後の宗教改革の先駆け!教会勢力の衰退【ヨーロッパ史】
中世後期になると、これまでの様々な国との叙任権闘争だったり内部の勢力争いだったりで「最近のローマ教会は堕落してないか?」状態になりつつあり、批判も聞かれるようになっていました。
こういった批判が各種の異端運動となって現れていきます。
今回はこの異端運動をきっかけにどう教会勢力が衰退していったのか?どんな反教会勢力がいたのか?などをまとめていきます。
宗教改革の先駆け!ローマ教会が批判されて誕生した宗派とは??
代表的な異端宗派として知られるのが、下のような宗派です。
- ワルド派:ワルド(1140頃〜1217年)による批判
- カタリ派:純潔の保持、断食など戒律厳守を求めた宗派
- アルビジョワ派:中でもフランスのトゥールーズ・アルビ地方で広まった宗派を指す
どれも厳しい弾圧を受けることとなっており、中でもアルビジョワ派は庶民だけでなく地方豪族にまで広まっていたため国も巻き込んだ弾圧につながっていきました。
ワルド派とは?
主に南フランス〜北イタリアで浸透していった異端の一派で、12世紀の後半にフランスのリヨンの商人ワルドが、私財を貧民に施し人々に清貧と悔い改めを説いたものです。
当時のような階層制が蔓延する教会を批判、聖書に基づく信仰を主張していきました。
ところが、ワルド派の信仰は異端審問にかけられ
こんな質問をされたそうです。その質問にワルド派は肯定する返事をしました。
ところが、この考え方は
「過去に異端とされたネストリウス派の考え方と同じ」とされてしまったのです。異端審問の際に神学者たちによる意地悪な質問に引っかかってしまった感じですね。
こうしてワルド派は教会側から異端派と認定され激しい弾圧を受けました。現在では北イタリアに2万人の信徒がおり、宗教改革の先駆け的な宗派だったと言われるようになっています。
カタリ派とは??
3世紀頃のササン朝で生まれたゾロアスター教・キリスト教・仏教が組み合わさってできたマニ教の影響を受けて東方でおこったのがカタリ派と呼ばれる宗派です。
カタリ派最大の特徴はマニ教的な二元論と極端な禁欲主義にあります。
二元論は「世界の物事は根本的に『善と悪、精神と物質』のような背反する二つの原理から構成されていますよ」という考え方のこと。
キリスト教では「神(=善)が世界を作った(悪は存在しない)」とする一元論が基本となるため、カタリ派の考え方は相容れませんでした。
11世紀にブルガリアで現れ始め、12世紀にはドイツのライン川両岸やフランス、北イタリアまで普及しています。
アルビジョア派とは?
カタリ派のうち、南フランスで分派しトゥールーズ・アルビ両地方で広まったものをアルビ派もしくはアルビジョア派と呼んでいます。
このアルビジョワ派は何度も弾圧され、その弾圧の一つであるアルビジョア十字軍はローマ教皇全盛期のインノケンティウス3世により提唱されました。
フランス国王フィリップ2世〜ルイ9世の治世の間に何度も遠征したアルビジョア十字軍は、南フランスへの影響力を増やしたいフランス国王の思惑も重なって何度も実行されることになります。
中でも1209年の十字軍ではトゥールーズの住人たちが無差別に虐殺されたそうです。
こうして13世紀後半にはフランスのアルビ派は衰退。ルイ9世の時代にはフランス王国領に含まれるようになります。
フィリップ4世の頃のアナーニ事件と教会大分裂
時はフィリップ4世がフランス国王として統治していた頃のこと。
彼はイギリスを相手に戦った百年戦争の前哨戦につぎ込んだ戦費を回収するため教会への課税を促した結果、当時の教皇ボニファティウス8世と決定的に対立。
フランス軍が教皇の別荘のあるアナーニに襲撃するアナーニ事件まで引き起こしています。これはローマ教皇の権力衰退を完全に表面化させた事件でした。
アナーニ事件が起こった一月後、ボニファティウス8世は死亡。
一度イタリア出身の教皇が出たものの8ヶ月で急死(毒殺が疑われている)し、次の教皇にフランス国王の影響力が強いクレメンス5世がついています。
なお、この頃にローマ教会の中心地であったローマでは神聖ローマ皇帝(兼フランスのルクセンブルク伯、跳躍選挙の時代)のハインリヒ7世が戴冠してもらうためにイタリア入りして大混乱中でした。いわゆるイタリア政策の真っ只中だったのです。
クレメンス5世はアヴィニョンにローマ教会の教皇庁を移して政務を執り行うようになりました。政情不安定なローマよりも元の拠点であるフランスを選びたくなるのも仕方のない話だったのかもしれません。
ところが、クレメンス5世以降も6人の教皇がそのままアヴィニョンに拠点を遷したままフランスの監視下に置かれることになっており、ユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえてアビニョン捕囚と呼んでいます。
この出来事が面白くないのはローマに拠点を置いた側の人たち。さらにフランスと敵対していたり“強い”フランスが気に食わない人たちがまとまるようになりました。
こうして教会勢力は アヴィニョン派 vs. ローマ派 に分かれる教会大分裂(大シスマ、1378〜1417年)の時期を迎えています。
- フランス
- イベリア諸国
- ナポリ
- スコットランド など
- イタリア諸侯
- ドイツ諸侯
- イングランド など
もちろん、この分裂状態という状況は教会の権威失墜を更に加速させていきました。
教会内部の勢力争いを招いて世俗化や腐敗がますます進む結果となり、各地で教会の改革を求める運動が起こり始めるようになっていったのです。
フス戦争への発展
フランスのアビニョンが本拠地となったバビロン捕囚の真っ只中。
イングランドではオクスフォード大学(11世紀末、ヘンリー2世の代で大学の基礎が作られた)の神学教授ウィクリフ(1320頃〜84年)が教皇権の否定と境界が世俗的な富を追求する現状に対して厳しく攻撃するようになっていました。
ウィクリフは教会財産の国庫への没収まで訴え、教会の現状を真っ向から否定したのです。
イングランドの教会および国王の教皇からの独立を主張したほか、聖書主義を主張して聖書の英語訳とその普及に尽力します。
なお、このウィクリフが出てきた背景には黒死病(ペスト)の流行(1348年頃~1420年)が見えてきます。
ペスト(wikipedia)より『中世ヨーロッパにおけるペストの伝播(第二のパンデミック)』を改変
感染者が死を前に罪の告白をするのを聞きいれたり臨終に立ち会ったりする司祭が多くいたため、司祭たちも多くが命を落としました。一気に世代交代の波が訪れたことで、古来からの教義を伝承してきた聖職者ではなく新しい考え方の聖職者が増えていたのです。
これまでのやり方を否定したためウィクリフは当然異端とされましたが、イギリスのランカスター家(プランタジネット家の分家)の祖ジョンのもとで生き延び国内外に大きな影響を与えました。
※エドワード3世は百年戦争を始めた国王
中でもプラハ大学(チェコ)の神学教授であったフス(1370頃〜1415)に与えた影響は非常に大きく、ウィクリフの考えを受け継いだ主張をしプロテスタントの先駆け・フス派として新たな宗派を作り出しています。
当然、ローマ教会には受け入れてもらえず、フスは1415年に異端として処刑されてしまいました。
これに対してフスが拠点としていたチェコ西部のボヘミアにいた大人数のフス派の信者達がプラハで反乱を起こします(1419〜36年)。
当時のボヘミアは神聖ローマ帝国のルクセンブルク家支配下にあり、神聖ローマ帝国皇帝はルクセンブルク家出身のジギスムント。
ということで、ルクセンブルク家支配を嫌って起こした民族主義運動的な側面も強い反乱となっています。
フス派はボヘミアだけでなくポーランドにも広がっていたため、ポーランドにいる信者からの援軍もあって最初の頃はフス派が連戦連勝。バイエルンやザクセンなどといった神聖ローマ帝国内にも侵入するほど優位に戦いを進めていました。
ところが、長い間戦いが続くと小さいところは不利になります。農村の荒廃と人口減少を招き、戦費の調達を巡ってフス派は内部分裂するように。
ちなみに、この内部分裂では主に下のような二派に分かれています。
- タボル派:急進派
- ウトラキスト派:穏健派
さらに、フス派にとって苦難が続きます。フス戦争中に略奪行為を行う地元勢力に辟易していたポーランド王国が本格的に取り締まりを行いはじめたのです。
こうして拠点での居場所をなくしたフス派は最終的に敗北していますが、穏健派のウトラキスト派はキリスト教会と共存するという条件での和睦を結んでいます。
このように、フランスや神聖ローマ帝国といった当時の西ヨーロッパでも影響力を持っていた国々に異端派への十字軍を起こさなければならないほどローマ教会の歪みは大きなものとなっており、これが後々の宗教改革の波に繋がることになりました。