東アジアが激動の渦に...!アヘン戦争の背景や流れ、結果までを詳しく解説
1840年に起こったイギリスによる対中国の侵略戦争がアヘン戦争です。
当時の王朝・清は建国以来、名君たちによる統治が続いていましたが、
- 外征による財政の圧迫
- ヨーロッパで重商主義政策が取られる中(16~18世紀)、お茶や陶磁器、壁紙などが大流行【シノワズリ(17世紀頃)】
→ 中国との交易を求めるヨーロッパ諸国が登場
したことで、清の状況は悪化していくことになりました。
ここでは、アヘン戦争に至るまでの清の状況や背景、アヘン戦争がどんな戦いだったのかをまとめていきます。
イギリスが清に接近?
大航海時代以降、アジア市場に進出し始めていたヨーロッパ諸国。
初めに頭角を表したのはポルトガルでしたが、その後の市場争い・植民地争いでヨーロッパ諸国同士がぶつかり合うようになりました。
最終的にアジア市場進出をかけて生き残ったイギリスとフランスが植民地をめぐってアメリカ大陸で戦ったフレンチ=インディアン戦争(1755~63年)を起こしている真っただ中。
ヨーロッパのアジア進出の動きに対して、当時の清朝の皇帝・乾隆帝が動きました。1757年に海上貿易を行う港を広州のみに制限することに決めた他、公行と呼ばれる特権的商人にのみ貿易を独占させることにしたのです。
この裏には銀の国外流出を防ごうとする狙いと貿易の利益を清朝が独占したいという狙いがあったようです。
そんなわけで「外国人側は清の官僚と直接交渉することもできない」といった状況が続いており、公行以外の商人との取引も望むようになります。
一方で、清に接近しようとしていたイギリス・ロンドンでは1706年に紅茶専門店が誕生したほか、シノワズリの兆候が表れはじめます。イギリスにとって大きな利益になりそうな商品が清には多くあったのです。
※イギリスだけでなく、東インド会社の活動が盛んなオランダでも兆候があったようです
そこで、1792年にイギリスは外交官・マカートニーを中心とした使節団を派遣します。
主に茶貿易の安定化を図ることを目的に...また『茶の栽培』や『製造』に関する情報を仕入れること、日本やベトナム南部方面(コーチシナ)への進出も視野に使節団を派遣したそうです。
ちなみに現在ではお茶の産地として知られているインドですが、自生の茶樹アッサム種が発見されるのは1834年のこと。もう少し待たなければなりません。
使節団派遣の翌年、乾隆帝に謁見しますが、あくまで朝貢使節団としてしかみなされず失敗に終わったのでした。
なお、マカートニーは日本への使節団も主張しますが、乾隆帝謁見の年は既にフランス革命戦争(1792年~)が発生しており、日本に向かう際にフランスから攻撃されることを危惧して諦めています。
この後、違う皇帝とは謁見すら許されず清との対等な貿易は暗礁に乗り上げるかに見えたのですが...
三角貿易の開始
制約こそあったものの広州での貿易は拡大し続けていました。中でも紅茶貿易の拡大は激増中。
逆にイギリスから清へ輸出する商品はほぼなく、一方的にイギリスから清へ銀が流出する事態が続きます。
そこでイギリス東インド会社が目を付けたのが明代末期から中国で広まっていたアヘン吸引の習慣です。インドで作られたアヘン(麻薬の一種)を輸出することにしたのです。
インド(当時はムガル帝国)は17世紀の段階でイギリスに拠点を作られて以降、内部抗争に乗じてムガル帝国内部の領主たちに軍事支援や財政支援を行う代わりに徴税権を奪われ、ほぼ全土を支配下に置かれてしまいました。
1780年にはイギリス東インド会社がベンガル地方でアヘン専売権を獲得しています。
そんなわけでインド産アヘンを中国に売りつけることは割と容易にできる環境にあったわけですね。これはいわゆる三角貿易と呼ばれています。
当時のイギリス事情を簡単に
詳しいことは別記事でまとめますが、18世紀半ばごろにイギリスでは産業革命がおこっていました。
1733年には「飛び杼」と呼ばれる手動織物機の生産性を大きく引き上げるメカニズムが誕生し、その後も次々と綿織物を効率的に作る紡績機が作られます。
1785年にはとうとう水力を動力源とした自動化された織物生産システムが開発され、綿織物が大量生産できるようになりました。
そうした背景からイギリスはインドから綿花を輸入し、国内で安い綿製品を生産、インドに綿製品を売るという土壌が出来上がっていたのです。
清、アヘン対策に乗り出す
もともと痛み止めや麻酔の効果で知られ薬用として使われていたアヘンは依存性が強く、吸引しすぎると健康被害を及ぼすことでも知られています。
密輸が増えてアヘンの悪弊が清国をむしばみ、さらに大量の銀貨流出を問題視した清の中央政府はアヘン吸引者を死刑とする厳禁論を採用し、アヘン厳禁論を奏上した林則徐(1785-1850年)を欽差大臣に任命すると、広州に派遣しました。
清でアヘンが急速に広まった理由とは?
清朝の交易は、かつて乾隆帝の時代に公行と呼ばれる仲介業者に独占させる仕組みを作り上げていました。この公行は貿易を独占するだけにとどまらず、徴税も請け負います。
ですが、アヘンはあくまで密貿易品だったので、そもそも国の統制が困難な商品でした。
そのうえ取り締まるべき立場の人たちがアヘン貿易業者から目こぼし料をもらっており、彼ら自身もアヘン常習者となっていることが多く取り締まりが機能しなかったようです。
銀不足と農民の不満
取り締まりが機能せずにアヘンを大量に購入していたことで、清国内では銀の流出に歯止めがかからなくなっていました。
が、清の納税方法は康熙帝の頃から地丁銀法に代わっています。土地税を多少上げる代わりに人頭税を廃止する税金を銀一括で支払う方法ですね。
清の人口の大半を占める農民たちが普段から使用しているお金は銅銭だったわけですが、納税の際には銅を銀に変える必要がでてきます。
ところが、清国内から銀が流出して銀の絶対量が足りなくなると、銅 ⇔ 銀 のレートが大きく変わってしまいました。供給量の少ない銀が大幅に高騰。実質的な増税となりました。各地で税金の不払いが生じただけでなく、中国経済が徐々に追い込まれることとなったのです。
アヘン戦争(1840~42年)
欽差大臣として広州に赴いた林則徐は、広州郊外の商館地区を封鎖して外国人商人に圧力をかけて、清に持ち込もうとしたアヘン約1400トンを没収。
焼却しても再製できることから海水と生石灰による化学反応で、23日かけて完全に処理しています。
この行動に対して、イギリス政府は武力による対等な外交関係を構築するチャンスと考えました。
一方で、清で道徳的退化を引き起こした原因のアヘンの密輸を認めさせる戦争をすることに対して、清教徒を中心とした議員たちの中には反対する者が多くいたそうです。
のちに首相となる若き日のグラッドストンもその一人で
これほど正義に反し、この国(イギリス)を恒久的な不名誉の下に置き続けることになる戦争を私は知らない!
と反対演説を行いました。
それでも清がアヘン密貿易を取り締まったのは
清がアヘンを取り締まるのはあくまで国民のためではなく銀のため!
イギリスの財産が不利益を被ったことを理由に攻め込むのは当然だ‼
こうした論戦が本国で行われた末に、賛成271票、反対262票と僅差で清国への出兵予算が通ることとなったのです。
アヘン戦争の結果
処理されたアヘンの賠償を要求するも清から拒否されて完全に派兵が決まったイギリスは艦隊を率いて清へ侵攻。1840年6月に広州湾にイギリス艦隊が到着すると、事実上、アヘン戦争が開戦しました。
ところが、広州には大量の兵を集めた林則徐が待ち構えており、予想以上の抵抗を受けることになります。
そこでイギリスは防備の手薄な地域に向かって攻略しながら、首都北京に近い天津沖に入港することに。
上海は占領され、大運河の起点を占拠されて首都・北京への食糧供給ルートが遮断されたうえに南京まで迫られたため、皇帝・道光帝は林則徐の
一歩引けば、敵はさらに一歩踏み込みますぞ…!!
という徹底抗戦の主張を抑え込んで開戦の責で左遷させ、和平交渉の方向に舵をきったのでした。
南京条約の締結(1842年8月)
アヘン戦争でイギリスに屈服した清は
- 広州以外に上海・寧波・福州・厦門の5港を開港
- 香港島の割譲
- 公行の廃止
- 2100万ドルの賠償金の支払い
- 清朝とイギリスの官憲の対等交渉
という内容の条約を結んでいます。
が、実際にはこれだけでは済みませんでした。よく1843年には五港通商章程および虎門寨追加条約が追加されました。
五港通商章程
開港した五港の取り決めで
- 広州・上海・寧波・福州・厦門の五港でイギリスの領事裁判権(治外法権)を認めること
- 関税自主権を失い関税率を5%という低水準で固定すること
が決められています。
この段階で完全に不平等条約の締結となり、西洋列強との不平等な関係に置かれることとなりました。
虎門寨追加条約
この虎門寨条約でイギリスは片務的な「最恵国待遇」が認められています。
「清が他の国に対して何らかの特権を与えた場合は、自動的にイギリスにも同様の特権を認める」という内容です。
これらの不平等条約はすぐに他の国の知ることとなり、1844年にはアメリカと望厦(ぼうか)条約を、フランスとは黄埔(こうほ)条約を結ぶことになったのです。