豊臣秀吉が朝鮮出兵をした本当の理由
農民出身の豊臣秀吉が織田信長の後を継ぐような形で天下を統一し、関白太政大臣にまで上り詰めた功績は歴史上賞賛されるに値します。
しかし、華々しい功績とは対照的に晩年秀吉が行った朝鮮出兵による文禄・慶長の役では、その出兵目的が史料的に明確にされていない事から、秀吉の耄碌や武士たちに戦いの場を提供した等の様々な憶測が考えられています。
16世紀後半頃の世界情勢
当時の世界情勢は、1494年にスペインとポルトガルがトルデシリャス条約を結び、西アフリカのセネガル海上において、子午線に沿った線(西経46度37分)の東はポルトガル、西側がスペインの領土と定められました。
これを機に両国は、世界に覇権をかけて領土拡大を始めます。
日本へは1549年にポルトガルがイエズス会のフランシス=コザビエルによるキリスト教布教に始まり、フランシスコ会、スペインのドミニコ会が入り乱れて、そこにイギリス・オランダもやってくるようになっていました。
当時の宣教師たちは、布教活動だけではなく信者となった大名やその家臣らを自国の兵力として活用して最終的には植民地化する事が目的でした。
その代表的な例として、1521年にマゼラン率いるスペイン艦隊がフィリピンに襲来して、植民地化に取り掛かり1561年には植民地化されています。また、1571年には、アジア侵攻の拠点としてマニラが建設されました。
このように大航海時代を通じて交易権を競ってきた両国ですが、次第にポルトガルの衰退がはじまり1580年にはスペインとは同君連合になっています。
ポルトガルと同君連合になったスペインの次の標的が、明国や日本の東アジアの進出でした。
このスペインの動きを事前にキャッチしていたのが豊臣秀吉で、外国との交易により日本人もマニラに行く機会があり、スペインやポルトガルが東南アジアで行っていた事を見聞していたのです。
これを裏付ける資料がイエズス会側にあるそうで、当時のイエズス会のヴァリヤーニはフィリピン準管区長ライムンド・プラドに宛てて
日本などの王や領主は全てフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いています。なぜなら、彼らは征服者であってペルーを奪取し近年フィリピンを征服し、に美付近の地方に征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。また、二年前にカンボジアに対して攻撃を加えるために大戦艦を有していた。日本人もシナ人もそれらを実行しているスペインのやり方を全て目にらで見聞きしている。
と言う内容の書状を送っています。
このような情報を知った秀吉は、1587年にバテレン追放令※を出して、キリスト教による日本人の洗脳に歯止めをかけようとしました。
※ほかにも目的はあったようですが、それは下の記事で書いてます。
「宣教師の国外追放と布教の禁止・大名のキリスト教信仰の禁止(しかし、一般武士や庶民の進行は自由)貿易のためのスペイン・ポルトガル人ン出入国は認める)」と言うような令を出しました。
しかし、宣教師たちは商人でもあったため、日本に留まる事が出来たので布教活動は続けられた事から、この法律は骨抜きなものとなりました。
朝鮮出兵
その後、1592年に明国征服のために秀吉は朝鮮へ出兵を開始します。
鎌倉時代に元寇を経験している日本にとって、モンゴルがスペインに変わって、明と朝鮮連合軍がスペインの軍事力をバックにして日本に襲来する事は何としても避けなければいけなかったのです。
このような背景はありましたが、もちろん日本の支配者となった豊臣秀吉が明国支配に対する領土欲がなかったと言えばうそになります。
日本をスペインの進行から守ると言う大義名分が出来き、自らの支配欲を同時に満たす事が出来る朝鮮出兵は、まさに一石二鳥の出来事だったのではないのでしょうか?
豊臣秀吉とスペインの思惑
当時の日本は、1543年の鉄砲伝来から16世紀末までには鉄砲の大量生産に成功しており、この頃には世界最大の鉄砲保有国となっていました。
戦国の世を切り抜けていた日本の軍事力は陸上戦においては、スペインも歯が立たないほどだろうと宣教師たちは母国へ報告しています。
1585年に、イエズス会日本準管区長がフィリピン準区管長あてに、日本への軍隊派遣の要請をしています。それは、キリシタン大名を支援して、服従しない大名たちに脅威を与えるためだと書かれています。
日本の大名たちをキリスト教へ改宗させて、その軍事力を利用して明国を征服する計画を立てていたようでした。
ところが、時を同じくして秀吉は日本準区管長と会った席で、自分が日本を掌握する日は近く、その後明国や朝鮮半島の征服に取り掛かると語ったのでした。
明国を征服した後は、朝鮮や明国のスペイン駐在を許可しキリスト教の布教も認めると言ったのでした。つまり、準区管長達の計画を逆手に取り、逆にスペインの力を利用して明国や朝鮮を服従させようとしたのです。
結局、この交渉は実現する事はなく、日本が単独で朝鮮へ出兵する事になります。
朝鮮出兵後の日本の評価
あとは、みなさんのご存知の通り、秀吉の死により朝鮮半島から撤退する事になります。
歴史の教科書などでは、現地での苦悩と朝鮮出兵による疲弊で、豊臣政権の崩壊の原因の一つとされていますが、明国や朝鮮側では、秀吉の朝鮮出兵はこのように総括されています。
秀吉による朝鮮出兵が開始されて7年間、明では10万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費するも、明と朝鮮に勝算は無く、ただ関白が死去するに至り争いは終息した。
と記されています。
一般的に史料は、自国に都合の悪いことは記述されていないことが多いのですが、ここでは明・朝鮮連合軍が大敗してたまたま秀吉が死んだから戦争が終わったと明国も事実として認めていることは非常に大きなことであります。
一方でスペインは海1588年のアルマダの海戦で自国の誇る無敵艦隊がイングランド・オランダ連合軍に大敗してほぼ半数の軍艦を失い、東アジアの侵略が不可能になってしまいました。
以上のように、秀吉による朝鮮出兵は、耄碌や私利私欲のために起こした戦いではなく、日本を守るための戦いであった事が分かります。このような経緯があったからこそ、その後天下を取った徳川家康が1612年にキリスト教禁教令をだし、鎖国制度を行ったのではないのでしょうか?