中国・東アジア

唐の国際関係【東アジア文化圏の始まり・その二】追記<中国史>

歴ブロ

前回の唐の政治体制と国際関係【東アジア文化圏の始まり・その二】でお話しした通り、唐の時代は国際関係の豊かな時代でした。実際に唐は周辺諸国の多様な要素を取り入れた文化を作り上げ、東アジア文化圏とも呼ばれる広大な文化圏が出来上がりました。

今回はそんな前回書いた記事に補完する形で

  • 周辺諸国から入ってきた文化と融合した唐の文化について
  • 周辺諸国への唐による影響

を表にしてまとめておきます。

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唐代の文化

唐代と言えば、その政策により意外にも?皇帝より貴族が力を持っていましたね。実際に文化面でも貴族的色彩が強く現れていたようです。

ここに、隋唐以前の北朝を治めていた遊牧民たちの文化と南朝の華麗な文化の融合、さらには交易にともなって流入した異国の文化が混ざり合い国際的な特色を持つ文化が誕生しています。

一国の影響だけが強いわけじゃないためなのか、唐の文化には他国が受け入れやすい土壌が備わっていました。やがて東アジア全域に唐の文化が影響を与え、東アジア文化圏が形成されることとなったのです。

儒教訓詁学儒学の主要な経典『五経』の字句解釈を重んじる訓詁学は後漢の時代に発展

孔穎達(くようだつorこうえいたつ)らが『五経正義』という五経の公式解釈が作られ、科挙のテキストとして使用。
宗教仏教唐代前半に国家の保護により諸宗派が確立。
 □宗派・・・天台宗 / 法相宗 / 律宗 / 華厳宗 / 浄土宗 / 禅宗 / 真言宗
 □渡印僧・・・玄奘(げんじょう)『大唐西域記』、義浄『南海寄帰内法伝』
会昌の廃仏(845年)

道教に傾いた第18代皇帝・武宗によって行われた。当時は仏像や仏具の作り過ぎによって銅不足に。銅銭不足による経済的混乱に陥っていたため、経済政策も兼ねていたと言われている  →実践的な禅宗浄土宗が仏教の中心に。
道教宮廷から厚い保護
祆教
(ゾロアスター教)
北魏時代に伝来した
景教
(ネストリウス派キリスト教)
431年のエフェソス公会議で異端とされ、拠点を東に移しながら存続。積極的な布教活動を展開したのち、635年に阿羅本が来朝して布教を開始。638年には長安に大秦寺を建立した。
マニ教ゾロアスター教・キリスト教・仏教の要素を融合。則天武后の時代に伝来。ウイグルで信仰され友好関係を維持するためにも唐は保護政策が行なった。
イスラーム教
(清真教)
高宗の時代にアラビアのムスリム商人によって海路で伝来。広州(交易港)などにはイスラーム寺院(清真寺)が建立されている。
文学唐詩盛唐…李白杜甫・孟浩然・王維、中唐…白居易、晩唐…杜牧・李商隠
散文韓愈柳宗元…漢代の文体(古文)に復帰することを主張←この2人は、いわゆる唐宋八大家にも挙げられている
伝奇短編小説、平安時代の日本文学にも影響
歴史劉知幾『史通』、房玄齢『晋書』
初唐…欧陽詢(おうようじゅん)虞世南(ぐせいなん)←太宗に招かれて貴族の子弟に楷法を伝授。科挙にも明書科が置かれ、官僚の選考基準にも書の審査があった。
中唐…顔真卿(がんしんけい)、初唐の楷書に変わり、自由な書体が追求され顔真卿が革新的な書風を生み出した
絵画閻立本(えんりっぽん)…人物画、呉道玄…仏画、李思訓…山水画、王維(唐詩にも出てきた人物)…山水画
工芸唐三彩

これらの文化は、律令などの制度と共に日本も含む東アジア諸国に大きな影響を与え、国家形成にも大きな役割を果たしています。

東アジア諸国への影響

7世紀勢力図
朝鮮半島高句麗【前1世紀頃〜668年】
隋の時代に3度、唐になってからも遠征軍を送るも、高句麗が撃退。対高句麗のために唐と新羅に同盟を結ばれ挟撃された末に滅亡した。
百済【4世紀前半?〜660年】
滅亡後、百済再興のために日本と手を結ぶも白村江の戦いで敗戦。
新羅【前57年〜935年】
朝鮮半島で最後まで残った国。676年に統一国家を樹立し、都を金城(現・慶州)に置き、骨品制(新羅独特の身分制)と呼ばれる貴族支配による唐朝を参考とした官僚国家とした。
仏教を奨励。
日本ヤマト政権で氏姓制による豪族を中心とした支配が続いていたが、やがて豪族間の対立が表面化(大伴氏vs.物部氏、物部氏vs.蘇我氏)。

6世紀になると推古天皇聖徳太子らが十七上の憲法の制定などで諸制度を整備小野妹子らを遣隋使として派遣して大陸からの制度や知識、仏教を取り入れようとした。

その後、政権は蘇我氏が完全に握るも中大兄皇子(のちの天智天皇中臣鎌足らにより645年乙巳の変が起こされると、本格的に中央集権的な律令国家を作ることとなった(大化の改新)。

なお、律令国家となった後も中国文化の輸入のために遣唐使が派遣されており、701年の大宝律令、718年の養老律令の制定、唐都・長安を真似て作った天平文化が花開いた平城京や弘仁・貞観文化が広まった平安京も建設されている。

そのさらに後、唐の混乱により遣唐使が廃止されると独自の国風文化へと繋がった。
渤海【698〜926年】
高句麗の遺民・大祚栄(だいそえい)がツングース系の靺鞨(まっかつ)族を統一して現・中国の東北地方に建国。文化を積極的に取り入れ「海東の盛国」と呼ばれた。
※先進的な文化などが取り入れられた上に唐より近いこともあって、日本は頻繁に渤海使を送っている
吐蕃【7〜9世紀】
チベットにおいてソンツェン=ガンポが建国。時に中国へ侵入したため、唐の皇女が降嫁して侵入を収めさせた。
インド系の仏教を受容してチベット仏教(ラマ教)の基礎が出来上がっていった他、インドの文字を基礎としたチベット文字も使われるように。755年から起きた安史の乱で唐が衰退すると、吐蕃は勢力を拡大。敦煌(とんこう)を占領し、763年には長安にも侵入した。
南詔【?〜902年】
雲南と呼ばれる地方で唐と吐蕃の間にできたチベット=ビルマ系の人々によって建てられた国。漢字を公用するなど唐の文化を取り入れるが、衰退に伴い吐蕃と同盟を組んで四川地方に侵入した。その後は南詔内部の腐敗で王室の権力は形骸化。紆余曲折を経て服属していた弾氏が大理国(937〜1254年)を建国し、モンゴルのフビライ=ハンに滅ぼされるまで存続した。
ベトナム(越南)時の王朝により何度も遠征が行われた地であり、唐以前からも中国の影響下にあった。622年に唐はハノイに大総管府を、679年には安南都護府を置き、唐の支配下に置かれていた。

このように近隣諸国では唐から大きな影響を受けています。今でも漢字圏の国が複数あることからもわかりますね。

やがて唐が衰退し始めると吐蕃と南詔のように唐へ侵攻したり日本のように距離を置きはじめる国が出てきます。

その原因となったのが安史の変

次の更新では安史の変をはじめとした唐の衰退と動揺、さらにその後の分裂時代までをお話しします。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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