日本史

明治時代の流れをわかりやすく解説/明治維新から日清・日露戦争まで

歴ブロ

明治時代とは、1868年から1912年までの約45年間を指します。

江戸幕府が倒れたあとに成立した明治政府は、それまでの幕府と藩によって全国を治める仕組み(幕藩体制)を解体し、政府が全国を統治する中央集権国家の形成を進めました。同時に欧米諸国の制度や技術を取り入れ、軍隊・税制・教育・産業など、さまざまな分野で新しい仕組みを整えていきます。

こうした変化は政治だけにとどまりません。自由民権運動によって国会開設を求める動きが広がり、1889年には大日本帝国憲法が発布されました。翌年には帝国議会が開かれ、日本は憲法と議会を持つ国家となります。

さらに産業化が進む一方、外交では幕末以来の条約改正が進展。日清・日露戦争を経て、日本と東アジア諸国との関係も大きく変化しました。

では、江戸時代とは大きく異なる近代国家は、明治時代にどのように形づくられていったのでしょうか。

Q
明治45年間の流れ
1868~73年
明治維新と中央集権国家の形成
幕藩体制の解体が進み、版籍奉還・廃藩置県を経て、徴兵令や地租改正など全国共通の制度が整えられていきました。
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1873年
明治六年の政変
新政府が国内改革を進めるなか、朝鮮との外交問題への対応をめぐって政府内で意見が対立。1873年、西郷隆盛や板垣退助らが政府を去りました。
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1877年
西南戦争
明治政府の改革に不満を持つ士族の反乱が相次ぐなか、西郷隆盛を中心とする士族が挙兵。政府軍との大規模な戦争へ発展しました。
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1874~81年
自由民権運動の広がり
板垣退助らによる民選議院設立建白書の提出をきっかけに、国会開設を求める自由民権運動が各地へ広がりました。
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1885年
内閣制度の創設
憲法制定や国会開設に向けた国家体制の整備が進み、太政官制に代わって内閣制度が創設されました。初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任します。
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1880年代後半~
企業勃興と産業革命
松方財政のもとで官営事業の民間への払い下げが進み、1880年代後半には企業設立が活発化。やがて紡績業などを中心に産業革命が本格化していきました。
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1889年
大日本帝国憲法の発布
憲法制定に向けた準備を進めてきた明治政府は、大日本帝国憲法を発布。天皇の権限や臣民の権利、帝国議会の仕組みなどが定められました。
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1890年
帝国議会の開設
大日本帝国憲法の施行にともない、貴族院と衆議院からなる帝国議会が開設されました。衆議院では選挙で選ばれた議員が政治に参加するようになります。
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1894年
条約改正
幕末以来の外交課題だった不平等条約の改正が進展。陸奥宗光外相のもとで日英通商航海条約が結ばれ、領事裁判権の撤廃が実現へ向かいました。
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1894~95年
日清戦争
朝鮮をめぐる日本と清の対立から日清戦争が勃発。日本の勝利後に下関条約が結ばれ、台湾の領有など東アジアとの関係が大きく変化しました。
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1902年
日英同盟
東アジアへの進出を強めるロシアを警戒する日本とイギリスの利害が一致し、日英同盟を締結。日本はイギリスとの協力関係を築きました。
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1904~05年
日露戦争
朝鮮・満州をめぐる対立から日本とロシアが開戦。日本は戦争を優勢に進めましたが、戦費や兵力の消耗も大きく、アメリカの仲介によってポーツマス条約が結ばれました。
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1910年
韓国併合
日露戦争後、日本は韓国への支配を段階的に強め、1910年に韓国を併合しました。以後、朝鮮総督府による植民地統治が始まります。
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明治維新と中央集権国家の形成

江戸時代の日本では、江戸幕府が全国の大名を統制する一方、各地の藩では大名がそれぞれの領地を治めていました。

しかし幕末になると、欧米諸国との外交問題や国内の政治対立が深まり、幕府の支配はしだいに揺らいでいきます。慶応3(1867)年には徳川慶喜が大政奉還を行い、翌年に始まった戊辰戦争を経て、明治新政府による政治が本格的に始まりました。明治元(1868)年、新政府は五箇条の御誓文を発し、公議世論の尊重や開国和親など、新しい政治の基本方針を示しました。

新政府が進めた大きな改革の一つが、幕藩体制の解体です。明治2(1869)年の版籍奉還によって大名から土地と人民を朝廷へ返上させ、明治4(1871)年には廃藩置県を断行。藩に代わって府県を置き、中央政府から派遣された府知事・県令が地方行政を担う体制へ移行しました。

さらに政府は、徴兵令によって全国から兵士を集める軍隊の整備を進め、地租改正では土地所有者に地価を基準とした税を金納させる制度を導入します。

こうして明治政府は、地域ごとに大名が支配していた江戸時代の仕組みを改め、中央政府が全国を統治するための制度を整えていきました。

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文明開化と近代化

明治政府は中央集権化を進める一方、欧米諸国の制度や技術を取り入れ、近代国家をつくるための改革を進めていきました。

もっとも、西洋の学問や技術を取り入れる動きは、明治時代になって突然始まったものではありません。江戸時代には蘭学が発達し、幕末には幕府や各藩が西洋式の軍事技術を導入したほか、海外へ留学生を派遣する動きもみられました。明治政府は、こうした動きを全国的な政策としてさらに推し進めていきます。

明治4(1871)年には岩倉使節団を欧米へ派遣し、各国の政治制度や産業、教育などを調査しました。国内では殖産興業を掲げ、官営工場の設置や鉄道・電信などの整備を進めます。明治5(1872)年には新橋―横浜間で日本初の鉄道が開業し、同じ年には学制が公布され、全国的な学校制度の整備も始まりました。

こうした近代化は、人々の生活や社会にも変化をもたらします。都市部を中心に西洋風の服装や建築、食文化などが広がり、暦や生活習慣にも新しいものが取り入れられました。こうした明治初期の西洋文化の受容や社会の変化は、文明開化と呼ばれています。

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政府への反発と自由民権運動

明治政府が急速に改革を進める一方、その政策や政治の進め方に対する不満も広がっていきました。政府内部で対立が起こり、政府を去った人々のなかからは、武力によって政府に抵抗する者や、国会の開設などを求める者も現れます。

明治六年の政変と士族反乱

明治6(1873)年、朝鮮との外交問題への対応をめぐって政府内で意見が対立しました。この対立は一般に征韓論をめぐる論争として知られています。

西郷隆盛を朝鮮へ派遣する案がいったん決まったものの、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通らの反対によって実現せず、西郷や板垣退助らが政府を去ります。これが明治六年の政変です。

その後、政府への不満は各地で表面化しました。徴兵令や秩禄処分などの改革によって、江戸時代以来の特権や生活基盤を失った士族の間では不満が高まり、明治7(1874)年の佐賀の乱をはじめ、各地で士族反乱が起こります。

政府を去った西郷は鹿児島へ戻っていましたが、明治10(1877)年には鹿児島の士族を中心とする西南戦争が勃発しました。政府は徴兵制によって編成された軍隊などを投入してこれを鎮圧。西南戦争を最後に、士族による大規模な武力反乱は収束していきました。

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自由民権運動と国会開設

一方、政府を去った人々のなかには、武力とは異なる方法で政治改革を求める者もいました。

板垣退助らは明治7(1874)年に民選議院設立建白書を提出し、国民から選ばれた議員による議会の開設を求めます。こうした動きから、政治への参加や自由・権利を求める自由民権運動が各地へ広がっていきました。

運動には士族だけでなく、地方の豪農や商工業者なども参加するようになり、国会開設を求める声も強まっていきます。こうしたなか、政府は明治14(1881)年に国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開設する方針を示しました。

その後、自由民権運動を担った人々は政党の結成へと動き、板垣退助らの自由党、大隈重信らの立憲改進党が誕生します。一方、政府側でも憲法制定や国会開設に向けた準備が進められ、日本の政治は憲法と議会を持つ体制へ向かっていきました。

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憲法と議会を持つ国家へ

自由民権運動が広がるなか、政府も国会開設と憲法制定に向けた準備を進めていきました。

それまで明治政府は、廃藩置県などによって中央集権化を進めてきましたが、1880年代になると、憲法によって政治の仕組みを定め、議会を設ける新たな段階へ入っていきます。

大日本帝国憲法の制定

明治14(1881)年に国会開設の勅諭が出されると、政府は明治23(1890)年の国会開設に向けて、憲法制定の準備を本格化させました。

翌1882年には伊藤博文らがヨーロッパへ渡り、各国の憲法や政治制度を調査します。なかでも、君主の権限が比較的強いプロイセンなどの制度が、日本の憲法をつくるうえで大きな参考となりました。帰国後、伊藤や井上毅らを中心に憲法案の作成が進められます。

また、憲法制定に先立つ明治18(1885)年には、それまでの太政官制に代わって内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任しました。

そして明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法が発布されます。この憲法では天皇が統治権を持ち、軍の統帥や議会の召集・解散などの権限が定められました。一方で、帝国議会の設置や法律の範囲内での言論・出版・集会・結社などの自由も定められ、日本は憲法にもとづいて政治を行う立憲国家としての仕組みを整えていきました。

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帝国議会の開設

大日本帝国憲法の発布を受け、明治23(1890)年7月には第1回衆議院議員総選挙が行われました。

ただし、このとき選挙権を持っていたのは、直接国税を15円以上納める25歳以上の男子に限られていました。そのため、有権者は総人口の約1%にとどまっています。

同年11月には、第1回帝国議会が開かれました。帝国議会は、選挙で議員を選ぶ衆議院と、華族や勅任議員などから構成される貴族院の二院制を採用しています。

衆議院では、自由民権運動の流れをくむ民党が大きな勢力を占め、政府と予算などをめぐって対立しました。政府が議会を自由に動かせたわけではなく、法律や予算を成立させるためには議会との関係が重要になります。こうして日本では、政府と議会が対立や協調を繰り返しながら政治を進める時代が始まりました。

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日清・日露戦争と東アジアへの進出

近代国家としての制度を整えていった日本は、外交面でも東アジアとの関係を大きく変えていきました。

とくに重要だったのが、朝鮮をめぐる清との対立と、その後に強まったロシアをはじめとする列強との競争です。こうした国際関係の変化のなかで、日本は日清戦争と日露戦争を経験し、台湾を領有するとともに、韓国への支配も強めていきました。

ここでは、二つの戦争そのものの経過よりも、なぜ戦争が起こり、その結果として日本と東アジアの関係がどのように変化したのかを見ていきます。

日清戦争と東アジア情勢の変化

19世紀後半、日本と清は朝鮮をめぐって対立を深めていきました。明治9(1876)年の日朝修好条規によって朝鮮が開国すると、日本と清はそれぞれ朝鮮への影響力を強めようとし、壬午軍乱や甲申政変を経て緊張が高まっていきます。

明治27(1894)年に朝鮮で甲午農民戦争が起こると、日本と清がともに出兵し、対立は日清戦争へ発展しました。翌1895年の下関条約では、清が朝鮮の独立自主を認め、日本に台湾・澎湖諸島・遼東半島を割譲し、賠償金を支払うことになります。

その後、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉で日本は遼東半島を返還しました。一方、日清戦争をきっかけに欧米列強による中国への進出も強まり、東アジアでは新たな国際対立が形成されていきます。

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日露戦争と韓国併合

日清戦争後、ロシアは満州への進出を強め、日本との対立が深まっていきました。日本は明治35(1902)年にイギリスと日英同盟を結び、その後もロシアとの交渉を続けましたがまとまらず、明治37(1904)年に日露戦争が始まります。

翌1905年にはポーツマス条約が結ばれ、ロシアは韓国における日本の優越的な立場を認めました。日本は旅順・大連の租借権や南満州鉄道の権益、南樺太なども獲得します。

その後、日本は韓国への支配をさらに強め、外交権を奪って統監府を設置。明治43(1910)年には韓国併合を行い、韓国を植民地としました。

こうして日本は、台湾や韓国を支配し、中国東北部にも権益を持つようになります。明治後期の日本は、東アジアへ勢力を広げる帝国としての性格を強めていきました。

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明治時代の終わりと大正時代へ

日露戦争に勝利した日本でしたが、戦争には多額の費用がかかり、国民の負担も大きなものとなりました。さらにポーツマス条約ではロシアから賠償金を得られなかったため、講和条件に不満を持つ人々が東京で日比谷焼打ち事件を起こします。

その後の政界では、桂太郎と西園寺公望が交互に政権を担当する桂園時代が続きました。一方で、政党の影響力も少しずつ強まり、政治のあり方は明治初期とは大きく変化していきます。

明治45(1912)年、明治天皇が崩御し、明治時代は終わりを迎えました。幕藩体制の解体から始まった約45年間で、日本には中央集権的な政府、憲法と議会、近代的な軍隊や産業などが整えられ、東アジアに勢力を広げる国家へと変化していきました。

その一方で、国内では政党政治や社会運動が広がり、新たな政治参加を求める動きも強まっていきます。こうした流れは、次の大正時代へと引き継がれていきました。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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