日本史の流れ

【日本史の大まかな流れ】平安時代から鎌倉時代までの流れ

 

貴族社会平安時代から武家政権誕生鎌倉時代までは、内容が濃い時代で、登場人物も多くとても分かりずらいです。政治体制も平安初期と後期ではガラッと変わってくるので、ポイントを押さえながら紹介していきます。

重要語句もたくさん出てきて訳が分からないかもしれませんが、学校の授業でもテストに出るところがたくさんあるので参考にしてみてください。

詳しい事柄は、リンクを張ってありますので参考にしてください。

平安時代からの日本史の流れ

平安時代は、藤原氏の台頭での摂関政治やその後の上皇による院政、平清盛の出現などの武士の台頭など支配体制が目まぐるしく変わった時代ともいえます。

この時代は、その時々の支配体制の特徴を押さえていくと覚えやすいかと思います。

平安時代の始まり … 794年 ~ 1185年又は1192年

 

桓武天皇平安京に移した794年~1185年や1192年の鎌倉幕府が開かれるまでの390年を指し、鎌倉幕府成立まで中央政府がほぼ平安京(京都)であったことから【平安時代】と呼ばれています。

平安京遷都直後の政権は、桓武天皇が自ら政治を指揮しており、彼が行った二大政策が、平安京造都と蝦夷の征討がよく上げられます。

特に蝦夷の平定では797年坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」が征夷大将軍となり活躍をしました。

以前、武士の記事で紹介しましたが、軍事の差別化と農民の負担軽減化のために【健児制】を導入しました。

 

桓武天皇の政治改革 桓武天皇の主な功績と言えば、二回に及ぶ遷都と東北地方の安定化。これらの他にもいくつか政治改革を行っていますので、今回は桓武天皇含む、...
武士はどのようにして生まれたのか?イラストを交えて解説!! 人類の歴史上、ほとんどの時代には身分制度がありました。 皇族や王族などの君主層、それを支えたり利用する貴族層とほとんどの割合を...

 

藤原氏による摂関政治の始まり

藤原鎌足を祖とする藤原氏は、平安時代になると鎌足の子・不比等の男子たちによって北家・南家・式家・京家と四家に分かれていました。しかし、各家の政治闘争の結果、平安中期には藤原北家※が栄えることになりました。※以後、藤原氏

この藤原北家・藤原良房が皇族以外での初めての【摂政】になった事により、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である【摂関政治】を行うようになりました。

 

藤原氏による権力の掌握を見ると摂関政治がわかりやすくなる 平安時代のイメージとして思い浮かぶのは、 貴族社会で華やかな時代 国風文化の時代 合戦のない平和な時代 ...

 

この摂関政治ですが、891年頃の宇多天皇の治世では、天皇と藤原氏の関係が薄く親政が引かれていました。この時期に、登場したのが菅原道真で、天皇は藤原氏に関係なく有能な人材を登用していました。

894年遣唐使を廃止したのもこの菅原道真でした。

 

学問の神様になった菅原道真の人生 以前は菅原道真と平将門の関係については書きましたが、肝心の菅原道真の人物像には触れませんでしたので、今日は菅原道真について書いてみた...

 

以降、醍醐天皇~村上天皇まで3代くらい天皇による親政が行われました。

藤原道長による摂関政治の最盛期へ

藤原四家による政治闘争は、藤原北家が勝利し実権を握りましたが、その北家内でも【氏長者】を巡り争うことになります。これに、勝利したのが藤原道長で子の頼通とともに摂関家・藤原氏の最盛期を迎えることになります。

この頃、一条天皇には2人の皇后(中宮)がおり、藤原定子が皇后になり1000年には、道長の娘・彰子が中宮として嫁いでいました。この2人皇后の女官が清少納言と紫式部でした。

清少納言は定子に仕え【枕草子】を紫式部は彰子に仕え【源氏物語】を執筆しました。

紫式部は、ほかにも宮中の様子を描いた【紫式部日記】を残しており、作中に清少納言をディスっていたそうです。

 

藤原北家・五男の藤原道長はどうやって出世をしていったのか? 平安時代の摂関政治の代表的人物と言えば、藤原道長です。 父・藤原兼家の五男として生まれた道長は、有力な兄たちがいたためさほど目...

 

院政の始まり

藤原道長から若くして摂政の職を受け継いだ頼通は、関白を50年勤め上げ父と共に藤原氏の全盛期を気づき上げました。しかし、天皇の皇后にした娘が男子に恵まれず、刀伊の入寇、平忠常の乱、前九年の役などの戦乱で内外から、これまでの権力基盤が揺さぶられることになりました。

そこに、頼通と疎遠だった後三条天皇が即位したことにより摂関藤原家の衰退がはじまりました。

藤原家と外戚を持たない後三条天皇は、その強みを生かし【延久の荘園整理令】を発布し、摂関家や大寺社の経済力削減や皇室経済の復興などの成果を上げました。

院政とは?

譲位した天皇が上皇となり、現天皇に代わって権力を握るのを院政と言います。

この上皇が実際に政治を行った者を治天の君(ちてんのきみ)と呼びます。

院政期に摂政・関白が無くなったわけではありませんが、実権を握っていたのは上皇で平安時代末期においては【白河上皇】【鳥羽上皇】【後白河上皇】の3上皇が有名です。

 

延久の善政と称えられた名君・後三条天皇は院政の基礎を作り上げた 平安時代の権力の推移を見ると、藤原鎌足や道長のイメージが強いのか、平清盛が出てくるまで藤原氏がずっと権力を持っていたように感...

 

武士の誕生と荘園の崩壊

始めのうちは、奈良時代の中集権的な律令政治を継承するが、藤原氏の荘園拡大に伴い綻びが見え始めました。そこで、政府は税収の確保のため個人を対象とした徴税から土地への課税へ。国司は徴税請負人(受領)として税を中央に納める代わりに一国を支配 ⇒ 受領に権限が集中。

奈良時代に発達してきた荘園ですが、開墾した地が自分たちの物になるという事で張りきったのは貴族や金持ち、寺社・豪族など。彼ら(開発領主)が力を持ち、支配権を強めるうちに税の免除まで承認されはじめる。さらに国司の領地への立ち入り禁止の特権まで持つようになって国司と開発領主が対立します。

 

班田収授法の崩壊と荘園の発達 飛鳥時代からの土地制度では荘園の原型となるような初期荘園についてまでを書きました。 今回のテーマは、荘園の発達と班田収授法が成...

 

その中で武装の必要が出てきた地方豪族や土着の貴族らが武士となって組織(武士団)を作る。藤原氏の力が衰えると代わって武士が台頭します。

平氏繁栄の祖・平清盛が太政大臣に…

皇位継承をめぐる皇族の争いが貴族・武士を二分。後白河天皇藤原通憲の進言により平清盛源義朝らを動員し保元の乱に勝利。

 

保元の乱が起こった原因とは?? 平安から鎌倉時代に移行する流れを知るのに避けられない争いが保元の乱と平治の乱、そして治承・寿永の乱です。 そ...

 

その後、藤原通憲平清盛が重用されることに反発した藤原信頼源義朝が挙兵。平治の乱に発展。平清盛が勝利し、ますます重用されることに。源義朝の子・源頼朝は伊豆に流されました。

平治の乱で地位を盤石にした平清盛は妹や娘を皇室や摂関家に嫁入りをさせて、急速に勢力を拡大し朝廷での権威を強めました。そして1167年平清盛太政大臣に任命されます。

太政大臣はこれまでは公卿が任じられていた貴族のトップとも言える地位で、武家としてだけでなく公家としての栄華も極めたことになります。

 

平安時代は、大きく分けて3つの時代があります。

  1. 藤原家が支配する摂関政治
  2. 天皇が中心の院政時代
  3. 平清盛が支配する武家政権時代

これらの3つの時代を別々に覚え、つなげていけば覚えやすいと思います。

 

鎌倉時代…1185年または1192年 ~ 1333年

 

平氏が力を持つようになって反発したのが後白河法皇の側近。平氏打倒しようとするが失敗したことで後白河法皇が鳥羽殿へ幽閉します。

 

【図解】平安時代から鎌倉時代への流れ 平安時代がとても長いので、少し表にまとめて流れを書いてみたいと思います。 これを見て流れをつかめたらいいなと思います。 図解...

 

更に平氏の権力が上がると同時に周囲の不満強まると、後白河法皇の子・以仁王の呼びかけに応じた源頼朝が挙兵し、最終的に壇ノ浦の戦いで勝利します。

鎌倉幕府の成立

挙兵後の戦乱の最中に鎌倉を根拠地として関東の公領荘園を支配。頼朝の権力アップを恐れた後白河法皇頼朝の弟・源義経に討伐を命じるが、失敗。後白河法皇の死後1192年源頼朝は征夷大将軍に任命され、はじめて武家による政治体制である【鎌倉幕府】が誕生します。

幕府設立当初は、東日本中心の幕府と西日本中心の朝廷との二元支配体制だったが、承久の乱以降は幕府優位となりました。

 

鎌倉幕府の成立が1192年(イイクニ)から1185年(イイハコ)になったのはどうしてなのか? 1192年 源頼朝が征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を開いた。 【イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府】 私が日本史を習った...

 

鎌倉幕府の支配体制は、将軍御家人による主従関係で御恩奉公の関係で結ばれる封建制度によるものです。頼朝の死後は頼朝の妻方北条氏が台頭し執権政治将軍の補佐で政務を統括するものを執権と呼ぶ)を行うように。

 

御家人とは??鎌倉時代に始まった新制度を見てみよう 今回は室町時代が始まる以前、後醍醐天皇がどうして倒幕に成功したのか?鎌倉幕府の視点から記事を書こうとしたものの、そもそもブログで鎌倉...
源頼朝の血筋は途絶えていた、鎌倉幕府歴代将軍と執権北条氏 一般的に幕府と聞くと、将軍様を思い出します。室町幕府では足利氏が江戸幕府では徳川氏が代々将軍として幕府に君臨していました。 よ...

 

次は地方事情について…

奈良時代の辺りから進化してきた荘園ですが、鎌倉時代の頃から正式に地頭や荘官が管理するようになり二重支配が出来上がります。また、諸国でも朝廷から派遣された国司と幕府から派遣された守護による二重支配が行われるようになっていました。

東アジアの情勢

モンゴルから勢力を伸ばしていったという国がユーラシア大陸にまたがる大帝国を築き、ヨーロッパなど西への遠征も行う一方、アジア方面への遠征も視野に入ってきました。

日本も例外ではなく、2回文永の役弘安の役)ほど日本へ攻撃を加えている。これは元寇とも蒙古襲来とも呼ばれる出来事である。

 

元寇でモンゴル軍を2回も退けた執権・北条時宗 1274年と1281年、当時大陸を支配してたモンゴル帝国が2度にわたり日本を進攻してきました。モンゴル帝国は、歴史上最大級の規模を持...

 

鎌倉幕府の滅亡

ちょうどこの前後から農業や手工業、流通などが変化し、貨幣経済が普及。そんな中、御家人たちは蒙古襲来の恩給が不十分だったり貨幣経済の発展についていけなかったり、分割相続を繰り返しで所領が細分化されていたりで幕府への不満が募ります。

さらに、朝廷では持明院統大覚寺統の2つの皇統で皇位継承権を巡る対立が発生。幕府の働きかけにより、皇位継承をそれぞれ交代で着く両統迭立という形で一旦収まったが、これに不満を持ったのが大覚寺統の後醍醐天皇

後醍醐天皇御家人らの不満を背景として討幕の呼びかけ ⇒ 足利高氏(後の尊氏)や新田義貞らが挙兵し1333年鎌倉幕府が滅亡します。

 

なぜ後醍醐天皇による倒幕計画は成功したのか?? 室町・南北朝時代にかけての流れはこれまでも記事にしていたのですが、『どうして鎌倉幕府を倒そうという流れが多くの人の間に共通認...

 

鎌倉時代は、源氏の将軍はわずか3代で潰えます。

その後は、摂家将軍や公家将軍など、執権である北条氏のお飾り将軍が就くことになります。流れとしては…

  • 源氏将軍時代
  • 執権政治
  • 元寇から幕府の衰退

上記の区切りで覚えてつなげていくとわかりやすいでしょう。

 

鎌倉幕府の歴代執権・北条氏がどのように権力を掌握していったのか? 鎌倉幕府の執権は将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職と言う事は、他の記事でも書いた通りです。源頼朝時代は、将軍独裁政権だったので執権...

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから始めました。 文章メインのmiumagaとイラストメインの歴ぶろで運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いつか歴史能力検定を受けたい。どうぞよろしくお願いします。