平安京への遷都と平安時代<794年~>
行政の簡素化や公民の税負担軽減を行った光仁天皇の後に桓武天皇が即位しその政策を受け継ぎました。
桓武天皇は、仏教政治の弊害を断ち天皇権力の強化のために、784年に平城京から長岡京へ遷都を行いました。しかし、長岡京造営の主導をした藤原種継が暗殺され、皇太子の早良親王や大伴氏・佐伯氏の旧豪族たちが退けられました。
また、桓武天皇の周りで相次いで不幸が起こり、長岡京も中々完成はしませんでした。
平安京へ遷都
794年には、京都の地に再遷都を行い平安京を作り、山城国と名付けました。
これにより、源頼朝が鎌倉後に幕府を開くまでの約400年の時代を平安時代と言います。
蝦夷との戦い
東北地方では、奈良時代にも北上川や日本海沿いを北上して城柵が設けられました。
この城柵には、役所群や倉庫群が置かれ、行政の役所的な性格を持っており、その周りには関東地方などから農民たちが移住し開拓をさせていました。
このような城柵を拠点に蝦夷地方の支配を進めてきましたが、780年には中央に帰順した蝦夷の豪族・伊治呰麻呂が反乱を起こし、これを機に東北地方では30年余りにも及ぶ蝦夷との争いが起こりました。
789年に桓武天皇は、紀古佐美を征東大使として大軍を送り北上川中流域の胆沢地方の蝦夷の制圧を試みますが、政府軍が大敗を喫すことになります。その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり802年、胆沢地方の制圧に成功し、日本海側でも米代川流域まで中央の支配権が及ぶまでになりました。
こうした、東北地方での戦いと平安京造営の二大政策に、国家財政と民衆の大きな負担となり、桓武天皇はこの二大事業の打ち切りを決定しました。
平安初期の政治改革
先述した通りに桓武天皇は、天皇の権威を確立させるとともに、積極的に政治改革を進めていきました。特に地方政治の改革には力を入れて、過剰にいた国司や郡司を廃止し、勘解由使を設け、国史の交代に伴う引き継ぎ業務を厳しく監視しました。
792年には兵士の質の低下に伴い、九州と東北地方の軍団と兵士を廃止し、郡司の親せきや有力農民の志願による少数精鋭の健児制を採用しましたが、十分な成果は上げられませんでした。
桓武天皇の改革は、平城天皇・嵯峨天皇に引き継がれましたが、810年に嵯峨天皇と平城太上天皇が対立し、争いが起きます。この一連の争いを【薬子の変】と呼ばれています。
この事件をきっかけに嵯峨天皇は、天皇の命令を速やかに太政官組織に伝えるための【蔵人所】を設け、その長官に【蔵人頭】を置きました。天皇の側近として蔵人は、宮廷内で重要な役割を果たすことになります。
また嵯峨天皇は、平安京内の警察組織である【検非違使】を設け、後に裁判も行えるようになり、京の統治を担う重要な役職となりました。
嵯峨天皇の下、律令制定後に社会変化に応じて出された法令を補足・修正をする【格】と施行細則の【式】に分類・編集し、弘人格式が編纂されました。これは官庁の実態に合わせて政治実務の便宜を図ったもので、その後、貞観格式・延喜格式がそれぞれ編纂されました。
これらの3つを【三大格式】と言います。
貴族社会の変貌
8世紀~9世紀になると農民間に貧富の差が拡大し、有力農民も困窮農民もあの手この手で国の負担を逃れようとしました。この手段として、戸籍に兵役・労役・租税を負担する男子の登録を少なくする【偽籍】が増え、実態との乖離が生まれてきました。
こうして班田収授法の実施が困難にってきました。
そこで桓武天皇は、班田収受を遂行するために6年一班であった班田の期間を12年(一紀)1班に改正しました。また、公出拳の利率を5割から3割に引き下げ、雑徭の期間を60日から30日に減らし、公民たちの負担軽減を図りましたが効果はなく、9世紀には班田が30年~50年行われていない地域が増えていきました。
政府は、国司・郡司たちの租税徴収に関わる不正や怠慢を取り締まるとともに、823年に大宰府において公営田を、879年には官田を設けて有力農民を利用した直営方式を採用し、財源の確保に努めました。
しかし、各官庁がそれぞれの財源となる諸司田を持ち、官人たちも墾田を集め始め貯めこむようになりました。天皇も自らの勅使田を持ち、皇族たちにも暢田が与えられました。
平安京の文化
平安京遷都から9世紀ころまでの文化を弘人・貞観文化と呼ばれています。
平安京において、貴族を中心とした文化が発展し、文芸を中心に国家の隆盛を目指す【文章経国】の思想が広まり、宮廷では漢文学が発展し、天台宗や真言宗が広まり密教が盛んになりました。
嵯峨天皇は中国風を重んじ、中国文学に長けた人材を登用するなどの文化人を政治に参加させる方針を取っていました。
貴族の教養として、漢詩文を作ることが重要視され、漢字文化が広がっていきました。
次第に、漢文も貴族たちも使いこなせるようになり、国風文化の元となり嵯峨天皇・空海・菅原道真らが著名な文人として知られています。
新しい仏教と密教芸術
奈良時代の仏教が政治に深く介入した弊害を払しょくしようと桓武天皇は、南都の大寺院を平安京に移転することを認めず、最澄や空海の新しい仏教を支持しました。
最 澄
最澄は、比叡山で学び、804年に遣唐使で唐へ行き、天台の教えを受けて帰国して天台宗を開きました。これは、南都の諸宗派からの反発を受けることになりますが、最澄死後、草庵に始まる比叡山延暦寺はやがて仏教教学の中心となって行きました。
空 海
空海は、804年に唐入りして、長安で密教を学びました。帰国後、高野山に金剛峰寺を建てて真言宗を開きました。空海が嵯峨天皇から賜った、平安京の東寺も密教の根本道場となりました。
密教芸術の発展
天台・真言宗が盛んになると、神秘的な密教芸術が新たに発展しました。
建築部門では、寺院の堂塔が山間地において、形式にとらわれない伽藍配置で作られた。
彫刻では、密教とかかわりのある如意輪観音や不動明王などの仏像が多く作られました。これらの仏像は、一木造で神秘的な表現を持つものが多いのが特徴です。
絵画では、園城寺の不動明王像などの神秘的な仏画が書かれ、神護寺などの両界曼荼羅などの曼陀羅が発達しました。曼荼羅とは、密教で重んじる大日如来の知徳を表す金剛界と慈悲を表す胎蔵界の仏教の世界を整然とした構図で書かれたのもです。
他にも、嵯峨天皇・空海・橘逸勢のような書家が誕生し、後に三筆とたたえられました。