古墳時代

古墳時代から飛鳥時代にかけての豪族の対立

歴ブロ
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古墳時代から飛鳥時代にかけて、豪族たちが大きな力を持つことになります。

背景を詳しく見ながら磐井の乱に至るまでの経緯も分かるように紹介して行きましょう。

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古墳時代の一大勢力・ヤマト政権について

時期によって権力の在り方も変わってきますので、そこら辺の簡単な事情を確認します。

  • 前期(3世紀中頃~4世紀)
    ヤマト政権が形成され、各地の豪族との結びつきを広げる
  • 中期(5世紀)
    大王を中心とするヤマト政権の影響力が強まる
  • 後期(6世紀)
    大王と有力豪族が政治を担う
  • 飛鳥時代(6世紀末~7世紀)
    中央集権的な国家づくりが進められる

地方の豪族が服属

古墳時代初期のヤマト政権は、大王がすべてを直接支配する国家ではなく、各地の豪族が結びついた連合的な政治勢力だったと考えられています。

『古事記』や『日本書紀』には、大国主神が天照大神の子孫に国を譲る「国譲り神話」が記されています。神話をそのまま史実として扱うことはできませんが、ヤマト王権が地方の勢力を取り込んでいった過程や、その支配を正当化する考え方が反映されているとみる説もあります。

その後、ヤマト政権が各地に影響力を広げると、大王を中心に有力豪族が政治や軍事を担う体制が形づくられていきました。

※出雲の国譲りの経緯は下の記事に書かれています。イラスト多用の緩い記事なのでご注意ください。

こうした有力豪族の一つが、奈良盆地南西部の葛城地域を拠点とした葛城氏です。葛城氏は大王家と婚姻関係を結び、5世紀前半には大きな力を持っていました。

しかし、『日本書紀』によると、安康天皇が暗殺された後、後に雄略天皇となる大泊瀬皇子が葛城円大臣を滅ぼしたとされています。こうして葛城氏は政治的な影響力を失い、雄略天皇のもとで大王の力が強まっていきました。

雄略天皇は、渡来系の技術者集団を取り込み、手工業生産の充実を図ったとされています。また、朝鮮半島との関係を持ち、中国の南朝にも使者を送りました。『宋書』に記された倭の五王「讃・珍・済・興・武」のうち、雄略天皇は「武」にあたると有力視されています。

雄略天皇の後には、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇が続きました。しかし、武烈天皇には後継者となる男子がいなかったため、大伴金村や物部麁鹿火らは、応神天皇の5世孫とされる人物を越前から迎えました。これが第26代継体天皇です。

この後は4代ほど短命の天皇が続きます。最後の第25代天皇には子がいなかったため、大伴金村物部麁鹿火(もののべのあらかび)が第26代天皇の継体天皇を引っ張り出してきます。

れきぴよ
れきぴよ

『古事記』と『日本書紀』によると、継体天皇は応神天皇の5世孫とされています。

ただし、応神天皇から継体天皇までの系譜には不明な点もあります。そのため、継体天皇を従来の王統から離れた人物、あるいは新しい王統の始まりとみる説もあります。

継体天皇は新王朝の開祖では?と言われてたりもしますが、今は豪族のお話なので一旦おいておくことにします。

ともかく、継体天皇を強く推したのが大伴氏物部氏だったわけです。

  • 大伴氏:大王の親衛や宮廷の警護に関与
  • 物部氏:武器の管理や軍事などを担当

とされています。

両氏は5世紀後半から6世紀にかけて、ヤマト政権内で大きな影響力を持つようになりました。

日本の古代史には欠かせない朝鮮半島情勢

5世紀の中国大陸は南北に分裂しており、周辺諸国の関係も大きく変化していました。こうした国際情勢のなかで、高句麗は朝鮮半島南部へ勢力を拡大し、百済や新羅を圧迫しました。

れきぴよ
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当時の中国は五胡十六国時代南北朝時代の移行期でした

一方で、日本と最も関係の深かったのは伽耶(かや、加羅とも言われる)南部です。伽耶は一つの統一国家ではなく、朝鮮半島南部に存在した複数の小国の総称です。これらは緩やかな連合を形成していました。

伽耶諸国のなかでは、当初、金官国(きんかんこく)が中心的な勢力でした。しかし、高句麗の攻撃などによって金官国の力が衰えると、5世紀後半からは内陸部に位置する大伽耶が勢力を伸ばしました。伽耶諸国は鉄の生産や交易によって発展したことでも知られています。

(日本)は鉄などの資源や朝鮮半島との交易路を確保するため、伽耶諸国や百済との関係を重視しました。また、高句麗の南下に対抗するため、朝鮮半島へ軍事的に進出することもありました。

れきぴよ
れきぴよ

高句麗に対抗するため百済・伽耶南部・倭の間で協力関係を結んでいました

こんな混乱してやまない朝鮮半島情勢の中、伽耶は徐々に勢力をそがれることになります。実際に、6世紀初めの継体政権では重要問題の一つとして朝鮮半島との関係が挙げられています。そんな中で徐々に頭角を現してきたのは朝鮮半島南部の新羅です。

ここで継体朝の課題となったのが、百済や伽耶南部への対応です。527年、継体天皇は新羅に圧迫されていた伽耶南部への影響力を回復するために出兵を命じますが、新羅も対策に動きます。

倭国から朝鮮半島へ出兵する際、重い負担がかかるのはやはり北部九州です。

『日本書紀』によると、新羅は北部九州の有力豪族である筑紫君磐井に賄賂を贈り、近江毛野(おうみのけな/近江国の豪族)の進軍を妨げさせたとされています。

こうしたなか、磐井は近江毛野の進軍を阻み、ヤマト政権との戦いに発展しました。これが磐井の乱です。

磐井の乱平定後、近江毛野は朝鮮半島へ渡りますが、伽耶南部への影響力を回復することはできず、遠征は失敗に終わりました。

磐井の乱で物部氏は中心的な働きをした一方、朝鮮半島関係の責任者は大伴氏でした。(第29代)欽明天皇政権において物部氏は伽耶をめぐる政策の責任を追及し、大伴金村は隠居。大伴氏の全盛期を終えることにはなりますが、その後も度々大伴氏は歴史の表舞台に顔を覗かせています。

れきぴよ
れきぴよ

継体天皇の後には、在位期間の短い安閑天皇と宣化天皇が続き、その次に欽明天皇が即位しています。

大伴氏の一族で有名なのが「大伴家持(おおとものやかもち)。『万葉集』の歌人として国語の教科書で見たことがあると思います。

仏教伝来と蘇我氏隆盛への布石

この欽明政権ですが、今後に影響する重要な出来事が起こります。

第一に仏教の伝来です。これは現在に至るまで大きな影響を与えていました。第二に蘇我氏の娘を娶ったことです。

蘇我氏は渡来人との関係の深い豪族です。当時、渡来人を含むさまざまな職業集団は「品部」として組織され、それぞれ伴造と呼ばれる豪族に率いられていました。大伴氏も、こうした集団をまとめた有力豪族の一つで、朝鮮半島政策にも深く関わっています。

その大伴氏が失脚した後、渡来人とのつながりを持つ蘇我氏は、朝鮮半島との関係を担うのに適した一族だったのでしょう。実際には、大伴氏が失脚する前から蘇我氏は大臣についていたわけですが。

こうした渡来人や朝鮮半島とのつながりを考えると、百済から伝わったとされる仏教を蘇我氏が推したのは、自然な成り行きだったのでしょう。

一方で、物部氏にとっては面白いわけがありません。

『日本書紀』によると、物部尾輿は、外国の神である仏を祭れば日本の神々の怒りを招くとして反対しました。また、欽明政権で仏教が広まれば、仏教を支持する蘇我氏の力がますます大きくなる可能性もありました。

ここから蘇我氏と物部氏の対立が本格化していきますが、結果はご存知の通り。最終的には587年、蘇我馬子らが物部守屋を討ち、崇仏派の蘇我氏に軍配が上がりました。

仏教が入るとほぼ同時に天然痘と思われる疫病が入って来てるため、蘇我氏の影響力が下がることもありました。が、宣化天皇の時代に大臣になった蘇我稲目(そがのいなめ)以降、蘇我氏は勢力を拡大。特に物部氏を討って以降は、政権内で主導権を握ります。

蘇我氏に関する記録は、後に編纂された『日本書紀』に多く残されました。

そのため、蘇我氏が殊更悪く描かれている可能性もありますが、その記述を見る限り、専横ぶりはすごいものがあります。蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺させたとも記されています。

当然反発を招き、乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)にまで至ることとなりますが、また改めて書かせてもらいます。なお、現在では大化の改新と呼ばれる出来事は中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した後の一連の政治改革を指していると言われています。

なお、蘇我稲目が大臣になれた理由に奥さんの出自も影響していたと考えられています。古墳時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみる にも書いた、かつて大きな力を持っていた葛城氏の娘が蘇我稲目に嫁いでいるようです。

記事更新 2026年7月23日

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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