飛鳥朝廷と聖徳太子【厩戸王】の国家改革
空白の4世紀を経て日本が史料的に登場するのが、5世紀を迎えた頃です。
ヤマト政権という連合政権が登場し、大王たちを中心に支配されており、その範囲は九州から北関東まで広げていたそうです。5世紀後半には、 倭の五王(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる5人の有力な大王が政権を握っていました。中でも、武(雄略天皇)は、中国の南朝・宋に対して使いを送り、服従の意を示すことによって、自らの政治的立場を強くしていまいした。
そんな中、東アジアの情勢が変化します。
589年、三国時代などの経て群雄割拠が続いていた中国に再び、統一王朝【隋】が誕生します。この隋はとても強力であったため、日本のみならず東アジア全体に影響を与えました。
6世紀初めのヤマト政権下では、大伴氏が政治を主導していましたが、朝鮮半島への政策のもつれから力を失い、6世紀中ごろには物部氏と蘇我氏が対立することになります。蘇我氏は、渡来人と結んで朝廷の財政権を握り政権の整備や仏教の導入を積極的に進めました。
曽我氏の台頭と厩戸王
その頃、日本では大臣・蘇我馬子が587年に大連の物部守屋を滅ぼし、592年には崇峻天皇を暗殺して政権を握りました。
そして、敏達天皇の妻である推古天皇が新たに即位し、国外緊張のもとで蘇我馬子や聖徳太子『厩戸王』が協力して国家組織の形成を進め、603年には冠位十二階を、604年には憲法十七条が定められました。
中国との国交は、武【雄略天皇】以来途絶えていました。
きちんとした国交を開かないと、たちまち隋に飲み込まれてしまう可能性がありました。そこで、593年から推古天皇の摂政として政治を行っていた聖徳太子は隋へ外交に乗り出します。
第1回の遣隋使の派遣
600年に1回目の遣隋使の派遣を行います。
隋の皇帝に対して使者を送り、国交樹立を提案しますが失敗に終わります。
当時の日本の政治や制度があまりにも遅れており、外交関係を結ぶような国家として認められなかったのです。
この外交での失敗をもとに、国としての秩序を守ろうと天皇を中心とした中央政権的な政治を作ろうと国家改革を行います。大国【隋】を相手にするには、日本も天皇を中心に1つにならなければいけないと判断したのです。
この政策が603年に制定した冠位十二階と604年の十七条の憲法です。
冠位十二階の制
これは氏姓制度によって決まっていた家柄による身分・職業制度の改革でした。
より有能な人材を登用し、国家機能を発展させる事が目的です。
氏姓制度では「家」に位を与えていましたが、冠位十二階の制では「個人」単位で冠位を与えたところが大きな違いです。
十七条憲法
これは天皇の命令にしっかり従って働くようにという役人の心構えを示す内容です。
憲法というと全国的に公布したように感じますが、あくまでも役人対象なので間違わないようにしましょう。
第2回の遣隋使の派遣
こうした政治改革の後、リベンジのため2回目の遣隋使の派遣を行います。
この2回目の遣隋使派遣で小野妹子が選ばれます。
史料としては、
大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。(中略)其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿れ。」と。明年、上、文林郎裴清を遣して倭国に使せしむ。
引用元:『隋書』倭国伝
大業3年とは607年の事です。
遣隋使が行われるまで、日本は中国王朝に対してずっと服属の意志を示してその権威を借りる形式でした。それを従来の朝貢関係ではなく、対等な外交関係を求めている文言が盛り込まれました。
当時の日本は、朝鮮半島の利権をめぐり新羅と対立していました。
新羅との対立において、隋と対等な関係を築いておくことは大きな効果があります。
しかし、隋の皇帝は【対等な外交はもってのほか、今まで通りに…】と考えており、倭国はこれまでと同じ従属している国と位置づけていました。
それゆえに小野妹子が渡した書状に対して皇帝は激怒したとされています。
この時期、隋の方も高句麗と緊張関係にありました。
そのため、倭の国からの国書を拒絶して倭国が高句麗と手を組むような事があれば、隋にとって厄介なことになります。こうした背景から、激怒した皇帝でしたが、隋は倭国と対等な関係を築く以外の選択肢がない状況でした。
このような状況は、決して偶然ではなく倭国も隋と高句麗の関係性を知っての上での外交策だと言われています。
聖徳太子について
この記事では、聖徳太子が国家改革を行ったと書きましたが、最近の教科書には聖徳太子の扱いがどんどん小さくなっているそうです。最近の研究で太子の存在そのものが疑問視されているのです。
では、聖徳太子がいなかったと言われればそれも違うようで、私たちがよく読んでいる聖徳太子という名前がそもそも本名ではなく、厩戸王と呼ばれています。
厩戸王は、574年~622年に実在した飛鳥時代の政治家です。
用明天皇の皇子として生まれて、19歳で推古天皇の摂政となり先ほど書いた、数々の偉業を成し遂げました。この功績をたたえて後に聖徳太子として人々にたたえられ、その名が現在に定着しています。
上記のような功績ありきの聖徳太子と言う名前後世につけられたのです。
この功績が本当であれば、厩戸王=聖徳太子でOKなのですが、彼の行ったとされる実績である「冠位十二階」「憲法十七条」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」などを一人の人物がすべてやったとは考えられないというのが事実です。
厩戸王の史料をすべて調べてみると、これらの政策に彼を中心に進められてきたという完璧な証拠がないというのが今の見解です。陰で、蘇我馬子らが協力したと教科書にも書かれていることから、彼らがすべての政策を進めてきたのでしょう。
どちらにせよ、政治家であることは間違いはないので、厩戸王は政権の中枢にいたのは町が無いでしょう。
では、どこの誰が聖徳太子と言う名前が登場したのでしょうか??
厩戸王の死後に壮絶な皇位継承争(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜して、勝者となった天武天皇は天皇中心の中央集権律令国家をすすめていきます。
この時に天武天皇は、厩戸王という人物に着目して、彼の生きた時代の施策を膨大評価して、これらの偉業すべてに関与して成し遂げたとして聖徳太子を作り上げたとされています。ライバルである豪族達に対して、自らの血筋の優秀性と国の統治者である正当性を認識させるためと考えられています。
史料というのは常に自らが有利になる様に書かれているものです。つまり朝廷が書いた日本書紀も客観性があるのか常に疑いの目で研究されています。
こうした背景があり、最近の教科書では厩戸王(聖徳太子)と書かれていることが多く、いずれは聖徳太子と言う文言が消えるとも言われています。わたしの時代ではしゃもじを持ったおじさんが、聖徳太子と習ったのでこのような記事の書き方をさせていただきました。
飛鳥朝廷と文化
6世紀末頃から奈良盆地南部の飛鳥地方で大王の王宮が次々に建てられました。
中央の豪族たちは、王宮とは別に邸宅を構えていましたが、飛鳥の地に王宮が集中し次第に都としての姿を見せることになります。
渡来人の活躍もあり百済や高句麗、中国の南北朝の文化の影響を大きく受け、蘇我氏による飛鳥寺(法興寺)や舒明天皇が建てた百済大寺、厩戸王の創建とされる四天王寺・法隆寺などが建設されました。これら寺院の建設は、古墳に代わり豪族たちの権威を示すものとなりました。
このような蘇我氏や王族たちにより広められた仏教中心の文化を飛鳥文化と呼ばれています。
逸話が多いが聖徳太子は存在しない!?
逸話が多く、この時代の具体的な史料が少ないので人物像があまりつかめていないのが現状で、実は聖徳太子【厩戸王】と言う人物自体いなかったのでは?と言われるほどの謎多き人物です。しかし、奈良時代頃から聖徳太子の信仰は始まっているので、死後まもなく民衆からのなんらかの人気を得ていたのでとても徳のある人物だと思われます。
仏教を本格的に日本に普及させた功績から、聖徳太子は日本仏教の祖と言っても良いほどに日本仏教に大きな影響を与えた人物です。
「聖徳太子無くして日本仏教なし」と言っても良いかもしれません。
蘇我馬子も仏教の布教に一役買ってはいますが、崇峻天皇殺害疑惑が付いて回るのであまり話題にはなりません。
そのため、民衆が仏教を学ぼうとすると必ず聖徳太子の名が挙がってくることから、【こんな素晴らしい教えを広めたならすごいやつなんではないか??】と民衆単位で逸話が生まれたとしても不思議ではありません。
さらに、聖徳太子の息子・山背大兄皇子が悲痛な最期を遂げ、その血筋が途絶えたことも物語性を持たせ、人気に火がついたのかもしれません。
- 推古天皇の下で政治に勤しんだ忠勤ぶり
- 日本仏教の祖のような存在として認識されていること
- 仏教が普及するのに合わせて聖徳太子も有名になったこと
- 息子が悲劇的な死を遂げたこと
- 生きてる間の聖徳太子が超いいやつだったこと
このあたりの評判が後世まで伝わり、聖徳太子人気の秘訣になったかもしれませんね。