なぜ、武士でない千利休が豊臣秀吉に切腹させられたのか??
千利休は、秀吉の時代頃の茶人です。
わび茶を完成させたとされて『茶聖』とも言われています。
当時の茶人、津田宗及と今井宗久と茶湯の天下三宗匠と呼ばれていまいた。
豊臣政権下での千利休の 立場
1591年2月28日、千利休は豊臣秀吉の名により切腹をしました。
武士ではなく一介の茶人であった千利休が切腹を命じられたのは、色々な説がありますが、一番の有力説は利休の置かれている立場にありました。
秀吉から3000石を与えられて織田信長創案による、御茶湯御政道の政治的・経済的効果に加えて、その文化的効用も利用しながら、茶湯の指南・後見役として側面から支えて、秀吉を天下人に押し上げました。
家康や著名大名を茶の湯の弟子として、秀吉及び弟である大和大納言・秀長の側近参謀的な地位まで上り詰め、その権威は豊臣政権の内政を左右する存在となっていました。
豊後の大名・大友宗麟が「利休以外に関白様に物を申せる人はいない」と言ったのは有名な話で、茶人でありながら武士と同等以上の立場だったとも言えますし、世間的にもそのような認識だったといえます。
以上の理由から斬首ではなく切腹の形をとらせたのではないかとされています。
秀次事件や黒田官兵衛の処遇などを見ていくと、秀吉が天下人に近づくにつれてどんどん孤独になってゆくように見えるのは私だけでしょうか?
天下人の宿命と言えばそれまでですが、秀吉自身もそれは感じていたかもしれません。
千利休の切腹はなぜ命じられたのか?
最大の原因は茶道具の目利きと売買にあたり、利休が不正を行ってきたことです。
要するに安いものを詫び茶で推奨・珍重していた茶器として、高値で売りつけたことが問題視されたと言われています。
この件に関しては【晴豊公記】【多聞院日記】などの一次史料に載っています。
茶の湯の世界で頂点に君臨していた利休ですから、その彼が安物の茶器を高価なものと鑑定すれば、その意見に異を唱える人間はこの時代に秀吉位な物でしょう。
利休の最大の理解者であった豊臣秀長が生きているときは、うすうす気が付いていても秀吉も意見を言っていませんでした。豊臣政権の最大の功労者である実の弟との確執は控えていたのだと思います。
しかし、1591年に秀長が亡くなると、かねてから気になっていた茶道具の高価取引を利休に尋ねました。秀吉にからしてみれば、利休がどのように反してくるか楽しみにしていた風に思います。
利休は北政所から、謝罪すれば許しを得られると進言されていたのにもかかわらず、利休は自らの不正を認めはしたものの謝罪する事はありませんでした。
そもそも、利休は自分が行っていた商取引が不正であると認識していたかどうか自体、定かではありません。仮に認識していたとしても、自ら認めることは決してできなかったことでしょう。
例え命が助かっても認めてしまえば今まで築き上げてきた、天下一茶湯名人の名誉と茶道の地位を失ってしまうからです。ここに利休が進めてきた茶道が、その命と引き換えに紛れもなく
第一級の芸術に昇華した瞬間でした。
千利休は存命中に『利休七哲』に代表される多くの弟子を抱え、その子孫たちは茶道の三千家として今でも続いています。