イスラーム世界の拡大・トルコ系民族の台頭<中東の歴史>【10~13世紀】
7世紀前半に預言者ムハンマドによりイスラム教が誕生すると、半ばにはアラブ人の起こしたイスラーム帝国・ウマイヤ朝が、続けてウマイヤ朝に反発する形でアッバース朝が興りました。ところが、このアッバース朝も分裂。かなり規模を縮小させています。
イスラム教の宗教的指導者をカリフと呼んでいましたが、カリフを自称するトップを抱えた国が3つも誕生し、中東でも戦国時代のような状況となっていったのです。
この不穏な空気を一変させたのがトルコ系の王朝の誕生で、ここにきてトルコ系民族がイスラーム世界の中心的存在になっていきました。
今回はこうしたイスラーム世界の変化をまとめていきます。
カラ=ハン朝の誕生
10世紀ごろのイスラーム世界での大きな変化はカリフの乱立によるイスラームの宗教的指導者が形骸化してしまったこと。そして、もう一つがトルコ民族最初のイスラーム国家・カラ=ハン国が中央アジアに誕生したことです。
トルコ系の民族といえば現在トルコがあるアナトリア半島にいたと思いがちですが、実際に最初に出てくるのは中国史の資料です。中国の北方にいる遊牧民として書かれており、その後中央アジアのトルキスタンの辺りに定住したと言われています。
中国と北方遊牧民の関係といえば、散々中国の歴代王朝が苦しめられていたイメージ。実際にトルコ系の民族的な特徴としても体格の良さなどから戦闘に適性があるとも言われており、イスラーム世界でも傭兵や奴隷兵として戦闘に参加していました。
このような形でイスラーム世界に関わっていたトルコ系民族がカラ=ハン国の建国を機に次々と各地にトルコ人国家を建設、戦国時代に近い様相を呈したイスラーム世界に一石を投じています。
トルコ系民族による国々の建国
カラ=ハン国の誕生から始まり、ガズナ朝、ホラズム=シャー朝と建国された後、11世紀に誕生したスンナ派のセルジューク朝。このセルジューク朝がイスラーム世界の主役に躍り出たのでした。
トゥグリル=ベク(「鷹の君主」という意味)が中央アジア〜アラビア半島に勢力を広げ、シーア派のブワイフ朝に支配されていたバグダードを占領。この頃にはまだスンナ派のアッバース朝が存在しており、このアッバース朝のカリフをシーア派のブワイフ朝から解放したため、助けてくれたお礼としてスルタンの称号を与えています。
スルタンとは君主や支配者を意味する言葉です。
こうしてセルジューク朝では「宗教的指導者から統治権を与えられて国をおさめる」という形に変化したのでした。
また、セルジューク朝では各地に王子や一族の有力者を送り込むことで統治するという方法をとっていたのですが...
十字軍の遠征とセルジューク朝の衰退
3代目のスルタン、マリク=シャーが最盛期を築くも宗教政策の失敗により衰退、各地に送り込まれた親戚たちが独自勢力を築き上げることになりました。ルーム=セルジューク朝は、そんな地方政権の一つです。
また、セルジューク朝といえば十字軍遠征のきっかけとなった国でもあります。セルジューク朝が勢力拡大していた際にイェルサレムも支配下に置いたため、聖地奪還を理由にヨーロッパから十字軍が遠征してきたのです。
こうした遠征が度重なり、地方政権もまた衰退していき、さまざまな国が興っては消え…を繰り返すことに。
イラク=セルジューク朝の一部から起こったザンギー朝。さらにザンギー朝からエジプト(エジプトにはファーティマー朝が存在)に派遣されたクルド人将軍のサラディン(サラーフ=アッディーン)がファーティマー朝の宰相となって実権を握った後にアイユーブ朝を建国。
そのアイユーブ朝が軍を作るために購入したトルコ人奴隷兵(=マルムーク)達を組織化して軍団を形成させますが、今度はマルムークの勢力が強大となってアイユーブ朝を倒し、マルムーク朝を築き上げました。
※アイユーブ朝は第3回十字軍でリチャード1世らに攻め込まれた国です
モンゴル帝国の台頭とマルムーク朝の衰退
そうした事態に13世紀に入ると東方から新たな難敵がやってきます。世界史に大きな影響を与えたモンゴル勢力の台頭です。
西アジアへ進出されて1258年にはバグダードが陥落。アッバース朝は完全に滅亡して600年以上続いたカリフ制度が消滅してしまったのでした。
イル=ハン国やチャガタイ=ハン国は、そうしたモンゴル系の国家です。
このモンゴルによる侵入をマルムーク朝は退け、アッバース朝のカリフの後裔を新たなカリフとして擁立。
首都をカイロとし、モスク(礼拝所)や学院を次々と建設。マルムーク朝の基盤を整えたのですが、15世紀半ば以降になると度重なるペストの流行、スルタン位をめぐる争いなどが続き衰退していくのでした。