西アジア・インド

古代オリエントの統一

歴ブロ

紀元前20世紀、北メソポタミアの一部にアッシリア王国という国が興りました。このアッシリア王国は時にミタンニ王国に服属しているほど小さな勢力でした。

そんなアッシリア王国エジプト新王国と共にオリエント世界の二大勢力の一つにまでのし上がったヒッタイトとも攻防を繰り広げるまでに成長します。

そんなアッシリアも衰退しアッシリア領土には別王国が分立することに。さらに、その分立した王国を制圧したのはイラン人(ペルシア人)のキュロス2世でした。いわゆるアケメネス朝の建国です。

今回はそんなアッシリア王国~アケメネス朝までの動きをまとめていきます。

 

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アッシリア王国とは??

紀元前2000年から前1001年の間というハッキリとしない時期に生まれたのがアッシリア王国。ティグリス川の上流地帯で生まれたと言われています。

メソポタミアにはウル第3王朝をはじめとする複数の王朝があり、北メソポタミアにあるアッシリア王国は小アジア(=アナトリア)方面との中継貿易を担っていました。

 

※北メソポタミアはアナトリアとメソポタミア中央部・南部の間にあります。

 

やがてウル第3王朝がペルシア湾北部のエラムにより滅亡すると、アムル人によるバビロン第一王朝が隆盛の時期を迎えます。その間もアッシリア王国は雌伏して時を待ち続けました。

紀元前17世紀のオリエント世界の変遷図

 

やがて前15世紀となり、フルリ人の興したミタンニ王国に服属し、アッシリアの冷遇時代は続きます。

ところが、さらに時が過ぎてミタンニ王国は半分がヒッタイト領、もう半分がヒッタイトの朝貢国となることに。この時に乗じてアッシリア王国は独立を果たします。鉄製の武器と戦車・騎兵隊などを用いて前7世紀前半にメソポタミア~エジプトまでの全オリエント征服しました。

この頃のアッシリアは世界帝国とも言える程勢力を広げており、アッシリア帝国と呼んでも差し支えありません(教科書ではアッシリア王国の標記ですが、実際にアッシリア帝国で調べてもかなりヒットしますし書籍でもアッシリア帝国の標記を目にします)。

アッシリア王は強力な専制体制の元で政治・軍事・宗教を管理。

  • 国内を州にわける
  • 駅伝制の整備
  • 各地に総督を置く

などを行っています。

 

ところが、これだけ栄えたアッシリア王国も重税・圧政により内部の反発を招いて前612年に崩壊したのです。

 

4王国の分立

アッシリア王国が分裂すると、オリエント世界には

  • エジプト
  • リディア(アナトリア半島)
  • 新バビロニア
  • メディア(イラン高原)

の4王国が生まれています。

 

アッシリア王国崩壊後のエジプト

アッシリア王国は圧政の末に崩壊し、新王国後のエジプトはリビア人支配による王朝が再開。アッシリアの東のイラン高原に興ったメディアとメソポタミアの新バビロニアは同盟を組みアッシリアを攻撃したのに対し、エジプトはアッシリアを助ける方に舵を切ります

エジプトはアッシリアの服属下にあったユダ王国を通ってメディア王国・新バビロニア帝国連合軍との戦いに出ようとカルケミシュ(トルコとシリアの間辺り)の方へ向かおうとするもののユダ王国の王にそれを断られ、ユダ王国とエジプトとの戦いが勃発する中でユダ王国の王が戦死。

ユダ王国はエジプトの支配領域に組み込まれ、貢納国となりました

一方、当時のエジプトの敵だったメディア王国・新バビロニア帝国連合軍との戦い、カルケミシュの戦いでは敗北。それ以降、新バビロニアの支配が強くなったシリアへの軍事進出を断念せざるを得なくなってしまいました。

 

アナトリア半島に生まれたリディアとは?

世界で初めて硬貨を使用した国家としても知られているリディア(リュディアとも)。

紀元前1190年頃に内紛と食糧難、海の民侵入により滅亡したヒッタイト滅亡後のアナトリア半島ではフリギア王国が頭角を現しつつ、他は小さな都市国家群で形成されていました。そんな中で台頭していった国がリディアです。

東にあったフリギアとギリシアの中間地点に位置して交易の中心になり得たこと、領土内で金が産出したことで、他国よりも栄える要素を持っていました。

そのうちフリギア王国はウクライナ方面からやってきた遊牧騎馬民族のキンメリア人に侵略されます。リディアもキンメリア人の侵略を許しますが撃退し、これを機にフリギア王国はリディアに組み込まれることになります。

 

新バビロニアとは??

エジプトは周りを砂漠に、リディアは周りを山に囲まれ侵略を阻みやすい位置にあったのに対し、アッシリアとの直接対峙をしていたのがバビロニア諸王朝です。

アッシリアが何度も軍事力をチラつかせて介入してきたことでバビロンの王朝が東隣のエラムの後ろ盾を得て『反乱を起こして鎮圧される』のを何度も繰り返すように。さらにバビロンの王朝はアッシリアの王位を巡る争いに巻き込まれ大混乱に陥ります。

そんな中で即位した王が、抗争によりアッシリアに対して優位を保つよう導き始めます。そして、とうとう紀元前612年にはイラン高原に生まれたメディアと協力してアッシリアを滅ぼしました。

四カ国の中で最も栄えており、前6世紀前半にはパレスチナのエジプト勢力を排除しています。パレスチナ遠征を二度行ってエジプト勢力下にあったユダ王国を滅ぼしますが、その際にユダヤ人を新バビロニアの首都バビロンへ強制連行したと言われています(バビロン捕囚)。

 

イラン高原に誕生したメディアとは??

紀元前8世紀末に興った四王国の中で最も広い領土を誇るのがメディアという国で、中央アジアにまでその支配領域を広げています。

イラン高原ではゾロアスター教と呼ばれる宗教が紀元前6世紀以前に既に成立しており、このメディア王国の支配領域拡大によりゾロアスター教が広範囲に広がったとも言われています(ペルシア人商人によって広まったとも)。

メディア王国が栄えたのは60年と非常に短く、メディアに服属していたペルシアの王・キュロス2世らによる反乱で滅亡しています。

このキュロス二世こそが後の大帝国を築いていくことになるのです。

 

キュロス二世が築いたアケメネス朝とは?

キュロス二世率いるペルシアは紀元前550年にメディアを滅ぼしイラン高原を掌握。アケメネス朝を開きます。

更にアッシリア帝国後のオリエント世界に興ったエジプトを除く三王国エラム王国も滅ぼし、前539年にはバビロンを開城。捕囚となっていたユダヤ人を解放しています。

また、アケメネス朝の王たちはゾロアスター教を信仰していたとも言われていますが、他の宗教には寛容でした。ユダヤ教に対しても他の宗教政策と同様です。エルサレムの神殿の再建などに協力的だったこともあって、キュロス2世は旧約聖書で救世主(メシア)と呼ばれています。アケメネス朝統治下でユダヤ人は一度も反乱を起こさなかったそうです。

キュロス二世の息子の代になるとエジプトまで併合しオリエント世界まで統治下に置くも、死後はペルシア系司祭階級の一人による王位簒奪事件を受けて7人の貴族達がその司祭を打倒し、その後の統治法を話し合った結果…話がまとまらずに城の外に馬で遠乗りをして

『日の出と共に最初に馬がいなないたものが王になる』

とちょっと驚く方法で3代目の王を決めています。日本史にもくじ引きで決めた将軍がいたので、ひょっとすると世界的にも珍しくないのかもしれませんが…

アケメネス朝最大版図
アケメネス朝最大版図
アケメネス朝(wikipedia)より

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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