桓武天皇の政治改革と二大事業【東北平定と遷都】
桓武天皇の主な功績と言えば、二回に及ぶ遷都と東北地方の安定化です。
これらの他にもいくつか政治改革を行っていますので、今回は桓武天皇による政治改革と治世について書いて行きたいと思います。
桓武天皇の大事業成功の理由
まずは桓武天皇がこれだけの事業(二度の遷都と国家の支配範囲の拡大)を何故行えたのか?
この点を考えてみたいと思います。
- 先代がレールを引いてくれていた
初めに先代天皇・光仁天皇の業績。行財政の簡素化と公民の負担軽減などの政治再建政策に既に勤めていたことが挙げられます。 - 桓武天皇は官僚になる予定だった
桓武天皇は天皇になるためではなく官僚として出世を望まれていたようです。
官僚になるために育ったという事は、恐らく当時の問題点を理解しやすい状況(命の危険に見舞われていたら自分のことや自分周辺に目が行きがちになることでしょう)で、且つ周りとの付き合いも官僚になるような人が多かったと思われます。
そのため、適材適所に人物を置くことが出来たのかもしれません。 - 周りが勝手に闘争をしていた
最後に周りの貴族達が皇位継承争いよりも身内での闘争をしていたこと。
藤原種継が暗殺されたのは仏教勢力の息のかかった者の仕業だけでなく北家の仕業ということも考えられます。既に皇族の中では藤原氏の血統を引くものが少なくなっていたこともあって皇位継承者争いよりも身内の権力争いを優先させることが多かったのではないでしょうか?
いつの時代でもそうですが、前の指導者が失策続きだとその時の尻ぬぐいで一杯となり、結果的に【悪政を敷いた】と言われる傾向にあります。
私の推測では、当初は政治基盤の弱かった桓武天皇も既存の仏教勢力の排除に加え、上の3点が重なって天皇はそれまでに『しばらくなかった積極的な政治改革を実行できたのでは?』と考えています。
桓武天皇の政治改革
有名な政策は冒頭にも書いた二つなのですが、桓武天皇の政策は他にもありました。
特に地方の政治改革には力を入れています。また、それまでの令で対処しきれなくなった人員整理や税の改革など桓武天皇による制度改革は多岐に渡ります。
班田収授法
例えば、班田収授法では、大宝律令の…律令国家の根幹をなす制度で、6年に一度口分田を与えるというものです。
その後、人口の増加などが原因で上手く回らなくなってきていたために、新たに開墾して土地を広げさせる法案として723年に三世一身法が、743年に墾田永年私財法が出された訳です。後からできた令はあくまで「新しく開墾した土地」に関する規定。班田収授法は701年から引き続き行われています。
ですが、庶民を見ると兵役・労役・租税の負担が 男>女 であるため男子の登録を少なくする偽籍が増えている状況、管理する側も煩雑な手続きで実施が困難になっている状況下にあり、桓武天皇朝では既に制度と実態が合わなくなる事態になっていました。
そこで班田収授法で6年に一度とした口分田の整理を12年に一度とすることで手続きの回数を減らすことにしました。また、公出挙の利息を利率5割から3割に、雑徭の期間を60日から30日にすることにし、庶民にも管理側にも負担を減らすようにしましたが残念ながら効果はありませんでした。結局9世紀に入ると、30年・50年と班田が行われていない地域が増えることになります。
勘解由使(かげゆし)
それと忘れてはいけないのが人員整理。令に定められていなかった新しい官職の事を令外官(りょうげのかん)と呼びますが、この令外官の一つ・勘解由使(かげゆし)を設けました。また、この際に定員外で増やしていた国司や郡司を廃止しています。
勘解由使とは、国司在任中の税の徴収や税として納められた品々などの管理に問題がなかったことを証明する文書(=解由状)を新任国司が前任の国司に渡す時に不正がないかを監督する部署の者を言います。前任者はその解由状を式部省に提出しなければ次の職に就く事が出来なかったのです。
では何故その解由状を監督する必要があったか?というと、当然不正を行うものが多かったからです。
中央から派遣された国司は、『中央の代表者として』国司が治める国に住む者達から税を取る必要がありました。ところが、国司は集めた税をちょろまかして少ない金額を計上した書類(正確には違いますが)と現物を中央に渡すことにしていたのです。新任国司も前任者も口裏を合わせて「問題ないですよ」という解由状を作ることが横行していました。
国司の私服の肥やし方は他にもあります。743年の墾田永年私財法が施行されて以降開墾した土地が開墾者のものになるということで、国司が自らの土地として開墾させるために雑徭を農民達に課す場合もあったようです。とにかく不正が横行したことが国司のリストラと勘解由使設置に繋がりました。
少数精鋭の志願兵⇒健児(こんでい)
さて、桓武天皇と言えばもう一つ有名な政策があります。健児の導入です。健児とは、少数精鋭の志願兵のこと。とにかく人数を割く必要のあった東北や九州を除く場所では、軍団と兵士を廃止して健児を採用しています。兵の質の低下を懸念して導入した制度です。
結局これらの政策は必要な改革ではあったのですが、十分に成果を上げるには至りませんでした。これらの改革は引き続き息子達、平城(へいぜい)天皇や嵯峨天皇も引き継がれていきます。
桓武天皇の二大事業・東北平定と平安京遷都
それでは、桓武天皇の二大事業の東北平定と平安京遷都について書いて行きましょう。
まずは、当時の東北の状況について書いて見ましょう。
東北地方は他の地域が弥生時代に入ってからも続縄文時代と呼ばれる時代のままで、基本的にはヤマト政権や日本の足取りとは違う文化を継承してきました。
大化の改新を行う際、東北(=蝦夷の地)には道奥国という国を置きましたが、名ばかりのもので東北の大部分は服属しない状況のままでした。
このくらいの時期から城柵と呼ばれる防衛施設を作っていきます。
東北平定の本格化
いよいよ本格的に東北を征伐しようとなったのが、斉明天皇政権の675年から。この頃は中国大陸に隋や唐という力を持った統一国家が成立していて、朝鮮半島との関係も微妙なものになっている時期です。
国内の安定を図るため阿倍比羅夫が東北に赴き、蝦夷や蝦夷と敵対する勢力と戦ったりして飴と鞭で?一応帰属させることができました。
ところが、その後の開拓に問題が出てきます。
東北は他の地域よりも冷害の影響が出やすい場所です。だからこそ稲作伝来後も狩猟採集社会が持続していったわけです。それを開拓していくとどうなるか? 飢餓が発生しやすい状況になるかと思います。
ただし、奈良時代は、江戸時代の時ほど飢饉は頻繁に発生していません。奈良時代は温暖化に足を突っ込んだ時期だったためです。
東北の飢饉の歴史に関する年表
表1 年代別、凶饉の程度別回数
西 暦 不作か大不作 凶作か大凶作 飢 饉 大飢饉 不 明 計 713-800 0 3 (2) 5 – 0 – 0 8 (2) 801-900 2 3 – 13 (1) 0 – 0 18 (1) 901-1000 0 0 – 1 – 0 – 0 1 – 1001-1100 0 1 – 0 – 0 – 0 1 – 1101-1200 1 1 – 0 – 0 – 1 3 (1) 1201-1300 0 1 – 2 – 1 – 0 4 – 1301-1400 0 1 – 3 (1) 3 – 2 9 (1)* 1501-1600 2 5 (2) 12 (1) 1 – 0 20 (3) 1601-1700 14 (1) 24 (6) 19 (5) 5 (3) 0 62 (15) 1701-1800 22 (6) 37 (23) 25 (14) 3 (3) 0 87 (46) 1801-1900 33 (4) 32 (15) 8 (4) 2 (2) 0 75 (25) 計 77 (11) 109 (48) 100 (26) 20 (8) 4 310 (94) 注)*:冷害程度不明、()内は明らかに冷害による被害
出典:田中稔(1958)「冷害の歴史」『農業改良』第8号、p1-7、農林省振興局編集※図説東北の稲作と冷害より転載
関係するところは713-800年の部分ですが、凶作か大凶作、飢饉に何度かなっているのが分かります。平安時代以降飢饉などが少なくなっているのは中世の温暖期に本格的に重なっているためだと考えられます。
奈良時代に僧侶が増えた理由と鑑真の来日理由を調べてみるで735年からの天然痘は気温が高くなってきたことが流行の原因の一つと書きました。このあたりから温暖化が始まりますが、まだまだ安定していません。
帰順した蝦夷の反乱
さらにもう一つ反乱の原因が、帰順した蝦夷を関東以西の各地に俘囚として移住、開拓に当たらせました。主にこの俘囚に対する扱いが酷いこと反乱の発端になったと考えられています。
俘囚や飢饉などにより一度は帰順したはずの蝦夷の豪族・伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が780年に乱をおこし、一時期は東北の軍事拠点でもある多賀城をおとすという大規模な反乱に発展します。
これがかれこれ30数年続いていたことから、桓武天皇は紀古佐美(きのこさみ)を征東大使として大軍を派遣しますが大敗。その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって胆沢城を築き、蝦夷の中心的人物・阿弖流為(あるてい)を帰順させます。
伊治呰麻呂の乱自体は1年で終わっていますが、その前から東北は荒れていて三八年戦争と呼ばれる状態が770年頃から続いていました。
結局、日本海側では米代川流域まで、北は北上川上流の志波城(しわじょう)を築く
にまで支配権が及ぶこととなりました。そこまでは良かったのですが、平安京との二大事業を重ねて行うには財政的に難しくなってしまい、二大事業を打ち切りにします。
結果的に以前より広い範囲を支配できたことは桓武天皇の大きな功績です。
桓武天皇による軍団の廃止
桓武天皇が軍団の廃止を行ったのが792年。
東北や九州では軍団を廃止していないと言えども、東北では反乱が774年から続いている状態(三八年戦争)なのに疑問に思います。結局、東北が最終的に落ち着いてのは811年です。
そもそも桓武天皇が軍縮を行うまでは701年に作られた大宝律令の元で軍事力を整備していました。 この大宝律令自体が、唐・新羅連合との戦争・白村江(はくすきのえ)の戦いでの大敗に危機を抱いて作られたものです。
つまり兵を集めるのも対国内を想定してのものではなく、『対外戦争を想定して作られた軍隊』ということになります。こうなると軍の規模は非常に大きなものでなくてはなりません。そんなわけで、当初は人口の割に大きな軍を朝廷を持つ必要があったという事が言えるでしょう。
なお、その総兵力は人口約600万~700万に対して約20万人だったと言われています。現在の日本は人口1億2000万人以上いますので、当時の比率を今の基準に直すと400万人近くの自衛隊員がいる計算になります(実際には約25万人です)。いかに大規模だったのかが分かるかと思います。
軍縮の理由
では、対国外向けの兵士を何故減らすことが出来たのでしょう??
これは日本国内だけではなく、唐の状況を見ていく必要があります。
唐では755年から763年にかけて大規模な反乱・安史の乱※(楊貴妃が発端になったとも言われている乱です)が起こりました。唐の副都とも言える洛陽が陥落したり首都・長安も反乱軍に一時期制圧される事態に陥ります。その際、ウイグルへの援軍要請をしたりチベットが混乱に乗じて長安を制圧したりと大混乱となります。唐の威信が傷つき、周辺諸国が力をつけて行く事態となりました。
※日本では藤原仲麻呂が政権の中心におり反乱軍が日本にまで来る危険性も考慮して大宰府を厳戒態勢にまで高めていたようです。
とにかく、安史の乱を機に国境は小さくなり周辺諸国との力関係が変わってくる中で、日本にとっても厳重な警戒を緩めても多少大丈夫かな?という状態になったことが伺えます。
それでも、余裕があるのなら東北制圧が終わるまでは軍縮しなくてもいいのではないのでしょうか?結局軍縮する必要があったのは朝廷に余裕がなくなってきたことも理由としてあげられるのです。
調や庸の質の低下、税の滞納、更に兵士の質の低下が8世紀末頃には目立つようになってきています。ちょうど時期的に一致しますね。
さらに、兵士は一般的な公民が負担する税の中で庸と雑徭を免除されていました。ただでさえ滞納や調・庸の質が低下している中で大人数の公民が税を免除されていることは国家財政の点で見ても大きな負担となっていたようです。これらの国内外の状況変化が桓武天皇の軍団廃止に繋がったということが出来ます。
ここからよいよ平安京遷都へと行くのですが、長くなったので別の記事しました。