延久の善政と称えられた名君・後三条天皇は院政の基礎を作り上げた
2020年8月18日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
平安時代の権力の推移を見ると、藤原家(摂関政治)⇒上皇(院政)⇒平清盛と移っていきますが、藤原鎌足や道長のイメージが強いのか、平 …あの天神様を大宰府送りにした左大臣・藤原時平は切れ者だった!?
2020年8月6日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
宇多天皇に可愛がられ、醍醐天皇時代には右大臣に出世した菅原道真。
学問の神様として現在祀られていますが、その晩年は、ライバルに謀反の噂 …荘園の転換期と武士の成長
2020年5月29日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
第60代天皇・醍醐、62代・村上天皇の治めた時代は【延喜・天暦の治】と呼ばれ、関白・摂政を置かず天皇自らが政を行うようになりました。 実際には、左大臣として藤原氏 …わかりやすい遣隋使と遣唐使の違いとその目的
2020年1月3日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
遣隋使と遣唐使は、西暦600年頃~894年までの約300年に渡り当時の中国大陸である隋と唐から先進技術や文化を求めて日本から派遣された使節団の事を言います。 遣隋使と …源氏の地位が確立した後三年の役
2019年11月20日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
前九年の役で謀反を起こした安倍氏の討伐を行った源頼義でしたが、古来より馬術・弓術に優れた東北地方の将兵たちは強く、武士の棟梁である源氏の力をもってしても制圧するのは至難の業でし …源頼義が活躍した前九年の役はなぜ起こったのか?
2019年11月14日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
平安時代の後期には、学校でも習う重要な争いが東北地方でありました。 それは、前九年の役と後三年の役です。 この二つの戦いを通 …荘園公領制と院政開始
2019年10月30日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
藤原氏の栄華を誇った、藤原道長・頼道の摂関政治の時代でしたが、頼道の娘には皇子が生まれなかったため、後冷泉天皇後に即位した天皇は、藤原氏の外戚としない後三条天皇が即位し …国風文化と国文学の発達
2019年10月17日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
7世紀以降の日本では、大陸から優れた文化を積極的に取り入れてきましたが、9世紀後半からの日本と大陸間の関係が大きく変化すると、貴族社会を中心に日本の風土や嗜好に合った優 …藤原北家・五男の藤原道長はどうやって出世をしていったのか?
2018年7月16日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
平安時代の摂関政治の代表的人物と言えば、藤原道長です。 父・藤原兼家の五男として生まれた道長は、有力な兄たちがいたためさほど目立っ …藤原氏による権力の掌握を見ると摂関政治がわかりやすくなる
2017年7月6日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
平安時代のイメージとして思い浮かぶのは、 貴族社会で華やかな時代
国風文化の時代
合戦のない平和な時代 平安 …武士初の太政大臣となった平清盛が目指したものは?
2017年7月3日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
平安時代は、貴族社会が華やかな社会を作っていました。 しかし、平安時代半ばの10世紀ころから、平将門の乱、前九年の役、後三年の役な …古代政権の蝦夷との戦い
2017年6月13日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
歴史上で日本と言う国名が使われ始めたのは、天武天皇の頃672年であるとされています。私たちは、日本と聞くと北海道から沖縄までと認識しますが、古墳時代にヤマト政権が誕生したころの …遣唐使と古代日本における中国との関係性
2017年5月18日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
古代日本における中国との関係は、当時の日本を知るにあたってとても重要な要素になります。 聖徳太子(厩戸王)の遣隋使派遣によって当時の強国【隋】と対等な関係を結び、外交関係 …治承・寿永の乱(源平合戦)に参加した人たちの思惑を調べてみる
2017年3月14日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
1179年に発生した治承三年の政変。これに伴い、後白河院の第3皇子以仁王が挙兵。諸国に令旨(王の命令)を出し様々な勢力も挙兵していきます …治承三年の政変までの流れを調べてみる
2017年2月27日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
平氏が滅亡したとして有名な壇ノ浦の戦いは、源平の間で富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いなど何度も起こった争乱の果てに起こったものです。これらの戦いは総称して治承・寿永の乱と呼ばれて …