また、後方支援活動の内容も拡大し、日本の安全に重要な影響を与える事態に関する事で他国が戦闘を行っている時、戦闘現場以外での自衛隊の弾薬の提供や戦闘機への給油作業が可能となりました。

 

建前上【密接な関係の国】とされていますが、この密接な国こそがアメリカで、この法律の目的は日本とアメリカがアジア太平洋地域での安全保障に共同で取り組んでいく体制を強化する事です。

この法案以降、日米共同訓練の回数が増え、防衛面での日米の連携が強化されています。

 

前置きが長くなりましたが、集団的自衛権の行使が違憲であると声が多い中、なぜ日本(政府)は日米同盟強化による安保関連法案を変更したのでしょうか??

 

安保関連法案成立と防衛ガイドライン

答えは簡単です。

アメリカがそれを望んでいたから】と言っても過言ではありません。

 

戦後アメリカは、世界の警察として世界中の様々な問題にかかわってきましたが、2013年のオバマ大統領時代に【アメリカは世界の警察ではない】と発言した事で介入が消極的になり、次第に各国だけで世界の安全を維持するのが難しくなりました。

アメリカが世界の警察をやめてしまうことがあれば、そこに空白地帯が生まれ特に我々の住むアジア太平地域では中国の台頭を許してしまうことになります。

そこでアメリカは、【この地域は、アメリカだけで守ることはできないから日本も手伝ってね♡】と要求するようになったのです。

 

日本政府としても、中国の台頭や北朝鮮の脅威が迫る中での東アジア地域のアメリカ撤退は避けたいので、強引ながらも安保関連法の成立に踏み切ったのです。

また、日本がアメリカと約束したのは【アジア太平洋地域を一緒に守ること】だけではありません。

安保法案成立に先立つガイドラインには、【日本の平和と安全に重要な影響を与える事態に地理的に定めることができない】と書かれています。つまり、日本は【日本の安全を脅かす事態については地球の果てまで付いていく】事を約束したのです。

 

第二次ガイドライン第三次ガイドライン
武力行使日本が攻撃されたとき

↓ ↓

日米が共同対処行動を実施

日本が攻撃されたとき

↓ ↓

日米が共同対処処理を実施

他国への攻撃も対応

集団的自衛権の行使

後方支援朝鮮半島などの日本周辺に限定する地理的に制限なく地球規模
グレーゾーン事態

(離島の不法占拠)

記述なし監視や偵察、軍事演習などにより平時から切れ目のない対応
調整メカニズム周辺の事態や日本での有事のみ発動2015年11月同盟調整メカニズムの構成

 

日米ガイドラインの歴史

日米ガイドラインとは、日本が外国から攻撃されたときに自衛隊と米軍がどう協力するかの役割分担を決めた文書です。

これまで、日本とアメリカの間で結ばれた防衛に関するガイドラインは、日本の領土が武力攻撃を受けた際に自衛隊と米軍がどのように協力するかが決められましたが、2015年に安保関連法案と第3次日米ガイドラインが決められ、安全保障による日米同盟の在り方が大きく変わりました。

 

1978年福田赳夫内閣時の第一次日米ガイドラインでは、ソ連軍による北海道への侵攻を想定した内容となっており、ガイドライン策定後に日米間で具体的な共同訓練が実施されました。

1997年の第二次日米ガイドラインでは、日本の領土の防衛に加えて周辺での日本の平和維持の為に日米がどのように協力体制をとるか定められました。周辺に事態が発生したときに法的にも自衛隊が日本の領土外に出て活動できるようにした法律が周辺事態法でした。

2001年には、アフガニスタンを攻撃しているアメリカの後方支援をするためのテロ対策特別措置法が成立し、2003年にはイラク復興に際し自衛隊を派遣して協力するために、イラク特別措置法が制定されました。

こうして、時代が進むごとに日米同盟の中で日本の責任が重くなっていきました。

日米ガイドラインの転換期

1980年代まで、自衛隊は日本領土を守るために存在しており、海外の活動は想定されていませんでした。また、日本人の多くが平和を守るためには他国の戦争には関わらないことが重要と考えていました。

しかし、この考えが根本的に覆されるのが1991年湾岸戦争でした。

当時、アメリカの大統領【ジョージ・ブッシュ(父)】が、多国籍軍で戦う際には、自衛隊にも後方支援をしてもらう必要があると日本政府に依頼しました。しかし、自衛隊の買いが派遣は憲法違反になりかねないことから政府はこれを断念しました。

その代わりに実施したのが、多国籍軍への130億ドルの資金協力でした。

ところが、この資金協力は国際的な評価が低く、湾岸戦争後のクウェート解放に貢献してくれた国々に向けて出したアメリカの感謝の新聞広告には、日本が含まれていませんでした。

この出来事は日本にとっては大きな痛手で、日本が今後国際協力を果たすには、一国平和主義ではいけないという声が強くなりました。

1992年には、国連平和維持活動への自衛隊の派遣を可能にしたPKO協力法成立し、アメリカに日本を守ってもらうだけではなく日本自身も米軍にもっと協力をしなければいけないと、周辺事態法や安保関連法の改正へとつながるのでした。

 

日米ガイドライン改定年と当時の首相理由と主な脅威
第三次 ガイドライン2015年に改定【安倍晋三中国の対外進出を念頭に東シナ海の有事を想定
第二次 ガイドライン1997年に改定【橋本龍太郎】核開発問題がくすぶる朝鮮半島の有事を想定
第一次 ガイドライン1978年に改定【福田赳夫】東西冷戦の激化に伴うソ連の日本侵攻を想定

 

冷戦構図の中でアメリカの庇護を受ける

1991年に湾岸戦争が起きのは、冷戦が終結した直後の事でした。

この冷戦終結も日米関係の在り方を考える大きなターニングポイントとなりました。

太平洋戦争に負けた日本は、アメリカ【GHQ】の占領下でしばらく統治がなされました。当時の占領政策は、日本が二度と大きな大国にならないように軍事力や経済力をそぎ落とす政策がなされました。

しかし、東アジアの社会主義国家の中国や北朝鮮が誕生すると、日本をこの地域の防波堤にするために占領政策を転換します。日本を資本主義陣営に引き込み経済復興や早期独立を支援することにしました。

1951年に、日本はサンフランシスコ平和条約に調印すると米軍を日本に駐留させるための日米安全保障条約を結び、日本が社会主義陣営の脅威から守るための最前線基地となりました。

この日米安保は、当時の日本にとってもメリットが大きく、自国の防衛を駐留している米軍に肩代わりしてもらうことによって防衛費を削減し、その分を経済政策に充てることができたので後の高度経済成長につながりました。

 

しかし、冷戦の終結によりアメリカにとって日本は、無条件で守るべき相手ではなくなりました。以降、アメリカは、自国の世界戦略にどのような貢献を果たしてくれるかを強く求めるようになります。

 

日本の戦後復興とGHQの民主化政策 太平洋戦争敗戦直後の日本は深刻なダメージを受けていました。 物不足で通貨が乱発されたために驚異的なインフレが起き、食料不足...

 

かつては最大の敵国だったアメリカ

アメリカと日本の関係は、第二次世界大戦後になってからの事です。

それ以前は、アメリカは最大の敵国でした。

1941年12月に日本は米英に対して宣戦布告をし太平洋戦争がはじまりました。

日本は初戦こそ制しましたが、アメリカの軍備か整うと戦局が一変し、1945年の東京大空襲では約10万人の使者を出し、沖縄戦では軍民合わせて約18万人がなくなりました。また、1945年の8月には広島と長崎に原爆が投下され、ついにはポツダム宣言を受諾し日本は降伏をします。

開戦当時は、日米のGDPは12倍のもの開きがありアメリカとの戦争そのものが無謀なものでした。日本の上層部も日米開戦は避けたいと考えていたほどです。

それでも開戦に踏み切ったのは、日米戦争の泥沼化にあったと言います。

当時中国には、米英が物資の援助をしていました。そこで輸送路を断つために日本は、東南アジアへ進出を決め、戦争遂行に必要な資源を確保するため南進を目指しました。

この日本の行動に態度を硬化させたのが、アメリカで鉄鋼や銑鉄、銅・亜鉛など対日輸出を次々と禁止しを決定しました。当時の必要な石油の4分の3をアメリカから輸入していた日本が、石油の輸入禁止を受けたことによって息の根を止められると同じでした。

この政策に追い込まれた日本は、戦力差があるにもかかわらずアメリカとの開戦に踏み切ったとされています。

第二次世界大戦の開戦から太平洋戦争への経緯 以前、世界恐慌から第二次世界大戦への記事では、大戦の引き金となった事件などを踏まえながら、第二次世界大戦の開戦の経緯を書きました。 ...

アメリカとの対立は第一次世界大戦から

日本とアメリカの対立は大地次世界大戦からでした。

第一次世界大戦では、連合国側についた日本は、ドイツに宣戦布告。ドイツが中国から租借していた山東省のチンタオやドイツの領南諸島を占領します。さらに中国に対して、山東省のドイツの権利の継承や南満州などの権利強化など含めた要求を行い、中国に認めさせました。

こうした領土的野心むき出しの日本に不信感を抱いたアメリカは警戒心を強めました。

 

権益強化を狙い日本も参戦した第一次世界大戦 第一次世界大戦を始める前に、1914年のサラエボ事件から1919年のベルサイユ条約までの年表を書いておきますので、こちらを参考しなが...

 

一方でアメリカは、中国の主権を尊重しており、市場開放後に各国が平等に市場競争すべきと考えていました。日本は、日露戦争や第一次世界大戦で得た権利を死守・拡大したいと言う思いがありました。

とはいえ、アメリカを中心とした西洋諸国とは国際協調路線をとらざる得なくなり、1921年から始まったワシントン会議では、中国における主権尊重・門戸開放・機会均等を定めた九か国条約にも調印します。

しかし、1931年に日本の軍部が満州事変を起こし、主要地域を占領します。

そして、日本は傀儡国家として満州国を建国しました。

1937年には、日中戦争に発展し日本の国際協調路線は破綻し、アメリカとの関係も最悪なものとなり戦争へと突き進むのです。

 

サンフランシスコ平和条約の調印と連合国による占領政策の終了 平和条約とは、戦争状態にある交戦国間での戦争を終了させる目的で結ばれる条約で、戦後の両国間の政治的・定在的な条件や領土、立場...

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。