色々な歴史

日本人の伝統的な和食文化の移り変わり

歴ブロ

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平成25年12月4日、【和食】がユネスコ無形文化遺産に登録される事に決まり、現在世界中で日本食がブームになっています。

無形文化遺産とは、伝統工芸技術などの形のない文化で、土地の歴史や生活風習などと密接に関わっているモノのことです。

和食のほかに日本からは、【歌舞伎】【能楽】などの21件が登録されています。

 

よく【世界遺産】と何が違うの?と聞かれますが、無形文化遺産が形のない文化を対象としているのに対して、世界遺産は建築物や自然などの有形のものを対象としてるのが大きな違いです。

話がそれましたが、そんな我が国の食文化がどのような様式として形成されて日本人の食文化に根付いていったかを書いていきたいと思います。

 

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世界各国の主食

世界各地での主食の代表例として、米・麦・イモなど様々あります。私たち日本人は、を主食にしていますが、このコメがどのようにして日本列島に入ってきたかは、このブログでも書いてきました。

西・中央アジアやヨーロッパなどは今でも小麦が主食ですが、東アジアや東南アジアなどでは、稲作が根付いていきました。比較的温暖で降水量の多い東・東南アジアでは、小麦を作るより水を多く使う稲作の方が適していました。

歴史をたどってみると、麦から米のチェンジはしても、米から麦へ主食を移す民族は見られませんでした。また、米の方が人体に必要なアミノ酸量が小麦に比べて高いのも、日本の主食として米は適していたと言えます。

前置きが長くなりましたが、時代を追って日本の食文化を見てみましょう。

 

縄文時代の食文化

この時代の日本では、農耕自体が発達しておらず、狩猟や漁、食物採集で食が賄われていました。縄文人は、採集した食物を食べて、残りは貯蔵して必要に応じて取り出して食べていました。貯蔵されていたものは、クルミ・クリ・トチ・どんぐりなどの比較的保存のきく堅果類が中心でした。そのことから、縄文人の主食は、これらの堅果類であったと思われます。

狩猟や漁で捕まえた、魚やイノシシなどから必要なたんぱく質を補っていたと推測されます。

 

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弥生時代に稲作が伝来

縄文時代の後半から日本に、稲作が伝来しました。どのように伝来したかは、諸説あるので割愛しますが、中国大陸から来たのは間違いなさそうです。

この稲作が、日本全土に広がりを見せて、農耕文化がスタートします。この事によって、狩猟時代の時と比べて、安定した食料供給が行えるようになり、人口が増えていきます。

遺跡などの調査結果、米だけではなく栗や稗、小豆などの穀物も栽培されていたことがわかってきました。これらの穀物は、炊いて雑炊のように食べていたようです。

 

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貴族達から食文化が生まれた奈良時代

この時代になると、稲作は広まりきっていて、中央集権国家の税として米を徴収していました。米を徴収する貴族階級の主食は米食に対して、庶民たちは米を食すことはほとんどなく、粟や稗などの雑穀を主食としていました。

 

このころから、貴族階級と庶民との食の区別がされてきました。

また、この時代には仏教が伝来し、天皇による殺生・肉食の禁止などの命令が出たこともあり、食卓から肉が消えて、代わりに高級な乳製品【】と言うチーズみたいなものを食したとされています。

このころの料理が平安時代に発展し始める、精進料理の原型になりました。

 

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↑私も作って食べてみましたがおいしかったですよ~

 

現代の食文化の原型が出来上がる平安時代

平安時代になると、現代の日本食の基礎が出来上がりました。

平安時代の貴族の生活は、地方の庶民たちの大きな犠牲の上に築かれたものだったので貴族階級と庶民の生活の質の差は奈良時代より顕著になってきます。

貴族の食卓は、調味や栄養よりも盛り付けなどの美を尊重して、見る料理に発展していきます。この形式的食生活は、日本食の形を後世まで残す原点となりました。

一方で、奈良時代からの用いられてきた牛乳や乳製品を多く多用していましたが、貴族階級の衰退や財政難、さらには武家勢力の台頭による戦乱も相まって、入手が困難になってきました。

 

この時代は、天皇が政治に仏教を取り入れていたことから、食生活も仏教色が強くなり肉食が禁じられ栄養的が偏り、体格の発達を著しく阻害する結果となりました。

とは言うものの、仏教の教えはまだ庶民には浸透しておらず、動物を捉えて食べている者もいたようです。それでも、貴族との生活格差は段違いで低いものでしたので、奈良時代と大きく変わってはいませんでした。

貴族食の中でも特に儀式や接待用の食膳は【盛饌】と呼ばれました。

栄養やおいしさより、食品をいかに美しく盛り合わせるかと美が工夫されて、現在の見たの美しさを大切にする日本料理の原型が貴族の食膳から生まれました。

 

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鎌倉時代・室町時代に肉食が始まる

武士の世になると、肉食が復活します。

平家の衰退を教訓として、質素倹約に務め、栄養価の高い食生活で活動エネルギーを蓄えました。平安時代に比べると、地味な食膳ですが、その栄養価は高く健康的な食生活に変化していきます。

貴族が嫌がっていた肉食ですが、新仏教や禅宗も登場して、次第に貴族や僧侶側が武士に感化されていき、肉食が禁止ではなくなっていきます。

 

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安土桃山時代は外国から食文化が伝来

室町後期から安土桃山時代になると、ポルトガルやスペインからの食物や食品が入ってくるようになります。金平糖やカステラなどがこの時代に入って来たとも言われています。

主な外来した食物

西瓜、南瓜、玉葱、唐辛子、甘藷、ジャガイモ、トマト、ほうれん草、葡萄、南京豆、イチジク、バナナなど

ジャガイモはジャガルタ=ジャガタラを経由したことからジャガタライモと呼ばれていたのが語源とも言われています。甘藷サツマイモで、最初は琉球で栽培されていた物が薩摩に入り、その地域では薩摩芋と呼ばれるようになりました。

外来した料理法

  • 油で揚げる=天ぷら、がんもどき
  • 砂糖を使う南蛮菓子=カステラ、ボーロ、金平糖

 

新たな食事形式

織田信長の頃から茶道や茶器などを政治利用するようになり、豊臣秀吉が天下を統一するころには、千利休を始めとする茶人が現れ、次第に茶の湯が流行ります。

それに伴い、料理の世界でも懐石料理が登場します。懐石の語源は、僧侶が空腹を紛らわせるために懐に暖めた石を入れた事からと言われています。この懐石料理は、茶を楽しむ前に空腹を和らげるために出された食事で、茶をもてなす主の趣味趣向が反映されました。

それまでの複数の御膳に数多くの料理を決まった位置において食べ方も決まっていた本膳料理に対して懐石料理は、質素で形式ばらず洗礼されたものとなっていきます。

 

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江戸時代は現代でも通用する食文化だった

これまでの料理の調味料には、塩・ミソ・酢が一般的でしたが、江戸時代になると、砂糖・昆布・鰹節・しょうゆが使われるようになります。これらの食材や調味料は、専門のメーカーによって生産されて日本各地に流通していきます。

農産物が増産されて取れ高が多くなっても、農民が常にお米を食べていたわけではないようです。地域によって大きな差があり、米半分・雑穀半分だったようです。しかし、江戸のような都市部では庶民でも米を食べていたようです。

ちなみに、みんなが大好きおにぎりが出てきたのはこの時代です。

最初は、屯食と呼ばれた携帯食だったそうです。

 

文明開化と共に西洋料理が入ってきた明治時代

文明開化ともに西洋料理が入ってきて、上流階級と知識人を中心に浸透していきます。

この西洋料理が日本人の好みにアレンジされた和洋折衷である洋食が誕生します。しかし、洋食の普及は上流階級や都市部に限定されて、庶民の日常の食事は和食が大半を占めてました。

 

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西洋の文化が優れているとみなされる風潮の中、滋養目的で明治天皇が肉を食していたことが民衆にも大きな影響を及ぼしました。文明開化の象徴ともいえる牛肉食は、日本古来の調理法を応用して牛鍋】=【すきやきとしてアレンジされて流行しました。

一般家庭においては、座式の生活様式をとっていたため、西洋の食事習慣を取り入れることは難しく、食材も高価なため日常食とはいかなかったようです。

 

明治中期になると、西洋料理の調理技術が日本的にアレンジされて、フライ・油料理・牛豚料理、などの西洋風の新しい作り方を紹介するものも増えて、雑誌の半数を占めるほどになりました。それでも、実際に西洋料理を作る一般家庭は少なかったと言います。

明治後期になると、西洋料理に代わり、和洋折衷の洋食が力をつけ始めます。洋食は、米飯に適したおかずとして、また気楽な西洋料理として箸で食べることができ、栄養的にも優れているという点で、普及し始めます。

それでも、一般家庭では和食が中心でしたが、たまには洋食をと作る家庭も出てきたそうです。

 

大正・昭和は大衆食堂が普及する

洋食と言う新しい食のジャンルが浸透し始めましたが、作って食べると言うよりも外食には洋食と言うのが一般的だったようです。そのため、大衆食堂を中心に全国に洋食が普及していきました。

 

第二次大戦が起こり日本本土がダメージを受けて、国民へ食料が十分に供給されず栄養状態が最悪な事態が起こりましたが、終戦後のアメリカの支援の下、日本の食生活に欧米の影響が浸透していきます。

戦後アメリカが援助物資と言う名目で、日本へ小麦を供給して牛乳とパン食学校給食に導入させて、パン食文化を根付かせる戦略を実施しました。小麦取引による、アメリカの経済効果を潤わせるのも狙いでした。

私たちが小学生の頃、白いご飯よりコッペパンが多かったのは、これが要因だったと思われます。いまの学校給食のパン食は1週間に1回あるくらいで、白米とパン※が逆転しています。※子供の給食の献立を確認しました。でも、牛乳は鉄板で白米と合うかどうかは疑問が残ります。

このパン食文化は、アメリカの思惑通りになり日本独自の菓子パン文化ができるくらい、日本のパン食文化は根付き、今では様々なパン屋さんが軒を連ねています。

 

今では、当たり前のように飲んでいる牛乳も、戦前までは一般的ではなく、戦後にGHQが牛乳飲料文化を日本に普及させたのが始まりだとされています。

この食の欧米化により、コメの消費量が1960年台に比べると、2000年台では半分に落ち込んでいるそうです。この記事の冒頭でも書いたように、米~小麦の主食チェンジを行う民族はいないと書きましたが、戦後のアメリカによる小麦戦略により、米~小麦に主食をチェンジした民族として歴史に刻むことになるかもしれません。

 

日本の戦後復興とGHQの民主化政策 太平洋戦争敗戦直後の日本は深刻なダメージを受けていました。 物不足で通貨が乱発されたために驚異的なインフレが起き、食料不足...

 

やはり日本人は米が基本!!

戦後の食糧難で栄養失調だった人々を助けたのは、アメリカのおかげかもしれませんが、経済復興も成し遂げ食糧難が解消された後でも慣例として昭和50年台60年代もズルズルと学校給食で、パンと牛乳を提供すると言うのはどうなんでしょう?と思います。

今の給食コッペパンは柔らかくておいしいらしいですが、私が小学生の頃食べたコッペパンは、口の水分が持ってかれて牛乳なしじゃ食べられませんでした。

本当にあのコッペパンは、テンションが下がりました…

 

日本の食文化の基本は、お米です。

学校給食では未だに米に合わない牛乳がでています。食育もへったくれもありませんね。

戦後、パン食の仕掛人であるアメリカ自身も、日本食の良さに気が付きブームになっています。いま日本で、これだけ生活習慣病が蔓延しているのも、戦後の急激な食の欧米化が関係していることは間違いないとも言われています。

無形文化遺産に登録された今こそ、日本の食文化を見直して行く時期なのでは無いのでしょうか?

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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