世界史

トルコ系民族がアナトリア半島に行き着くまでの経緯とは?【民族史】

歴ブロ

前回、オスマン帝国以前のアナトリア半島にあった国々の変遷をまとめてみました。そこでも少し触れていますが、トルコ系民族はずっとアナトリア半島住んでいたわけではなく遠い昔は中国北方のモンゴル高原の辺りに暮らしていたと言われています。

今回の記事では、トルコ系民族がどういった地域でどんな国々を作っていたのか、民族に焦点を当ててまとめていこうと思います。

 

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現在のトルコ系民族の分布を見てみよう

下の地図を見て分かるように、北はロシアの東北部から中央アジア、西アジア、そしてアナトリア半島と非常に広い範囲に住んでいるのが分かります。

テュルク系民族分布地図

彼らの祖先はモンゴル高原のバイカル湖南方~アルタイ山脈の間に住んでいたと言われています。

内陸アジアの風土

そんなトルコ系民族に言及されたのが紀元前3世紀頃の中国の記録。その発音から『丁令』『丁霊』『丁零』と表記され、モンゴル系遊牧民の匈奴による支配を丁令が受けた旨が記載されています。

その匈奴が分裂し、混乱に陥った際にトルコ系民族も移動したと考えられているようです。

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同時に匈奴がトルコ系...という説もあり、モンゴル系だったのかトルコ系だったのかで議論されたりもしたのですが、遊牧民という特質に加えて居住地域が交易路と重なる部分が多く、どちらも混血が進んでいるためハッキリと言えないのが現状というのが本当のところだそう。

トルコ系の民族は人種的に初期の時点ではモンゴロイドだったと言われ、(618~907年)の時代までは東アジアでもよく見る黒髪・直毛・黒目という特徴を持っていました。

 

トルコ系民族が作ったと言われる最初の国とは?

中国史に出てくる北方の異民族の国として有名な突厥。6世紀半ばに出来たこの国がトルコ系民族による最初の大帝国です。ちなみに突蕨は文字も持っていて、突蕨以降のトルコ系民族もこの突厥文字や似た系統の文字を使っています。

※4世紀に出来た『鮮卑』はトルコ系説もありますが、モンゴル系+ツングース系の混血説もあり。また、5世紀に出来た中央アジア『エフタル』もトルコ系説の他、イラン系の可能性も指摘されています。

 

その突厥が出来た後に南方で581年にが、618年にはが建国されました。

隋が建国されたのと同年、突厥ではトップ可汗(かがん/君主号の一つ)が病死したのをきっかけに内部で争いが起こるようになっていきます。

隋はこの諍いに乗じて突蕨の離間策を決行。突蕨は東西に完全分離しますが、対突厥を意識しすぎたは、突蕨と同盟を組んでほしくない相手・NO.1の高句麗に侵攻しすぎてに足元をすくわれ滅亡しました。

7世紀勢力図

その後に起こった唐では羈縻政策と呼ばれる地方政策が行われており、二手に分かれた東西突蕨も緩やかな支配下に置かれるようになっています。

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東突厥って??

その名があらわす通り、分裂した突厥のうち東側の勢力です。

隋の衰退を見て朝貢を中止し、隋に侵入。唐の時代に入っても度々中国に侵攻し略奪を行っています。そのたびに唐に撃退されますが、力を取り戻しては侵攻を続けるため唐は手を焼いていました。

ところが、鉄勒(後述)をはじめとする諸民族が東突厥に対して離反し始めます。これをチャンスと見た唐の第二代皇帝が大規模な東突蕨討伐を行い羈縻政策の支配下に。

勿論ずっと支配下にいるような東突蕨ではありませんでした。唐内部で律令国家の綻びから軍制が変わり、他の諸民族達も独立の動きを見せ羈縻政策が破綻しつつある中で独立を獲得しています。

 

独立後も唐には度々侵攻したり略奪したりしていましたが、交易重視の政策を遂行する可汗になると、唐との関係も良好なものへと変化していきます。

ただ、この可汗が亡くなった後の東突蕨は急激に衰退していくことになりました。

西突厥って??

突蕨から分離したもう一つの西側勢力で中央アジアのオアシス地帯を支配していました。さらに西のイラン高原にあるササン朝と隣接しますが、両国関係は正直あまり良くないので、黒海経由でビザンツ帝国との交易を行っていたようです。

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分裂以前の時代も含め突厥は約200年程繫栄しましたが、最後は8世紀中頃に同じトルコ系のウイグル(回紇)によって滅ぼされています。

 

鉄勒とウイグル

この頃のトルコ系民族は既に中央アジアにも進出しており、突蕨以外のトルコ系民族を表す『鉄勒』という言葉が隋・唐時代の中国で新たに使われはじめました。ウイグルは鉄勒の一部族に当たります。

突蕨衰退の隙をついてモンゴル帝国の覇者となったウイグルは、唐との貿易やビザンツ帝国との交易の中で更に台頭していきました。逆に同時期の唐では衰退が進み安史の乱が勃発。ウイグルはこれに介入して唐を助けています。

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ところが、ウイグルでも内部争いが発生して東西に分裂。ウイグル支配下にいた同じトルコ系のキルギスがモンゴルで勢力を伸ばし始め、9世紀になるとウイグルの多くが南方(現在の新疆ウイグル自治区)のオアシス都市に移り住んだのでした。

なお、キルギスは9世紀にウイグルを滅ぼし可汗国となりましたが、13世紀にはモンゴル帝国の支配下に入り、16世紀に現在のキルギス共和国の領地に移動しています。

 

トルコ系民族とイスラム教

これまで書いてきたように、突厥が出来て以降のトルコ系民族は徐々に徐々に西側へ進出し中央アジアにまで進出していました。

一方で7世紀初めにアラビア半島で出来たイスラム教も東西に広まり、中央アジアの方へまで信仰されるようになっていきます。

ここでトルコ民族とイスラム教が接触。トルコ系民族はイスラーム教を信仰するようになっていったのです。

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ところがイスラム教の聖典「コーラン」はアラビア語で書かれていたため、ここからトルコ系民族は突蕨の時代に持っていた文字ではなくアラビア文字を使うようになっていきます。

その後のトルコ系民族は、中央アジアだけでなく更に西にも進出。最初に中央アジアのカラハン朝やアフガニスタン~イランの辺りに建国したガズナ朝などイスラーム諸王朝を作っていったのです。

イスラーム諸王朝とキリスト教国家

この辺りはイスラーム世界の拡大・トルコ系民族の台頭に詳しく書いてあるので、良かったら確認してみて下さい。

とにかくトルコ系民族はこのような形で西へ西へと進出。現在トルコのあるアナトリア半島に到着して、その勢力を拡大させていったのでした。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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