鎌倉殿の13人

木曽義仲【源義仲】勝者になれず源頼朝に討たれた武将の生涯

歴ブロ

木曽義仲

木曽(源)義仲と言うと、【粗野な田舎者】【戦好き】【女性好き】と言った三拍子の人物像を思い描く事が多いのは、平家物語で好戦的で怒りっぽい性格だと解釈され、そのように書かれているからだと言います。

実際の義仲は、戦うことはあまり好きではないそうです。

自ら進んで戦を起こしたことが少なく、参戦した市原の戦い・倶利伽羅峠の戦い・法住寺の戦い・宇治川の戦いなどは、どれも敵から仕掛けてきた戦いでした。

また誰かが悲しい思いをするなら自分が犠牲になると言った自己犠牲の精神も持ち合わせていました。

 

そこで今回は木曽(源)義仲を深堀りしていこうと思います。

※鎌倉殿の13人でも木曽義仲で記載されていたので以降木曽で統一します。

 

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木曽義仲【源義仲】の生い立ち

義仲は、武蔵国で生まれましたが、父を亡くしてから信濃国に移り住むことになりました。

雄大な信濃の地でよく遊び、よく学び優しく議に熱い青年へと成長しました。

1154年に武蔵国で誕生した義仲は、源義賢の子として誕生しました。義賢は、源義朝の弟にあたる人物で、頼朝と義仲はいとこ同士でした。

 

この頃の中央は平氏が力をつけ始めており、源義賢は新たな勢力として関東の豪族たちとの結びつきを強めようと、武蔵国の秩父氏に婿入りし、その娘との間に生まれたのが義仲だったのです。

しかし、1153年に同じく関東へと勢力を広げていた源義朝との大蔵合戦で義賢は、命を落としてしまいます。まだ。幼少だった義仲は母と共に信濃国へ逃げ帰ったのでした。

 

青春期を過ごした信濃国で一生の仲間を得る

信濃国で義仲は、国府の中原兼遠によって庇護されます。

この時、源姓を名乗っておらず【木曽次郎】と名乗っていたことから、【木曽義仲】と呼ばれるようになりました。また、中原兼遠の息子・今井兼平や樋口兼光は、義仲と兄弟のように育ち、平家討伐の際は木曽義仲と大活躍します。

後に義仲の恋仲だった巴御前も中原兼遠の娘だとも言われています。

しかし、巴御前は平家物語にしか登場せず空想の人物だとも言われています。

 

時が過ぎ、1159年に平氏と源氏が対立した平治の乱が起こると源義朝が打たれ、息子の頼朝が伊豆へ流刑。乳飲み子だった九朗義経は、奥州平泉の藤原秀衡に養育されることになりました。

 

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平氏を倒すべく立ち上がった以仁王と源氏

1180年、後白河法皇の第3皇子・以仁王は、平氏打倒を呼びかける令旨を発しました。

それに呼応し源頼政らが挙兵します。この時、全国の源氏ゆかりの者へ源行家が訪れ、頼朝、義仲の元へと訪れました。

以仁王は、源頼政と京都へ向かいましたが平清盛の軍勢に討たれてしまいます。

同時期に伊豆国で挙兵した源頼朝も命を落とすことはありませんでしたが、【石橋山の戦い】で平氏の軍勢に敗北してしまいました。

 

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快進撃を続ける源頼朝と義仲の軍勢

この頃、義仲は挙兵を悩んでいましたが平氏と組んでいた笠原氏が攻め込んでくると、決心して戦に身を投じていくことになります。

この【市原合戦】を制した義仲は、信濃全域の武士団を配下におさめました。さらに、父・義賢に仕えていた家臣や幼馴染軍団が義仲の元へ駆けつけ軍の規模は増大します。

一方で、石橋山の戦いから再起を図った頼朝は、【富士川の戦い】で平氏から勝利をもぎ取ると、1181年に義仲軍と平氏の討伐軍が越後国でぶつかります。

平氏軍6万に対し義仲軍はその半分にも満たない数でしたが、見事勝利を治めます。そのまま義仲は、越後から北陸道を進み京都へ向かいました。

 

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叔父を救うため息子を人質として差し出す

そんな中、源頼朝と義仲から平家討伐の誘いを受けていた甲斐源氏の武田氏が、頼朝に付くことを決めました。この時武田氏は、【義仲は平家と通じている】と頼朝に嘘の情報を流します。

義仲の勢力拡大を快く思ってなかった頼朝は、この嘘を信じたかどうかわかりませんが、信濃へ攻める口実ができたとばかりに1183年3月軍勢を差し向けました。しかし、義仲は本来平家を倒すべき源氏同士で争う理由が無いとして、軍勢をまとめて越後国へ引き返していきました。

これに驚いた頼朝は、【敵対した叔父2人の引き渡しか、嫡男を人質にする】かの選択を義仲に迫りました。この要求に義仲は、叔父の2人ではなく嫡男・木曽義高を鎌倉に差し出しました。

この義仲の本気の選択に頼朝は、和議を成立します。嫡男・義高は、その後頼朝の娘大姫の婿となりました。

 

この嫡男の人質には義仲の意図があり、頼朝の怒りを買っていた叔父たちを引渡してしまえば、必ず命は奪われるだろうと、嫡男であれば頼朝も丁重にしてくれると考えての人質だったと言います。

木曽義仲は、命を落とすことを良しとせず一度懐に入れれば最後まで守り通す状の深さを持ってた人物でした。弟たちをバッサリ切り捨てる頼朝とはえらい違いですね…

 

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火牛の計で勝利を手に入れた倶利伽羅峠の戦い

信濃国から北陸地方を支配権した義仲を討つべく1183年4月に京都から【平維盛】が率いる10万の大軍が攻めてきました。

平維盛は、加賀国で反平氏勢力の居城・火打城を落とします。

この【火打城の戦い】によって義仲の軍勢は、越中国まで後退。この時、平氏の追撃部隊5000の情報をキャッチすると、義仲は6000の兵でこれを奇襲し勝利します。

※【般若野の戦い

 

そして、敗走する平氏軍を倶利伽羅峠へと追い込みました。

5月11日になって、義仲は軍勢をひそかに平氏軍の背後に回し夜襲の準備をします。

そして、平氏軍が寝静まった夜、一気に攻め込みます。しかし攻め込んだのは人ではなく、角に松明をくくり付けた牛の大軍で、その数400~500頭と言われています。

暴れ狂う牛たちの軍勢に平氏軍は大混乱し、本陣・7万の兵は我先に逃げ惑います。その混乱に乗じ、木曽義仲の本隊が攻めかかりました。その攻撃をかわし逃げる平氏の行く先は倶利伽羅峠の断崖絶壁でした。

退路を断たれた平氏の武将や兵は次々と崖へ落ち、その下は死者の山が積み重なっていたと伝えられています。こうした事から、この崖には地獄谷と言う名前が付けられていました。

この牛の角に松明を括り付ける奇襲戦法【火牛の計】は、源平盛衰記に登場する有名な一場面ですが、この史料が後世に書かれたものであることから、事実かどうかは疑問視されています。

いずれにせよ、この倶利伽羅峠の戦いで平氏側に大きな損害を与えたのは言うまでもありません。

 

木曽義仲、念願だった上洛を果たす

倶利伽羅峠の戦いで大勝利を挙げた義仲は、北陸周りから京都へ進軍します。

1183年7月末には念願の京都へ入りました。

この時すでに平清盛が亡くなり、三男・平宗盛が後を継いでいました。

迫りくる義仲軍に平宗盛は、後白河法皇と安徳天皇を連れて西国へと逃げることを計画します。これが俗にいう【平氏の都落ち】で、このとき後白河法皇は、平氏とは別行動で都落ちしており、その後木曽義仲に保護されています。

義仲の保護の元で後白河法皇は、安徳天皇を連れ去り、三種の神器まで持ち出した平氏を逆賊として義仲に平氏討伐を出します。また、新たな天皇を決めることが急務となり、次期天皇が決められるのですが、この皇位継承問題が義仲と後白河法皇の関係を最悪なものと変えてしまいました。

 

皇位継承問題と源義仲

義仲は、次期天皇に以仁王の遺児である子がふさわしいと考えていました。

源氏が挙兵できたのは以仁王の令旨があったからで、京都を平氏から救った最大の功労者である以仁王の子が次の天皇になるのが当然だと主張しました。

しかし、後白河法皇は、安徳天皇の弟である人物を即位させるつもりでいました。

後白河法皇も周りの公家たちも木曽義仲を推す人物が天皇になれば、次は義仲による専横政治が始まると危惧していました。

 

木曽義仲と後白河法皇の対立

後白河法皇

義仲の思惑はかなわず1183年8月20日後鳥羽天皇が即位します。

そして、後白河法皇は、これまで義仲と戦ってきた源行家などの仲間たちを取り込み、義仲を孤立させます。さらに義仲が西国へ遠征中に、後白河法皇は源義経らの上洛を許可し源頼朝等の距離を縮めます。

自分より功績が無い源頼朝を重宝しようとしていた後白河法皇を許すことができない義仲は、西国から引き返し法皇を討つために【法住寺殿】を襲撃します。これが、法住寺合戦です。

しかし、義仲が到着する頃には、宮殿周辺には堀や柵が張り巡らされ、僧兵や諸将に守られていました。朝敵になるのを恐れた兵士たちは、義仲の軍を離れていく人もいました。

それでも、義仲の信頼のおける家臣たち今井兼平や樋口兼光らの奮闘で戦況をひっくり返しました。雲行きが悪いと感じた後白河法皇は、御所を脱出しようと試みますが、義仲軍によって捕縛され幽閉されます。

残った僧兵や諸将たちは戦死し、御所は燃やされました。

 

木曽義仲、源氏で初の征夷大将軍に就任

法住寺合戦により義仲と後白河法皇の関係は修復不可能になりました。

義仲もさすがに命まではとりませんでしたが、後白河法皇の寵臣だった摂政・近衛基通を失脚させ、自分の息のかかった人間を摂政にしました。

その他、後白河法皇の側近を次々と官職から解任し、1184年1月11日ついに木曽義仲は、征夷大将軍に就任します。源氏初の征夷大将軍は頼朝でなく義仲だったのは、あまり知られていません。

義仲の場合、就任から一年で命を落としているので名ばかり将軍だったと言えます。

 

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源(木曽)義仲の最後

源頼朝は、幽閉された後白河法皇を助けるために京都へ軍勢を向かわせていました。

1184年に源義経と源範頼が京都の宇治、瀬田に布陣し両側から京都へ攻め込まれ宇治川の戦いが開戦します。

平家物語によると義経軍6万、木曽義仲軍は200程で義仲にほぼ勝ち目はなく、義仲軍がやられる状況や討たれた人の名前が書き残されているそうです。

命からがら京都を脱した義仲軍は、琵琶湖のほとりにたどり着いたときには義仲含め7騎となっていました。その中には、兄弟同然に育った今井兼平、女性ながら武将として共に戦った巴御前がいました。

逃がすなら今しかないと判断した木曽義仲は、巴御前に向かって【木曽殿は最期まで女を連れていたなどと知られるのは良い気がしない。ここから去って、私の菩提を弔って欲しい】と告げたとあります。

これまで付き従った巴御前へのあまりの言いようにも思えますが、【生きて帰ってほしい】と言う義仲の願いが垣間見える場面ですね。その言葉に巴御前は、【これが今生の別れとなるのでしたら、巴の最後の戦いをお見せしましょう】と言い、向かってくる武者らに突進し相手の首をねじ切るという、豪快な技を繰り出します。

そしてそのまま振り向くことなく戦場をあとにしました。当時の戦場を物語る凄惨な場面ですが、巴御前の屈強さと、未来に進もうとする強さが上手く表現されています。

 

その後、それぞれ戦う内に打ち取られ、最後は木曽義仲と今井兼平の2人となってしまいます。そして、ついに木曽義仲も矢に射られ命を落としてしまうと、それを見届けた今井兼平もあとを追うように自害を遂げました。

こうして木曽義仲軍は粟津ヶ原の【粟津の戦い】で討ち死にし、源頼朝が勝利したと平家物語には記されているのです。

木曽義仲は、31歳の短い生涯でしたが、短くとも壮絶な生涯を全うしたのでした。

 

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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