ヤマト政権下での仏教の伝来と豪族の対立
私たちにも何らかの形で受け継がれているものに宗教があります。
日本人は、他の国より宗教については敏感ではありません。
身近な人が亡くなり、お葬式に立ち会ってはじめて、自分たちの家系は○○宗だったのかと気が付くこともしばしばあります。これは、江戸時代の檀家制度によって、いずれかの宗派に属する事を決められた名残だと言われています。
現在ではお葬式で僧侶にあったり、色々な宗派のお経を耳にすることは、ごく当たり前に受け入れるものとなっています。それだけ仏教というのが私たちの当たり前となったいうことです。
しかし、今から1400年前の日本において仏教を受け入れるか否かで大きな争いになった事があります。
それが、蘇我氏と物部氏の対立です。
この対立は、仏教を我が国に取り入れるかではなく、後の大化の改新や聖武天皇の時代の考え方にも影響を与えます。
この記事では、1400年前のヤマト政権が仏教を取り入れたことで我が国にどのような影響を与えたのかを書いていきます。
ヤマト政権とは?
まずは基本的な、ヤマト政権とは何か説明していきます。
弥生時代の終わりころ、3世紀後半~4世紀初めに奈良県大和地方にヤマト政権が誕生します。大王(おおきみ)を中心とする豪族たちの連合政権で。5世紀にはその勢力を九州や関東地方まで勢力を広げます。
諸説ありますが、邪馬台国が元となったとも言われています。
このヤマト政権は、氏姓制度によって中央・地方の豪族を大王中心の支配体制下に組み込む社会制度を敷いていました。その豪族たちは臣・連・君・直と言った約30種類の【姓】という称号が与えられます。
政治の中心を担った蘇我氏と物部氏
姓の中でも臣と連が政治の中心となっていきます。この2つ姓に大を付けて最高の地位として【大臣】【大連】と呼びました。
大臣と大連は、政権内の有力な豪族を従えることにより政治をリードしていきます。しかし、常にこの二つの地位にいれるとは限りません。6世紀以降になると大臣には蘇我氏、大連には物部氏の家系が独占していくことになります。
両家が争っていたことで、互いに宿敵であるというイメージがありますが、この2大勢力による安定政権の時代があったり、対立が起こっても、蘇我馬子が物部守屋の娘を妻にする関係修復の道を模索していたことから、元々仲の良かった間柄だったと考えられています。
しかし、史実通りに関係修復への努力むなしく、両者は最終的に仏教を取り入れていくかで大きくもめていく事になるのです。
仏教はどのように伝わってきたのか?
仏教が伝わってきたとするのには2つの説があります。
538年の聖徳太子の伝記が根拠としている説
「志癸嶋天皇の御代の戊午の年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教並びに僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆せしむる也。
引用元:『上宮聖徳法王帝説』
- 志癸嶋天皇⇒欽明天皇の時代
- 戊午の年⇒538年
- 百済国主の聖明王が⇒初めて仏教経教並びに僧を送ってきた。
- 蘇我稲目に授け、興隆させた。
日本書紀の552年を根拠にしている説
「(欽明天皇十三年)冬十月、百済の聖明王(中略)釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る。(以下略)」
引用元:『日本書紀』
先ほどのとの違いは、欽明天皇十三年というのが552年を指しています。
その後の百済~と言う文言は同じです。
上記は公的な仏教伝来であって、既に私的には伝えられていたとされています。
『扶桑略記』という史料に、これ以前の継体天皇の時代に渡来人の司馬達等が仏像を自宅に於いて祈った姿が記されているそうです。
では、百済の王はなぜ日本に仏教を伝えたのでしょうか?
当時、百済は新羅と北部の高句麗から軍事的圧迫を受けていました。
そこで日本と信頼関係を作り、軍事的な援助をしてもらうために、仏教を伝えたと考えられます。仏教と言うものが当時、国を豊かにするための【科学】と捉えられていたので、日本にも技術提供みたいな形で伝えたのです。分かりやすく言うと、友好関係を築く国に最先端の科学技術を提供したりするのと同じイメージです。
蘇我氏と物部氏の対立
この仏教の伝来により、一つの争いが起きます。
それが、蘇我氏と物部氏の宗教論争です。
両社の言い分は以下のようになります。
元々中国・朝鮮から来た渡来人との交流があり、仏教を信仰すること=彼らとの交流を深めるのにも繋がる!(蘇我氏の言い分)
外国から伝わる新しい神ではなく、この国の神々を祀るべきである!!(物部氏の言い分)
最終的には仏教推進派の蘇我氏が勝利を収めることになります。これにより、蘇我氏に対して対抗できる有力な豪族がいなくなったことになり、権力を手中に収めた蘇我氏は栄華を極めていくのです。