【鎌倉殿の13人】富士川の戦いの勝利がキッカケで源氏が優勢に!?
源平合戦治承・寿永の乱の初戦・石橋山の戦いで惨敗した源頼朝は、安房の国へ逃れ再起を果たし挑んだのが、富士川の戦いでした。
鎌倉殿の13人でも北条時政が三浦義澄を湖に押し倒し、水鳥が一斉に逃げ出しその羽音で平氏軍が逃げ出したと言う描写が放送されましたね。この平氏が水鳥の羽音で逃げ出した、という有名なエピソードは吾妻鑑にも【その羽音はひとえに軍勢のごとく】とあります。
そこで今回は、2022年3月6日の『鎌倉殿の13人』でも放送された富士川の戦いについて書いてみたいと思います。
富士川の戦いの経緯
源平合戦は1180年に始まり、およそ10年ほどかけて様々な戦いが繰り広げられました。
いくつもの戦いがある中で、富士川の戦いもその一つです。
1180年8月に平家側との初戦【石橋山の戦い】で敗れた源頼朝は、安房国(現在の千葉県房総半島)に逃れ再起を図ります。そこで、地方の豪族・千葉胤常や上総広常を味方に付けることに成功し、房総半島の坂東武者たちともに再決起を果たします。
大軍を味方につけた頼朝は、その足で武蔵国へと入りました。
一度は、敵対した武蔵国・畠山氏が軍門に下ると、治承4年10月6日に頼朝は源氏再興の地鎌倉入りを果たしました。この報を知った平清盛は、平維盛を総大将とした源氏討伐軍を派遣。10月20日には駿河国で平氏軍と源氏軍が富士川で衝突しました。
富士川の戦いに関わった、源平の主な武将
源氏方【源頼朝率いる坂東武者達】
源頼朝…大河では佐殿(すけどの)呼ばれた源氏棟梁。
北条時政・義時親子…頼朝に従軍し駿河へ侵攻します。
武田信義…武田信玄の先祖にあたる甲斐源氏の棟梁で、頼朝に呼応して駿河まで侵攻し、平家方の現地軍を撃破しました。
平家方【清盛の孫・維盛率いる源氏討伐軍】
平維盛…清盛の孫で、源氏討伐の総大将を務める。
大庭景親…相模国の有力武士で、石橋山の戦いでは平家方の総大将を務め頼朝の出鼻をくじきますが、この戦いでは源氏敗れます。
伊東祐親…源氏に捕らえられ、娘婿の三浦世義澄に預けられました。
橘遠茂…駿河の現地平氏方の勢力。甲斐源氏の軍勢により壊滅します。
富士川の戦いの戦況と結果
源頼朝の反乱を鎮圧するために、東国へ進軍した平維盛率いる平氏の討伐軍は、1180年10月18日に富士川西岸に布陣します。一方で、源頼朝軍は、20日に富士川近くの賀島まで兵を西進させました。
鎌倉殿の13人では、水鳥の大軍を逃がした北条時政の手柄(まぐれ)のような描写でした。実際にこの戦いでは甲斐源氏の武田氏の軍勢が20日夜半に夜襲をかけようとしたところ、これに驚いて飛び立った水鳥が羽音を大軍の来襲と勘違いした平氏軍が勝手に総崩れとなり敗走したと伝えられています。
富士川を挟んで対峙していた平氏と源氏ですが、本格的な合戦を行うことなく終結しました。石橋山では手痛い敗北を味わった頼朝ですが、富士川の戦いでは見事なまでの快勝で終わりました。
この戦いでの勝利が東国における源氏の優位が確立したとされています。
また、富士川の戦いにまつわるエピソードがあり、1180年10月21日に富士川で平家軍を敗走させ、黄瀬川の宿に戻っていた頼朝のもとに、面会を求める一人の若者がいました。
それが、弟・源義経でした。
源義経は兄である頼朝の挙兵を知り、奥州平泉より駆けつけたのです。この逸話が、鎌倉殿の13人の第9話の【決戦前夜】の最後のシーンです。
ドラマと同じように頼朝は涙を流して義経の手を取り、再会を喜んだと伝えられています。
その後、義経は頼朝の指揮下に入り、兄・源範頼と共に源平合戦において大活躍をすることになります。
平氏軍の追撃はせずに鎌倉へ引き上げる
富士川の戦い後、頼朝は平氏軍追撃を考えますが、坂東武者達の反対に合い、いったん鎌倉へ戻ることにしました。
鎌倉殿の13人での描写では、兵糧の調達の問題があるとの事でした。また、上総広常に相談すると、常陸国の佐竹氏が上総国を虎視眈々と狙ってると言うのでした。
しかし、吾妻鑑では千葉常胤、三浦義澄、上総広常らの有力な豪族達に、東国をまず統一すべきであると進言があったようです。当時、常陸国の佐竹氏は頼朝に従っておらず頼朝の出陣中に背後から脅かす存在でもあった。
進言を受け源頼朝は佐竹氏を討つことにし、遠江国に安田義定、駿河国に武田信義を守りに置き、自身は鎌倉に帰り東国の経営と佐竹氏討伐に専念することにしたのです。
1180年11月、源頼朝は上総広常に佐竹討伐を命じ、義政を討ち取ることに成功しました。その後、常陸国に本拠を置く志田義広が頼朝に従うことになりました。
こうして関東の支配を盤石なものとし、そしてこれまで戦ってくれた武士たちの所領安堵と敵から没収した領土の配分【本領安堵】と【新恩給与】を行いました。
ここで、源頼朝と後家人による御恩と奉公の主従関係が確立したのでした。
こうして源頼朝は東国の統一に尽力し、木曽義仲を討つため上洛をする1183年まで東国経営に力を入れていました。
すぐに上洛しなかった理由としては、1180年は天候不順による飢饉の影響があり先述した兵糧問題が思ったより深刻だったとも考えられています。
東国から大軍を率いて上洛するには兵糧の調達が問題となります。
兵糧が乏しくなると、将兵の士気が下がるのは当然のことで、うまく上洛できても京都で将兵の食糧を準備するのは大変です。もし頼朝の兵が民家に押し入り、食糧を強奪するようなことがあれば、頼朝軍は京都の人々の反感を受けます。
頼朝は、飢饉の影響により兵糧の調達が困難と東国統一が理由で、いったん鎌倉に戻ったと考えられています。