平安時代

延久の善政と称えられた名君・後三条天皇は院政の基礎を作り上げた

歴ブロ
後三条天皇

平安時代の権力の推移を見ると、藤原鎌足や道長のイメージが強いのか、平清盛が出てくるまで藤原氏がずっと権力を持っていたように感じますが、実際のところは藤原家(摂関政治)⇒上皇(院政)⇒平清盛と移り変わっています。

乙巳の変の功労者である藤原鎌足の子・不比等はその娘を文武天皇・聖武天皇に入内させて天皇の外戚としてその地位を確立していました。こうして、歴代の藤原氏は姫が生まれるとめぼしい皇族に嫁がせ、だれが天皇になったとしても摂関家が外戚として政治に口を出せるようにしていました。

こうした政治体制を摂関政治と言いますが、794年から170年以上続きました。しかし、この連鎖を断ち切ったのが後三条天皇で、その後の摂関家・藤原氏は衰退の一途たどることになります。

 

その後、上皇による院政が始まるのですが、その始まりとして有名なのは、1073年に天皇として即位し1086年に譲位した白河上皇です。しかし、その白河上皇の父親で、院政への移行期を繋ぎ様々な改革を成し遂げたのが後三条天皇で、平安時代の名君としても有名です。

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後三条天皇の系譜

後三条天皇は、藤原道長の外孫・後朱雀天皇第二皇子として生まれました。この時点では皇位継承権の無い立ち位置でした。

この後朱雀天皇には二人の皇子がいました。

  • 親仁親王 (第一皇子・後の後冷泉天皇) 母は藤原道長の娘・嬉子
  • 尊仁親王 (第二皇子・後の後三条天皇) 母は三条天皇の娘・禎子内親王

 

後三条天皇の系譜

 

系図で見ると、禎子内親王の母は、藤原道長の長女・妍子で、後三条天皇から見れば祖母に当たります。一方で、後冷泉天皇藤原嬉子を母に持ち、道長の嫡男で当時の関白・藤原頼通の養子として入内しており、道長に近いこともあり次代の天皇家となることが既定路線でした。

藤原道長の四男・能信の誕生

ところが、この流れを変えようする者が摂関家からあらわれました。藤原道長の四男で関白・頼道の異母兄弟である能信です。

藤原能信は、頼道・教通と異母兄弟で、母は安和の変で宮廷から追われた源高明の娘でした。そのため、出世の過程で頼道兄弟と明確な差をつけられていた事から、後冷泉天皇派の頼道兄弟と距離を置き、後三条天皇派へとシフトしていきます。

後三条天皇の道のり

後朱雀天皇は、臨終の際に親仁親王(※後冷泉天皇)の後の天皇・皇太子を尊仁親王(※後三条天皇)に考えていましたが、摂関家との縁が遠い天皇が出現する事を恐れていた頼道らの反対もあり悩んでいました。しかし、藤原能信の強い押しで1045年の12歳の時に東宮・皇太弟となります。

※分かりやすいように後三条天皇と後冷泉天皇と書きます。

藤原能信の進言により皇太弟となった後三条天皇でしたが、後冷泉天皇を推す、頼道一派の嫌がせがつづきました。

通常、東宮・皇太弟なると「壺切御剣」という宝物を引き継ぐのですが、壺切御剣は「藤原氏腹の東宮の宝物」と理由をつけ頼道は長い間引き渡しをしませんでした。

そんな嫌がらせに未来はないと見ていた後三条天皇ですが、藤原能信はあきらめてはおらず、自身の養女である茂子を後三条天皇に嫁がせ、その間には後の白河天皇などが生まれました。

このまま後冷泉天皇に皇子が生まれなければ、摂関家ゆかりの天皇がいなくなることを恐れた頼道らは、後冷泉天皇に次々と娘たちを送ったのですが、皇子が生まれず後冷泉天皇は崩御します。

後冷泉天皇に皇子が生まれず頼道が隠居

後冷泉天皇に皇子が生まれることなく崩御した事で、朝廷内で外戚としての権力を維持することが難しいと悟った藤原頼通は老齢を理由に隠居します。

ここで晴れて1068年に、尊仁親王は第71代・後三条天皇として即位し、藤原摂関家に気兼ねすることなく親政を引くことができ、様々な改革を進めていくことになります。

後三条天皇の即位に尽力した藤原能信は、天皇の即位を見ることなく、即位の三年前に世を去っています。後に、後三条天皇の子で能信の養女の子である、院政を始めた白河天皇は、天皇親政に戻してくれた功労者である藤原能信のことを「大夫殿」と敬っていたそうです。 

後三条天皇の政治改革

後三条天皇は、平安時代初期に天皇がリーダーシップをもって政治を行った桓武天皇を意識して、様々な政治改革を進めました。

有能な人材の登用

これまで政治の中枢を担っていた摂関家にも配慮しつつ、即位の功労者である能信の子・能長や源師房などの摂関家以外の有能な人材を登用し、その中でも大江匡房は白河天皇時代まで、院政に対し様々な助言をした右腕として活躍しました。

大江匡房と言う人物は、貴族子弟が学ぶ教育機関・大学寮の中で、中国の詩文や歴史を専攻する学部・紀伝道の中でも特に成績優秀な者2名のうちの一人で、最難関の官吏登用試験の受験資格を16歳で与えられました。

また、3年に1名の割合でしか合格者を出さない官僚登用試験・方略試にも18歳で合格もしています。現代でいうところの、司法試験や公認会計士試験以上の難易度の試験に2回も合格している事になるだろうか?

以前、記事にした菅原道真も18歳で文章得業生となっているが、匡房の方が2年早いので、道真以上に優秀だったのが分かります。

古価法と公的升による物価安定策

また、経済政策として、物価安定のために以下の2つの政策を行いました。

一つは、估価法(こかほう)の制定で、貨幣やモノ同士(米や絹など)の交換の際の、公的な交換レートを制定したもので、現代風にいうと為替レートみたいなものでしょうか?

また、農産物や商品の多さを計るための枡の大きさを公的に定めました。これにより、地方ごとに異なっていた升の大きさに一つの国内基準が出来上がりました。この後三条天皇が定めた升の大きさを延久の宣旨枡と呼んでいます。

別の話になりますが、織田信長1568年に「十合枡」を領国内統一の枡として採用し、豊臣秀吉も太閤検地の石盛決定や年貢徴収の際にこの枡を用いました。

延久蝦夷合戦の勝利で本州全土の統一

対外政策も積極的で、桓武天皇時代に達成されていなかった蝦夷制圧を1070年に源頼俊と清原貞衡に命じました。結果、津軽地方及びに下北半島までの本州全土が日本の領土となりました。

延久の荘園整理令

律令制度の根幹である公地公民制を機能させるために後三条天皇は、私有地である荘園に対して改革をします。違法な荘園が多くて政務が滞っていると言う地方の告発を受け、1069年延久の荘園整理令を公布します。

成立の由来が明確で行政上有害ではない荘園以外、新規で荘園を作る事や寄進を禁止しました。また、荘園が違法ではないかを審査する行政機関として記録荘園券契所を京都に設置し、地方の国司が荘園領主と癒着・結託をさせないようにしています。

延久の荘園整理令の結果、規制対象とされた摂関家や寺社の荘園の多くが没収され、貴族たちの私的財産強化に歯止めをかけ、募集した荘園を公領にすることで朝廷の財政を改善させることに成功しました。

一部の没収した荘園は、天皇自らの荘園として管理し弱体化した皇室財政も潤いました。この財政は、後の白河上皇による院政の財政基盤となりました。

 

院政の基礎を作るも道半ばで崩御

藤原摂関家の影響力弱体を持続させるために皇位継承の対策も怠りませんでした。

後三条天皇は、即位わずか4年目に、第一皇子貞人親王(白河天皇)に譲位し、自らは上皇として天皇の後見をしつつ政務を取り仕切り、皇太弟にはさらに藤原氏と縁が薄い実仁親王と定めました。

これにて院政が完了したと思われた矢先の翌年に崩御した事で、後三条天皇による院政は幻となりました。しかし、その子である貞人親王(白河天皇)が遺志を継ぎ、院政を本格的に開始した事により、藤原氏による摂関政治の終焉をもたらすことになります。

後のつかない三条天皇藤原道長にいびられ不本意ながら譲位をしましたが、後の付く三条天皇の功績を天国で喜んでいたかもしれません。こうして朝廷の念願だった天皇による親政は約100年近く続くことになります。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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