戦国史

戦国時代の記事まとめ・年表

歴ブロ

f:id:miumaga:20181101202640j:plain

記事がたくさんあるので、後から検索しやすいように記事をまとめてみました。年表と共に使ってください。リンク先は今後増やしていきます。

関東での戦国時代に起こった様々な争乱は鎌倉公方と関東管領が絡むことが多いため享徳の乱から年表を作っています。本来ならば応仁の乱が戦国時代の始まりです。

出来事 備考
1455 関東で

享徳の乱が勃発

室町時代に起きた28年断続的に続いた内乱。

幕府の関東統治機関の長官である鎌倉公方・足利成氏による補佐役(=関東管領)の暗殺がきっかけ。

室町幕府に加えて鎌倉公方の補佐役の山内上杉氏(と同盟関係の扇谷上杉家)が足利成氏と争った。関東地方での戦国時代初期の騒乱は、大体がこの鎌倉公方と関東管領関連の戦いです

1467 応仁の乱 東軍・細川勝元と西軍・山名宗全との内乱

戦国時代開始!!

1485 山城国一揆 山城国(京都府南部)で守護大名・畠山氏の政治的影響を排除して国人や農民が協力して8年間自治を行った
1487 関東で

長享の乱が発生

扇谷上杉家が力を持ったことで、山内上杉家・上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正との間で争いが勃発
1488 加賀の一向一揆 加賀の本願寺門徒らが起こした一揆。100年近く続く。
1493 伊豆の乱が発生 堀越公方(室町幕府による関東統治機関の長官)の家督争いがキッカケ
1495 伊豆の乱が治まる 後北条の祖・北条早雲が伊豆を平定
美濃で

船田合戦が勃発

美濃守護の土岐氏の後継者争い

近江・越前・終わりも巻き込んだ争いとなった

1505 長享の乱が治まる 定正の死に加え、家臣二人の死と後継争いで戦況が悪化した扇谷上杉家が降伏。

後に両家に婚姻が成立。山内・扇谷の同盟関係が復活。

⇒ グダグダの結果、上杉家は関東の大部分を北条氏に奪われる

1516 北条早雲が相模を平定 下剋上の先駆け。
1517 安芸の国で

有田中井出の戦いが発生

当時の中国地方の覇者は大内義興。大内氏へ服属させられていた安芸の旧守護・武田元繁が、出雲の尼子氏(安芸国で勢力を伸ばしたい勢力)の力を借りて大内氏からの独立宣言、侵略を開始。

大内氏は安芸吉川氏と毛利氏を武田氏へ当てた。毛利元就初陣。

1521 足利義晴が将軍になる 第12代将軍

関連記事:室町時代を将軍と共に流れを追っていく

1523 寧波の乱

(ねいは・ニンポーの乱)

大内氏と細川氏の日明貿易(当時は勘合貿易)の利益を巡る争い

大内氏が正式な勘合を持っていて、細川氏は無効の勘合。なのに現地で賄賂を贈って細川氏が勘合貿易を行った事で争いに発展。

⇒ 以後、勘合貿易は大内氏が独占

毛利元就が家督を継ぐ 元は安芸国(広島県西部)の国人領主
1536 今川義元が家督を継ぐ 駿河国・遠江国(静岡県の辺り)の守護大名
天文法華の乱 延暦寺宗徒が当時京に広がっていた日蓮宗(法華宗)の宗徒を洛外に追放した事件。

当時の寺院はかなり力を持った一大勢力。大名まで宗派間の諍いに首を突っ込んで京の結構な範囲が焼け落ちる被害に。

1541 武田信玄が家督を継ぐ
1542 斎藤道三が美濃を奪取 下剋上大名として有名
1543 鉄砲伝来 1542年説もあり。ヨーロッパから種子島に伝来した
1546 河越の戦い 北条早雲の子・北条氏綱が武蔵国(東京・埼玉・神奈川の一部)の要の城で扇谷上杉当主の居城である城を落とした
足利義輝が将軍になる 第13代将軍。幕府と将軍の権威復活と諸大名との修好に尽力。

関連記事:室町時代を将軍と共に流れを追っていく

1548 上田原の戦い 信濃で行われた武田信玄(当時は晴信。以降分かりやすいよう信玄に統一)が北信濃の戦国大名・村上義清と戦い、大敗を喫す
1549 ザビエルが鹿児島に
1551 織田信長が家督を継ぐ  関連記事:織田信長はどうして居城を変えていったのか?
1552 上杉憲政が越後に逃亡 上野国の大名で、北条・武田との戦い後、離反も相次ぎ退去せざるを得なくなった
1553 川中島の戦い

(55年・57年・61年・64年)

甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(後に上杉家を継ぎ謙信と名乗るようになる)による北信濃の支配権を巡る戦い
1555 厳島の戦い 安芸国(現広島県西部)で毛利元就が大内家家臣(だが実権を握っていた)の陶晴賢(すえはるたか)と戦い、打ち破った

⇒ 中国地方で大内氏の勢力が急速に弱体化

1556 長良川の戦い 斎藤道三と息子の斎藤龍興との間に起きた親子対決。

弟を溺愛し廃嫡される事に危惧を覚えた龍興が道三を討った。

1560 桶狭間の戦い 終わりの織田信長と駿河の今川義元との戦い。信長の勝利に終わり、名を一気に押し上げた。

関連記事:信長はどうして義元を討つことが出来たのか?
桶狭間の戦いは奇襲攻撃ではなく新しい説が浮上した⁉

徳川家康が三河で独立 人質として今川方にいて桶狭間にも参戦したが、桶狭間の戦いで義元敗戦後、今川軍が放棄した岡崎城に入り軍事行動を開始。独立に向けて動き始める
長宗我部元親が家督を相続 土佐国の戦国大名
1561 長尾景虎(謙信)が関東管領の上杉氏を継ぐ
1562 家康が信長と同盟 = 清州同盟
1565 松永久秀が足利義輝を暗殺 = 永禄の変
1566 墨又一夜城を建設 信長による美濃侵攻の際、木下藤吉郎(後に豊臣秀吉)が築城したと言われている
1568 信長が足利義昭を奉じて入京 畿内の大名による信長包囲網の発足
1570 姉川の戦い 近江(現滋賀県)で起こった、信長の上洛要求を拒否した朝倉と信長の親戚でもあったが朝倉との縁も深い浅井織田・徳川軍による戦い【第一次信長包囲網

⇒ 織田・徳川軍が勝利するも織田側の損害も大きかった

石山合戦(~80年)  摂津(現大阪府)での浄土真宗本願寺 vs 織田信長による戦い
1571 信長が比叡山焼き討ち 信長包囲網への参加勢力の一つが延暦寺で敗走した浅井・朝倉の兵を延暦寺に引き込んだ

更に言うと京を狙う際の『北国街道と若狭街道』という重要拠点を通過する位置にあったため、信長勢力としては軍事拠点としての延暦寺を潰す必要があった…かもしれないとも言われている

1572 三方原の戦い 遠江国(現静岡県)での武田信玄 vs 徳川・織田軍による戦い

⇒ 家康敗走、織田と武田は断交することに

1573 室町幕府滅亡 幕府滅亡への流れ:信長の天下布武は最初は…
1575 長篠の戦い 三河国(現愛知県新城市)で起こった織田・徳川連合軍 vs 武田勝頼の戦い

⇒ 織田・徳川軍の勝利、武田勝頼の勢力は衰退

1577 手取川の戦い 加賀国(現石川県南部)での上杉軍 vs 織田軍との戦い

⇒ 上杉軍の勝利

1580 信長と本願寺が和睦 本願寺の門主顕如が大坂を退去するという条件を本願寺側が受け入れた。本願寺は信長包囲網の中心勢力だったため、包囲網は瓦解へと繋がった
1582 天目山の戦い 信長・徳川・北条が武田勝頼の領地へ侵攻

⇒ 織田軍の勝利により甲斐の武田氏滅亡

本能寺の変 本能寺にて信長の家臣・明智光秀が謀反。信長は自害

⇒ 本能寺の変。なぜ明智光秀は信長に反旗を翻したのか?
   本能寺の変、その他関連記事

山崎の戦い 本能寺の変を受け、羽柴(豊臣)秀吉軍と明智軍が衝突した

⇒ 羽柴軍の勝利

光秀は殺害された、もしくは自害したとも言われている

1583 賤ヶ岳の戦い 近江国で行われた織田信長死後の後継者争い(信長の孫・三法師推しが秀吉、三男の信孝推しが勝家)に絡んで、秀吉と柴田勝家が争う

⇒ 勝利した秀吉が権力を掌握。天下人へ近づいた

1584 小牧・長久手の戦い 尾張(現愛知県)を中心に起こった、秀吉と信長次男の織田信雄・徳川家康陣営(← 長曾我部元親や紀州の根来衆も参加)との戦い

⇒ 戦自体には家康陣営の勝利だったが、家康の大義名分であった信雄と秀吉のあいだで和睦が成立。家康は梯子を外された形で三河(現静岡)へ帰国

伊達政宗が家督を継ぐ
1585 秀吉が四国を平定 長曾我部元親は土佐一国の所有権を認めさせた上で秀吉に臣従
秀吉が関白になる 東国進出は一旦置いとき、天下統一への足元固め。東国平定がまだということもあって征夷大将軍の称号は獲得できず。
1586 家康が秀吉に臣従 秀吉の実妹を家康の正室とし、義兄弟に
秀吉が太政大臣になる 天皇から新しい姓を賜り、豊臣秀吉と名乗る様に
1587 秀吉が九州を平定 島津氏降伏。薩摩・大隅・日向を安堵
1588 刀狩令  ⇒刀狩関連記事
1589 伊達政宗が奥州で躍進 東北地方南部のほとんどの領土を手中に収めることに
1590 秀吉が全国統一 関ハ州に君臨する北条氏を全面降伏に追い込み、天下統一へ
1591 千利休が自害  ⇒利休七哲と茶道
1592 文禄の役 第一次朝鮮出兵

 ⇒朝鮮出兵の理由

1597 慶長の役 第二次朝鮮出兵
1598 秀吉の死去 朝鮮に出兵していた軍を撤退。朝鮮出兵は事実上日本側の敗北として終わる
1600 関ケ原の戦い 秀吉亡き後の主導権争いの末、家康 vs 石田三成の対決に

⇒ 徳川家康の勝利

1603 家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開く 徳川家康の天下統一と江戸幕府の始まりの流れ
1614 大坂冬の陣 秀吉の残した財力や威信は家康にとって脅威だったため、密かに豊臣滅亡の機会を伺っていた

お寺の大鐘に書かれた文字に因縁をつけて大坂攻めを決行

⇒ 秀頼(秀吉の息子)の居城・大阪城の生命線である堀を埋めるという条件で和睦

1615 大坂夏の陣 家康が再度、無理難題を吹っ掛け豊臣側は玉砕戦

⇒ 秀頼・淀君(秀吉の側室で、信長の妹の市と浅井長政の娘)は自害

⇒ 以後、約260年もの間、徳川幕府が続く

スポンサーリンク
ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
記事URLをコピーしました