壬申の乱が起こった背景
本日のテーマ壬申の乱は天智天皇の崩御後に起きた後継者争いのことを言います。
天智天皇の息子と弟による後継者争いです。
日本で初めての天皇の後継者争いである内乱が起こった経緯を調べてみることにします。
壬申の乱の原因
天智天皇を長年支えてきた弟・大海人皇子と、天智天皇の息子・大友皇子が争ったのが壬申の乱ですが、きっかけは何処にあったのでしょうか?
当初、天智天皇は長年自らを支えてきた大海人皇子を後継者に、と考えていたそうです。ですが、晩年心変わりをして息子を跡取りにしようとしたことが原因だとされています。
後継者はどうやって決めるのか?
この頃は、まだ権力者でも人生40代くらいまでしか生きられません。その上、日本全国を統治しているわけではない。いざとなれば、軍を率いる事もある。
実際に天智天皇が崩御する1年くらい前から、九州が危うい状態となっていたようです。
そんな状況で後継者に息子をとなると、「若すぎて跡を継ぐのには心許ない」、そんな風に周りの人たちは思う事でしょう。
そんなわけで、この時代は子供が跡を継ぐよりも兄弟などが跡を継ぐ方が一般的だったようです。が、この大友皇子は非常に有能な人物だったと言います。これが不運の始まりです。
このような状況の中、天智天皇は生前、668年で既に皇太弟となっていた?※1大海人皇子を差し置いて「最有力の皇位継承者、兼、天皇の共同統治者のようなもの」である太政大臣(だいじょうだいじん)という地位へ671年正月に大友皇子を初めて就かせました。それまでになかった地位を作り、息子に就かせたわけです。
※1.実際に皇太弟だったかは不明とする説もある。大海人皇子(=天武天皇)が皇太弟だという根拠となる文献が、天武天皇による指示の元で作られたということで、「天武天皇にとって都合良く書かれている」のでは?という理由です。皇太弟かどうかはともかく皇位継承に近い人物だったことは確かなようです。
天皇の補佐役となる地位に息子を就けたという事は大海人皇子、並びに他の豪族たちの目にはどう映ったのでしょうか?おそらく「天智天皇が次に天皇にしたいのは大友皇子」と見えたに違いありません。
天智天皇(=即位前は中大兄皇子)の経歴
中大兄皇子は、645年に乙巳の変を起こし、その後、乙巳の変で協力した蘇我倉山田石川麻呂を無実の罪で自害へ追い込んだ首謀者では?とされているような人物です。
また、孝徳天皇崩御後に蘇我系の天皇候補者の一人であった古人大兄皇子を謀反の罪から攻め入って殺したり、有馬皇子を同じく謀反の罪から絞首刑にさせた首謀者として疑われていたりします。
見事に気に入らない人物は悉く消し去っていった様に見えますね。
壬申の乱に至るまでの経緯
そんな天智天皇も病にかかります。671年9月に床に臥せ、9月には大海人皇子を病床に呼び寄せて後事を託そうとしたと言います。 が、上のようなことをやっていた人が信用できるはずもなく、大海人皇子はそれを断り僧となって吉野(奈良県南部)という地へ向い、この地で天智天皇が崩御するまでは大人しくしています(おそらく、その間に少しずつ根回しもしていたのだと思いますが)。
既に大友皇子が弘文天皇※2として政治を行っていましたが(宮が近江にあったので近江朝という事があります)、672年6月、遂に大海人皇子が挙兵すると次々に豪族たちが協力します。
※2.治世の時が短く、即位に関する儀式を行っていなかったため歴代天皇として見做されていなかった。実際に認められるようになったのは明治に入ってから。
では、何故そんなにも豪族たちが協力的だったのでしょう?天智天皇への不満でしょうか?その不満とは何だったのでしょうか??気に入らない人物を消してきたこと・・・それも勿論あるでしょうが、それだけではありません。
天智天皇で忘れてはいけない出来事とし白村江の戦いでの大敗が挙げられます(正確には中大兄皇子)。勝てたのならともかく、敗戦というだけでも不満はあるでしょう。働き盛りの男性を徴収したらそれだけ生産性が落ちるわけですし、その上負ければ何もメリットはありません(善戦したのならともかく)。
さらに、国土防衛のために城を築いたり遷都したりする必要が出てきてしまいました。これらを作るのには非常に多くの人手がいり、民衆は勿論ですが豪族にも大きな負担がかかったそうです。しかも、天智天皇は中大兄皇子時代、当時の天皇であった孝徳天皇と不仲になったことから既に宮を作らせていたり、白村江の戦いの本営地として宮を作らせていたり(指示していたのは既に亡くなっていた斉明天皇ですが、命令される側としたら斉明天皇指示でも中大兄皇子が指示でも関係ないでしょうから…)で20年の間に計4回も遷都させています。
強引な手法で政治を進めてきたツケが息子である大友皇子に圧し掛かったように見えますね。
とにかく、結果として壬申の乱では多くの豪族を動かすことが出来た反乱者側の大海人皇子が勝利し天武天皇として即位することになったのです。
以上が壬申の乱までの経緯ですが、あくまで天武天皇が編纂を指示した日本書紀の記述がベースです。そして編纂に多く関わった人物が藤原不比等。藤原不比等は藤原鎌足(=中臣鎌足)の息子であり、壬申の乱や大化改新関連には2人の思惑がそれぞれ絡んでいたのでは、なんて言われることもあって確実とは言い切れません。
ここからはオマケです。気になる方だけ。
大海人皇子と天智天皇が不仲になった理由??
大海人皇子の元妻を天智天皇が取ったことが原因?なんてことも言われています。
お相手は「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る 」を詠んだ額田王です。
今は天智天皇と付き合っているけれど、大海人皇子も私も、実はまだお互いに気があって、彼は袖を振って好きだと伝えてくるわ。そんなあちこちで袖を振っていたら、警備の人がこれをみて、私たちの秘めた恋がばれてしまうじゃないの。
現代語訳だと、こんな意味になるんだそうです。
で、大海人皇子は「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも」と返します。
美しいあなたは私の妻ではなく、もう違う人(天智天皇)の妻である。別れたあなたのことを未だに憎いと思っていたら、あなたのことを恋しく思うことはないでしょう。しかし、人妻であるあなたのことを未だに恋しく思うのは、あなたのことを憎んではいないからです。
ここまであからさまなのでネタだろうと思いますが、絶対とも言い切れないそうで気になるところです。