日本史の流れ

徳川家康の天下統一と江戸幕府の始まりの流れ

歴ブロ

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豊臣秀吉の死後頭角を現したのが、徳川家康です。

徳川家康は織田信長の盟友であったため、一時期は信長の後継者を狙う豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで、合戦を繰り広げたこともありました。しかし、秀吉が関白に就任し、五大老(重要政務を行う役職)の一員として、秀吉の味方となっています。

朝鮮出兵の記事で書いた通り豊臣秀吉は晩年、朝鮮出兵を行っていました。

秀吉の連合軍は、李舜臣率いる軍隊に苦戦を強いられ、最終的に秀吉の病死によって撤退することになりますが、この朝鮮出兵によって豊臣政権が弱体化し、さらに、秀吉の武将の間で対立が生じました。

この対立がのちの関ヶ原の戦い火種となっていきます。

徳川家康VS石田三成が戦った天下分け目の関ヶ原の戦い 1600年5月、全国の大名たちが徳川家康率いる東軍VS石田三成率いる西軍に分かれ美濃国の関が原で激突したのが関ヶ原の戦いです。 ...

それでは、徳川家康が江戸幕府を開くまでの流れを、豊臣秀吉に臣従したあたりから、書いていきましょう。

 

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豊臣政権への臣従と北条討伐

小牧・長久手の戦い後、主だった諸大名は秀吉に帰順していきましたが、徳川家康だけは中々首を縦に振りませんでした。最終的に秀吉は、実妹朝日姫を正室として差し出し、さらには北政所(実母)を実質の人質として差し出すことで、徳川家康の秀吉謁見の運びとなりました。

1587年には関白秀吉の推挙で従二位・権大納言に叙任され、駿河大納言と呼ばれました。

秀吉への臣従からほどなくして、家康は北条氏と縁戚関係にあると言う経緯から、秀吉への帰順を促す命を受けます。家康の旧友である北条氏規を状況させるなどの一定の成果を上げたものの、当主である北条氏直の了解は得られず、1590年に秀吉は北条討伐を開始します。

 

北条氏降伏後、秀吉による天下統一事業はひと段落します。

この時に家康は、秀吉の命で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の自身の旧領を召し上げらて、北条氏の領地だった、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関東八州に移封されました。

この移封によって150万石から240万石への大幅な加増でしたが、徳川家ゆかりの三河を失い、さらには関東にはまだ、北条残党の不穏な動きがあり、良い状況ではありませんでした。しかも、北条氏はきわめて低い税率を採用してたことから、むやみに税率を挙げることが出来ず、石高ほど収入が見込めませんでした。

家康の関東の統治に際して、自身の有力な家臣を重要な支城に配置して、有能な家臣たちを代官などに抜擢して、難なく統治しました。これ以降、関東の地は現在に至るまで大きく張ってしいくことになります。

 

秀吉の死と朝鮮出兵

1592年、朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することもなく、名護屋城に在陣しただけで、徳川家自体の被害はほとんどありませんでした。

1595年に豊臣政権を揺るがす大事件【秀次事件】が起きました。

この事件以降家康は、本拠地の江戸より、伏見城に滞在することが多くなり、これにより豊臣政権下における家康の影響力が高まっていきました。それにより、家康自身も、政権の中枢に身を置くことが多くなり、国内統治を直接学ぶことになります。

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1597年、再び朝鮮出兵が開始されるも、家康は朝鮮へは出陣しませんでした。

1598年 豊臣秀吉が病に倒れると、秀吉没後の政権維持のため後継者である秀頼を補佐するための、五大老と五奉行を選出します。その五大老の一人に家康が任命されてその筆頭となります。

同じ年の8月に秀吉が死去すると、朝鮮にいる日本軍の撤退を決めて、朝鮮出兵は終わりを告げます。

 

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豊臣政権の権力争いと関ケ原の戦い

豊臣政権では、軍事的に寄与して朝鮮出兵でも前線で戦った【武断派】と内政・経済、宗教管理などの戦場以外の分野で活躍していた【文治派】の対立がたびたび起こっていました。

秀吉や実弟秀長が生きているときは、彼らによって対立が表面化しませんでしたが、秀吉の死後、両派の溝は深刻なものとなっていきます。

豊臣秀吉の死後に政権を運営してくことになったのは、先ほど書いた五大老】と【五奉行です。

このメンバーが、

豊臣五大老

  • 徳川家康
  • 前田利家
  • 毛利輝元
  • 宇喜多秀家
  • 上杉景勝

豊臣五奉行

  • 石田三成
  • 増田長盛
  • 浅野長政
  • 前田玄以
  • 永束正家

秀吉の死後、この五大老と五奉行による豊臣政権内の権力争いが繰り広げられていきます。

まず、行動を起こしたのが、徳川家康でした。

家康は、これまで禁止されていた各地の大名や家臣への婚姻や領地の授与などを五奉行に相談せず独断で行うようになります。この家康の行動に五奉行は怒り、特に石田三成は家康を非難するようになります。これにより、家康と五奉行による確執が明るみに出ます。

 

この家康の自分勝手な行動は、それを受けた武将たちにとってはありがたいものであり、おまけに避難をしている石田三成サイドは嫌われていたので、武将たちは【家康派】と【三成派】と別れていくことになります。

そんないつ爆発しそうな雰囲気を、仲裁役として【前田利家】が上手く抑えていたのですが、そんな彼も1599年3月に死去してしまいます。

徳川家康からしてみれば、目の上のたんこぶだった前田利家が亡くなると、時代は一気に動き出します。

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石田三成と対立していた武断派が石田三成を襲撃したのです。

三成は事前にそれを察知していたので、大阪城を抜け出します。その時に、家康の屋敷に逃げ込んだとも言われています。※諸説あり…

この事件は、三成のライバルでもある徳川家康が仲裁をして収めました。

この襲撃事件がきっかけで石田三成は謹慎処分となり、一時的に五奉行の職を失います。そして、事件を上手く収めた家康の影響力はさらに大きなものとなっていくのです。

それと同時に、武断派と文治派の争いは、もはや修復不可能な所までに達していました。

このような徳川家康と石田三成(五奉行)との激しい権力争いがあり、1600年を迎えることになります。

 

家康は、各地の大名に年賀の挨拶を求めましたが、上杉家だけが断ります。

謀反の疑いありと、家康は上杉討伐を決意します。

これを機に、関ケ原の合戦が始まります。

関ヶ原の戦いといえば、豊臣側の石田三成と徳川家康による天下分け目の戦いという表現がよくされます。しかし、現状は織田信長の死後にあった織田家の内部争いと同じです。

それが証拠に、秀吉子飼いの加藤清正や福島正則が家康側の東軍についています。

あくまでも建前上は、秀吉の跡継ぎである豊臣秀頼への反逆行為した石田三成という大義名分で豊臣家の代表として戦いに挑んでます。

関ケ原の戦いというのは、豊臣政権内部での権力争いの末起こった合戦と抑えておくと良いでしょう。

 

江戸幕府の始まりと豊臣家滅亡

徳川家康は、関ケ原の合戦から3年後の1603年征夷大将軍に就任して、江戸幕府を開きます。関ケ原の勝利で、すでに徳川家康の天下は決まっていました。しかし、家康は権力の固定化を徹底していきます。

まず行ったのは、豊臣家の所有していた直轄地を幕領として没収しました。

これにより、豊臣秀頼を摂津・河内・和泉三領地六十五万石の一大名へと押しやります。

そして、1605年徳川家康は就任した征夷大将軍を早々と息子の秀忠へと譲りました。

将軍職就任わずか2年での退任…これには、征夷大将軍は今後代々徳川家が世襲していくものということを天下に示すためでした。天下と言うより、豊臣家へのメッセージだったかもしれません。

将軍職を秀忠に譲った家康の晩年は、豊臣家を滅亡のために動いていきます。

 

豊臣家を65万石の大名にまで縮小させましたが、もし豊臣秀頼が関白になったらどうするかという不安がありました。

征夷大将軍という官職を持っている家康ですが、天皇家に最も近しい存在の1つである関白に秀頼が就任したら、手のひらを返したように諸大名が豊臣側に就いてしまうかもしれないという不安です。

徳川政権の初期の大名家の中には、加藤清正や福島正則などの秀吉子飼いの大名が残っていました。実際に、家康は福島正則に対して、勝手に築城をしたといって武家諸法度違反と言うことで厳封処分を受けています。

最終的には、加藤家・福島家は改易処分を受けています。

このほかにも、豊臣本家に対しても「国家安康、君臣豊楽」という文字の解釈で、

『家康という文字を安で切り裂き、君臣豊楽は君主としての豊臣が楽しむ』

と無理矢理にこじつけて、豊臣家を滅ぼす口実としたのも有名な話です。

そこまでしてでも、豊臣家が再び力をつける前にたたいておこうという意図があったのです。徳川家康は、将軍に就任しても大名たちが再び豊臣家の味方にならないか、懸念していたのです。

この辺の違いが、短命な豊臣政権と長命な徳川政権の違いと言ってもよいでしょう。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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