承久の乱で北条義時と戦いった後鳥羽上皇の生涯
平安時代中期、天皇家と縁戚関係を結び、摂政・関白となった藤原氏が実権を握り摂関政治の時代がありました。
しかし、1086年に後三条天皇が即位すると、天皇自ら政治を行う親政を行うようになりました。一方で天皇の外戚関係構築に失敗した藤原氏は、次第に衰えかつての勢いを失っていきます。
この中で、皇位を継承していった天皇家は、白河天皇の代で上皇が政治の主導権を握る院政を敷き、これ以降、院政の時代が本格化します。
院政とは上皇または法皇によって政治が行なわれることで、多くは幼くして即位した天皇の父や祖父が国政の実権を担うことです。
院政時代には、朝廷の身辺警固の為に武士たちを重用した事で、後にその政権を脅かすほどの力を与える結果となります。武家の権力が大きくなった、平安末期や鎌倉幕期にはその武家が政権を握りますが、細々ではありますが院政そのものは保たれていました。
朝廷の権力がすっかり武士にとって代わろうとしてた1221年に当時の後鳥羽上皇は、三代目鎌倉殿・源実朝が暗殺されたのを機に幕府転覆の兵を挙げました。
これが、鎌倉幕府の転換期『承久の乱』です。
前置きが少し長くなりましたが、今回は後鳥羽上皇の生涯について書いて見たいと思います。
後鳥羽上皇の誕生と安徳天皇
1180年に高倉天皇に安徳が生まれるとわずか二歳で天皇に即位し、自身は平家の庇護のもと上皇として院政を敷きました。こうした状況下で、高倉上皇の第4皇子として【尊成親王】すなわち後鳥羽上皇が生まれました。
母は、高倉上皇の後宮で安徳天皇とは異母兄弟となり、共に後白河法皇の孫にあたります。
後鳥羽上皇が生まれた1180年は、以仁王が平家打倒の令旨を出したり、それに呼応して源頼朝が伊豆の地で挙兵をし治承・寿永の乱が始まりました。この一連の合戦を源平合戦とも呼ばれ、その後に鎌倉幕府設立へと続きます。
後白河院政の復活と平氏の都落ち
反平家の抵抗が予想以上に激しいことを知った平清盛は、福原から京都へ戻りました。
1181年に高倉天皇が死去すると、後白河法皇を幽閉から解き、形ばかりの院政を復活させます。しかし、同じ年に平清盛が急逝します。
嫡男・宗盛には父ほどの支配力がなく、政治を主導権を後白河法皇に返上するしかありませんでした。その後、源氏に何とか対抗していた平宗盛ですが、京都へ攻めてきた木曽義仲に追われ、1183年に安徳天皇と三種の神器をもち京の都を離れ都落ちをします。
平氏の都落ち後、京都に残っていた後白河法皇は、このまま新たな天皇に安徳を継続させるか、新たに天皇を立てるかで協議をしていました。検討した結果、三種の神器なしで当時4歳の尊成親王(後鳥羽上皇)を天皇に即位させようという事になりました。
平家滅亡と三種の神器の紛失
1185年の壇ノ浦の戦いで、圧倒的な源氏の攻勢を前に平家はついに滅亡の時を迎えます。
この時に、わずか8歳の安徳天皇が連れの者と入水した事で、三種の神器が海に沈みました。伝統が重んじられる宮廷において、皇位の象徴である三種の神器は、天皇家の威厳や権威、存在の高さと信頼を象徴する財物です。
その後の必死の捜索で、八咫鏡と八尺瓊勾玉は見つかったようですが、草なぎの剣は、海に沈んだままでした。その後、伊勢神宮より奉納された剣を草なぎの剣としました。
文武両道に秀で、文化芸術を愛した多才ぶりを発揮した後鳥羽上皇ですが、その生涯とは表裏なすものでした。
後白河法皇の死と後鳥羽院制の開始
天皇に即位した4歳以降、後白河法皇による院政時代は続きました。
1192年に、後白河法皇が無くなると、朝廷の実権は九条兼実が握りました。その同じ年に、源頼朝を征夷大将軍に任命したことで京都の朝廷とは別に鎌倉の武士政権も認める結果となりました。
頼朝の征夷大将軍任命の裏には九条兼実の働きが大きかったとされています。1198年には19歳の若さで土御門天皇に譲位し上皇となります。こうして後鳥羽上皇が誕生します。
その後は、順徳天皇・仲恭天皇と3代・23年の院政を敷くことになります。
後鳥羽上皇の人物像
後鳥羽上皇は、文武両道の多芸多才ぶりで知られています。
天皇家では大体時代の節目には、有能な人材が誕生し時の政権を脅かしたりします。鎌倉末期の後醍醐天皇もしかり、後白河法皇のも武士たちを翻弄していまし、後三条天皇も藤原氏を弱体化に追いやり、天皇による親政をゲットしています。
後白河上皇は、ふつう貴族が行わない武芸を好み、弓馬の術に秀でており、水練や相撲もこなし、琵琶・蹴鞠もたしなみました。あらゆることを先頭に立って取り組み、盗賊を捕えるために自ら出向いたとも言われています。
文化面でも和歌に優れ【新古今和歌集】の編纂を命じ、日本の文学史に大きな功績を残しました。さらに日本刀を打ち、後世に語り継がれる銘刀まで残しています。
銘刀とは銘の彫ってある刀剣の事を言います。
ここで言えることは、これまでの天皇や上皇とは違う、自由度の高い型破りな人物だと言えます。少し後白河法皇に似ていると思うのは僕だけでしょうか??
こうした生き方は、神器を持たずに即位した引け目の裏返しかもしれません。
新古今和歌集と後鳥羽上皇
日本で和歌の三大集と言うのが以下になっています。
- 万葉集…大伴家持や橘諸兄が編纂した
- 古今和歌集…醍醐天皇は勅命を出した。
- 新古今和歌集…後鳥羽上皇が編纂の命を出した。
新古今和歌集は、藤原定家に編纂をゆだねた鎌倉時代を代表する勅撰和歌集で、古今和歌集を上回る約2000首が治められてます。
特徴として、歌風・歌調※は【新古今調】と呼ばれ、後の和歌の作風にも大きな影響を与えました。
歌風…和歌の特徴や傾向
歌調…歌の調子
「 和歌は 世を治め 民をやはぐる道である 」と説いた後鳥羽上皇の和歌には、武力ではなく文化力で治世を行いたい願いが込められています。
奥山の おどろが下も 踏み分け 道ある世ぞと 人に知らせん
意味*たとえ奥山の藪の中に分け入ろうとも、必ず希望の道があることを人々に知らせたい
和歌を愛した後鳥羽上皇は、武家社会にも大きな影響を与えました。
高貴な家柄に生まれることに憧れる東国の武士達の中には、後鳥羽上皇が発信する雅な王朝文化に惹かれる者も出てきました。三代目将軍・源実朝もその一人で、新古今和歌集をいち早く手に入れ和歌を学び、藤原定子を師と仰ぎました。
東国武士とは対照的で都の文化や気風にあこがれを持ち、後鳥羽上皇とも深く親交を実朝は結んでいたとされています。
に憧憬を抱き、後鳥羽上皇とも深く親交を結んだのです。
鎌倉初期の二元体制
鎌倉幕府設立以降は、朝廷の京と武士政権の鎌倉幕府の二元体制が続いていました。
しかし、1199年に源頼朝が死去すると、両者のバランスが崩れ始めます。
源頼朝の死後、二代目・頼家が北条氏と対立後に将軍職を追われ、幽閉先で何者かに暗殺されます。さらに、後鳥羽上皇と親しかった3代目将軍・実朝も1219年に鶴岡八幡宮の境内で頼家の子・公暁によって暗殺されます。
実朝死後は、頼朝の妻・政子と北条氏が幕府の実権を握ります。
政子は、次の鎌倉殿に後鳥羽上皇の皇子を将軍として迎えようとしますが、幕府に自分の子が政治の道具にされる事を恐れ拒否します。
それどころか、上皇の愛妾に与えた荘園の地頭職を罷免するようにと幕府に要求して、鎌倉に反抗的な態度を示します。この時の執権・北条義時は、幕府への挑発と捉え京都の兵を送り込みますが、朝廷は全く動じませんでした。
実朝暗殺に始まる一連の混乱は、全て鎌倉幕府=執権北条氏にあると考えた後鳥羽上皇は、北条義時への敵意を募らせていきました。結構、実朝と上皇はいいお友達だったかもしれんせんね。
そこで上皇は、院の御所に仕える【北面の武士】を重視し、京都の警固にあたらせますが、新たに【西面の武士】を制度化します。その任に、京都に滞在する御家人を就かせることにしました。
そして、鎌倉幕府から送られてくる京都守護に対しても命令を下すようになり、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立関係は深まっていきました。
朝廷主導の政治を願う後鳥羽上皇にとって、次々と将軍が暗殺されるような統制なき鎌倉幕府の混乱は、朝廷が再び主導権を取り戻すための好機と感じられました。
日本の歴史の分岐点【承久の乱】
後鳥羽上皇は、1221年に北条義時討伐の宣旨を出し、流鏑馬揃を名目に北面・西面の武士や諸国の武士、有力御家人を集めて1000余りで挙兵します。こうして承久の乱が勃発しました。
詳しい戦況は別記事にしますが、後鳥羽上皇は鎌倉の有力御家人にも格別の院宣を送っており、特に三浦義村が弟・胤義が検非違使に任じられていることから、上皇側に付いてくれると上皇側は期待していたようです。
また、院宣の効力は絶対的だと疑いもしていなかった朝廷は、挙兵さえすれば諸国の御家人も絶対に味方してくれると踏んでいたようです。
しかし、そんな朝廷の思惑もむなしく、最大の味方だと思われた三浦義村に裏切られ、密書を通じ北条義時に計画が事前に知られることになります。しかし、実際に鎌倉に後鳥羽上皇が、北条義時討伐の兵を挙げたと知ると御家人たちは、朝廷の敵になることを恐れ動揺が走ります。
そんな時に御家人たちに奮起させたのは北条政子でした。政子は亡き源頼朝の恩を訴え、御家人たちをうまく扇動したのでした。
こうして鎌倉幕府軍には10000を超える軍勢が集まり、数で圧倒された上皇軍は大敗します。こうして、後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り消しました。
この承久の乱は、日本史上初の朝廷VS武士の武力対決であり、武家が朝廷を打ち負かすと言う超えてはならない一線を越えた戦いだったのです。
これ以降、朝廷の力は衰え、鎌倉幕府は守護や地頭、六波羅探題を配置して各地を支配する体制を強化し、勢力を西国以降も確保しました。そして、朝廷の皇位継承にも幕府が関与するまでになりました。
こうして、幕府の将軍に従う武士を御家人となり、領地を与える代わりに戦役の義務を負うようになり、武士時代の封建制度が始まりました。
隠岐へ流される後鳥羽上皇。都へ帰らずして崩御…
承久の乱後に後鳥羽上皇はすぐに出家して法皇となっています。
そして、幕府転覆の首謀者である後鳥羽法皇は隠岐の島へ、順徳天皇は佐渡島へそれぞれ流刑になりました。倒幕には参加しなかった土御門上皇は、一人で都に残ることを拒み自ら土佐国へ、後鳥羽上皇の皇子もそれぞれ但馬と備前国へと流されていきました。
後鳥羽上皇の荘園は、次の亀山天皇に与えられ幕府が支配権を担うことなります。
現在、隠岐の中ノ島には後鳥羽上皇在所跡があり、島の人たちはごとばさんと親しみを込めて呼んでいます。
配流された後鳥羽法皇は、隠岐の苅田御所にて和歌で心を慰め、仏道に励む生活を送りました。この地で作った和歌は700首以上も作ったとされ中でも有名な歌が…
我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け
(私こそはこの島の新たな守り人だ。隠岐の海の荒い波風よ。島のために心を込めて吹けよ)
また、隠岐生活で後鳥羽上皇は刀剣に強い関心をよせていたそうです。
あの壇ノ浦の戦いで失われてしまっていたので、草なぎの剣や三種の神器なしで天皇に即位しなければならなかった事で、何か思うところがあったのかもしれんせん。
三種の神器なしで即位した天皇はそれまでほかに居なかったのですから…
この地で刀を作っていたのも、やはり、なにかこみあげてくるものがあったからなのでしょうか。
約19年の流刑生活で一度、九条道家の口添えで北条泰時に京都への帰還が進言されましたが却下されてしまう事がありました。そして、1239年に京都へ戻ることなく隠岐の地で崩御しました。
後鳥羽上皇の祟り
後鳥羽上皇は亡くなる前にこんな言葉を残しています。
万が一。
この世でなしとげられなかった無念な思いにつられ、魔物になってしまうかもしれない。
そして、私の子孫が天下を取ることがあれば、それはすべて私の力によるものだ。
そうなった場合は私が菩提(ぼだい)をとむらうように
日本では古来、立場のえらい人が非業の死をとげると、“怨霊”になる、という信仰がありました。有名なところでは、菅原道真や平将門などが挙げられます。
後鳥羽上皇の祟りなのかはわかりませんが、間もなくして以下の人たちが上皇の後を追うようにして亡くなっています。
- 三浦義村
承久の乱のときに後鳥羽上皇の決起を裏切り、執権・北条義時に上皇挙兵を知らせました。乱終結後は、幕府の宿老として権勢を振るいます。 - 北条時房
承久の乱時に、東海道へ攻め上がり活躍します。その後は、初代六波羅探題南方就任。 - 四条天皇
後鳥羽上皇が亡くなったときの天皇
タイミング的に噂では後鳥羽上皇の祟りだとどこからと知れず上がりました。
四条天皇は、後鳥羽上皇の直系ではありません。
承久の乱以降は、後鳥羽上皇直系は天皇にはなれずにいました。しかし、この四条天皇の崩御と共にその血が絶えて、その後は後嵯峨天皇が継ぎました。後嵯峨天皇は、後鳥羽院の孫で以後今に至るまで、後嵯峨系の血を保ちつづけています。