鎌倉殿の13人

源義仲の臣下であり、彼女のでもあった巴御前

歴ブロ

源義仲の記事で巴御前の事に触れました。

巴御前は、義仲の家臣で愛妾でもあり、一度戦場へ赴くと【木曽義仲軍の一隊の将として活躍した】と書かれています。しかし、【平家物語】や【源平盛衰記】内でしか登場しないことから、実在の人物ではないとも言われています。

それでも、源平合戦を語るうえで巴御前は切っても切れない人物です。その人気と知名度は、木曽義仲よりも有名とも言われています。

そこで今回は、巴御前について書いていきたいと思います。

 

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木曽義仲と共に平氏討伐を夢見た巴御前

平安時代末期に源平合戦において誰よりもその名を轟かせた源氏の血を引く信濃国の武将、木曽義仲。

彼の愛妾であり、戦場では「木曽義仲軍の一隊の大将として活躍した」とその勇猛ぶりが語り継がれる女武者、それが巴御前です。

 

巴御前の生まれた年は、はっきりしておらず1153年~1163年と10年くらいの開きがあります。信州木曽の豪族・中原兼遠の娘として生まれたとあります。

兄弟には、義仲の重臣であり幼馴染の今井兼平を始め、最後まで義仲に従った豪傑たちがいます。まさに、一家総出で木曽義仲に仕えたといます。

巴御前は、色が白く、髪の長い、非常に美しい女性であったそうです。

彼女がいったん戦場へ赴くと強弓を引く剛の者となり、日本刀を持てば、相手が例え鬼や神でも相手にしようという女武者へと変貌し、平家10万の大軍を破り、源平の勢力を逆転させた戦いとして有名な【倶利伽羅峠の戦い】では、一隊の大将として活躍しました。

木曽義仲と巴御前との出会い

巴御前は義仲の3つ下で、樋口兼光と今井兼平と共に義仲と木曽で同じ時を過ごしていました。彼女は、小さな頃から義仲の従者として活躍する事を夢をみて、幼いころから馬に乗り、弓や刀も扱う活発な女性でした。

2人の兄弟と共に同じ時を過ごす中で、自然と義仲といい感じになっていったとされています。しかし、義仲と巴御前は最終的に夫婦と言う関係になりませんでした。

父・中原兼遠は、巴御前ではなくおとなしい姉を義仲と結婚させたとされてます。

 

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木曽義仲と共に争いのない信濃を目指し

義仲自身、自分を育ててくれた信濃国を争いのない国にしたいと思い、ほかの豪族と婚姻関係を結び勢力拡大の道を探っていました。恋心を抱いていた巴御前は、複雑な思いも持ちつつも愛妾と言う立場にとどまり、義仲と信濃の平和のために同じ道を歩みます。

義仲と巴御前が生きた時代は国の秩序が根底から乱れていた、まさに時代の境目でもある頃でした。巴御前は、信濃国の一地方で生まれた女性でありながら、時代を動かすリーダーとなろうとした義仲の志を理解し、それを共に叶えようとしました。

 

源頼朝が派遣した鎌倉勢の大軍により木曽義仲が非業の死を遂げた粟津の戦いでも、最後に主従わずか5騎になったとき、彩り美しい鎧を着て屈強の荒馬に乗った彼女の姿が、その中にしっかりとあったと言われています。

 

義仲最後の戦いにみる巴御前の勇猛エピソード

平安末期の源平合戦【治承・寿永の乱】において、源氏側の大将として活躍した木曽義仲の愛妾であり、優れた臣下としても名を残す巴御前の勇猛ぶりが最も伝わるエピソードを紹介しましょう。

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場粟津の戦いで木曽義仲のそばにいた巴御前

義仲は、平家討伐の一番の立役者とも言えますが、歴史の主役には上り詰めることなく31歳で源頼朝に討たれてしまいます。その木曽義仲の最後の戦いでもある栗津の戦いの場でも、巴御前は義仲のそばにおり、その勇猛ぶりが平家物語にも書かれています。

平家物語によると、鎌倉軍6万の軍勢に対し木曽義仲軍は1600程でまさに負け戦の状態でした。最後は、わずか5騎で琵琶湖が広がる近江栗津で命を落とします。義仲が31歳で巴御前は28歳でした。

 

巴御前は、粟津の戦いにおいても臣下として木曽義仲に寄り添うように戦っていました。そして、平家物語は、木曽義仲の巴御前との最期のときをこう描写しています。

「そなたは女なのだから、早くどこでもいいから落ちて行け。我はここで討ち死にすると思う。木曽殿は最後まで女を連れていたとあっては聞こえが悪い」

それでも巴御前は義仲のそばを離れようとしませんでしたが、繰り返し逃げるように語り続ける義仲をみて巴御前は、【どこか良い敵がいないだろうか?私の最後の戦いをお見せしたい】と言ったそうです。

 

その時、武蔵国でも力持ちと名高い御田八郎師重が30騎引き連れ現れます。

巴御前は、その軍勢の中に駆け入り御田八郎に近づくとつかんで馬から引きずり落とし、自分の馬の鞍に押し付けて首を捩じ切って捨ててしまいました。そして、巴御前は武具を脱ぎして東国の方向へ去っていきました。

自分は義仲の本妻になれずとも、誰よりも一番近くで木曽義仲を支えてきました。最後の時まで自分は一緒だと心に決めていた事でしょう。しかし、巴御前を諭すように逃げろと語る義仲を見て、自分への愛の深さを知った彼女は、戦いに身を焦がすことで思いをささげた自分の姿を焼き付けたかったのかもしれませんね。

 

巴御前は尼となって91歳の生涯を終えた

鎌倉軍のとの戦いで死を覚悟した木曽義仲の願いを受け取り、泣く泣く戦場を離脱した巴御前はその後どうなったのでしょうか??

全国に巴御前の塚が15カ所ほどあります。その中で、越中(富山県)の南砺市福光天神にある巴松と呼ばれる松に守られるように巴塚のあたりが巴御前が晩年尼となり過ごした庵跡だと言われています。

平家物語では、義仲の願いを聞き入れ巴御前は東へと逃れたと書かれているだけでした。

鎌倉中期から後期にかけて書かれた軍記物【源平盛衰記】では、信濃に落ち延びた後捕らえられ鎌倉へ。そこで敗軍の将として死罪を申し付けられますが、有力御家人の和田義盛が【このような剛の者との子供が欲しい】と助命を嘆願し、和田義盛の妻となりました。

その後、和田義盛の願いが叶い豪勇を誇る朝日奈三郎義秀が生まれ、和田一族が滅んだあとは出家して余生を送り91歳で亡くなったと伝えられています。

しかし、源平盛衰記は軍記物語でフィクション説が濃厚で伝説の域を出ないのが現状です。

 

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また、吾妻鑑では越後の板額御前と言われる強弓の女武者の伝記が残されており、その後半生の話が巴御前のものとほぼ同じであることから、混同されて伝わったのではないかと言われています。

現在、倶利伽羅峠にある巴塚の案内板には源平盛衰記の内容の概要とともに、【尼となり兼生と称し宝治元年10月22日没し石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている】と記されています。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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