鎌倉殿の13人

【鎌倉殿の13人】源頼朝が鎌倉幕府を作るまでの流れをおさらいしよう!!

歴ブロ

平安時代といえば

  1. 天皇
  2. 貴族(藤原氏)による摂関政治
  3. 上皇による院政
  4. 武士(平家)による政治

と異なる身分の人達の間で権力が目まぐるしく変わっていった時代です。

 

鎌倉殿の13人の時代は『④武士(平家)による政治』が全盛期の時代から舞台が始まっています。今回は、この前後の動きを改めて追って行きます。

 

※※ネタバレ注意!!

 

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保元の乱(1156年)

『④武士による政治』の少し前。『③上皇による院政』から『④武士による政治』へ移行していく混乱期に、皇位継承争いと摂関家内部での争いが始まりました。

保元の乱は、1141年に当時の最高権力者であった鳥羽院の意向から崇徳天皇近衛天皇に譲位した時に『皇太弟』として譲位したため崇徳天皇が上皇となって院政を敷く道を絶たれてしまったことが直接的なきっかけとなっています。

この陰謀の裏には待賢門院美福門院との対立や鳥羽院崇徳天皇の対立なんかがあったようです。

保元の乱関係図

こうした宮廷内がゴッチャゴチャになっていた中で近衛天皇が崩御したため、皇位継承争いが生まれていきます。

さらに、武士たちがそれぞれの勢力の軍事力の要として参加したのが保元の乱なのですが、この頃の武士達も同じ組織(武士団)内で違う立場にあったため源氏・平氏も内部でそれぞれが分裂して戦いました。

皇位継承争い 後白河天皇(雅仁親王)
信西 が乳母夫
崇徳院
摂関家の争い 藤原忠通 藤原忠実・藤原頼長
平氏内部での争い 平清盛 平忠正
源氏内部での争い 源義朝 源為義

 

その結果、当時の天皇・後白河天皇が勝利。頼朝の父・源義朝はこの時後白河天皇陣営についています。

この戦いを機に武士達の実力が明らかになり中央政治へ参加するようになっています。

 

保元の乱が起こった原因とは?? 平安から鎌倉時代に移行する流れを知るのに避けられない争いが保元の乱と平治の乱、そして治承・寿永の乱です。 ...

 

平治の乱(1159~1160年)

保元の乱の後、息子二条天皇に天皇の位を譲ると自ら院政を敷くようになった後白河上皇。この院政下では保元の乱で勝利した院近臣同士の対立が激しくなっていきます。

ここに美福門院を含む二条天皇親政派も絡んで院近臣を育成したい後白河上皇藤原信頼を抜擢し彼が台頭するようになると、二条天皇親政派・上皇【信西派】・上皇【藤原信頼派】の三つ巴状態に。

 

保元の乱の戦後処理に対する不満も相まって(保元の乱をキッカケに信西が平氏を優遇、源氏は鬱憤を溜めていた説があります)藤原信頼と結びついた源義朝信西を襲撃し、天皇と上皇を幽閉すると信頼が政治の実権を握りました。

この異変を聞き付けた平氏が天皇と上皇を奪い返したのが、いわゆる平治の乱です。

勝者 敗者
院近臣 信西 藤原信頼
武家 平清盛 源義朝
平重盛 源義平

 

この結果、勝者側に立ったはずの信西は死に追い込まれ、反信西派として行動した藤原信頼・源義朝・源義平(←義朝の庶長子)らは処刑されています。

この時、義朝の正室の長男であった源頼朝は伊豆へ流刑に、義経頼朝の異母弟達は寺へ預けられることになりました。

 

平清盛が太政大臣になる(1167年)

結局、平治の乱では後白河上皇の近臣だけでなく二条親政派の代表格も反信西派に加わって事を起こしたため、両者とも有力な臣下を失うと二頭政治に移行していきました。

そんな中でも平治の乱の功労者である平清盛は慎重に行動していたそうです。二条天皇の乳母時子の夫という立場であり後見として頼りにされながらも、時子の妹・滋子を通して後白河法皇との関係も作り上げていきました。

平清盛家系図

鹿ヶ谷の陰謀:後の1177年に起こった打倒平氏を目指した陰謀が画策された事件(後述)

ところが、その最中に二頭政治の一方を担っていた二条天皇が1165年に崩御。この後、平清盛は1167年には皇族もしくは貴族しかなれない太政大臣にまで登りつめ、後白河法皇派が力を握っていくことになります。

 

清盛が自身と皇室との繋がりを作り上げる

二条天皇は生前に息子を立太子させ六条天皇として既に即位させていましたから、二条天皇の次代天皇は六条天皇が担っていったのですが...

即位の年に最大の庇護者であった父が崩御したため、3年も経たずに後白河法皇の意向で高倉天皇に譲位させています。この高倉天皇清盛の義妹・滋子後白河法皇の間にできた息子でした。

高倉天皇の即位から約4年後、清盛は娘の徳子高倉天皇の元に嫁がせ中宮とし、義妹を通じてだけでなく自身の血縁関係による皇室との繋がりを持たせることに成功させています。

 

また、平治の乱信頼についていた多くの軍事貴族達が処刑・追放されたことから軍事・警察権を平氏が独占することになった他、清盛の父・忠盛以降続けてきた日宋貿易にも力を入れて確実に力を蓄えていきました。

この日宋貿易に絡んで清盛は京に近い福原(神戸)に港を整備し遷都まで計画しています。

 

高倉天皇以外の皇位継承の有力候補は誰?

平徳子を中宮とする以前(1172年)高倉天皇。彼自身が第7皇子ですし、他にも有力な家柄出身の皇位継承候補もいましたが1166年に立太子されています。

高倉天皇の譲位までの関係図

その有力候補の筆頭格が後白河法皇の第三皇子である以仁王。この以仁王の存在が後々の歴史を変えていくことになるのですが、後述します。

 

反平氏の機運の高まりと鹿ヶ谷の陰謀事件の発生(1177年)

急激な清盛の出世で反平家感情が生まれつつある中で、後白河法皇の妻となった清盛の義妹建春門院(滋子)が1176年に死去しました。

後白河法皇清盛の間を取り持つ緩衝役を果たした女性が没したことで両者の関係は次第に悪化するようになります。

 

後白河院と平清盛の関係はどう変化していったの?? 後白河院と平清盛の話をする前に二人の関係を語るには欠かせない平滋子という女性についてお話ししましょう。 平滋子の調整が...

 

これが表面化したのが鹿ヶ谷の陰謀です。

後白河法皇をはじめとした反平家の者達が鹿ヶ谷の山荘で清盛ら「平氏を討とう!」と計画を立てていたとして密告者が現われ、後白河法皇を除く計画を立てた人物らを捕らえたとされる事件です。

平家物語には酒の席で「瓶子(酒を入れる器、ヘイシと読む)を倒した!」って駄洒落から始まったと書かれているのもあって「清盛の自作自演では?」と言われることも。

ただ、駄洒落から始まったかもしれないというしょうもない流れで始まったこの一件の結果は結構深刻でした。

後白河法皇に近い藤原成親・成経親子、西行、僧俊寛ら院近臣たちが死刑になったり配流後に殺害されたりしたため、後白河法皇は一気に力を失い平家の独壇場となっていきます。

清盛の嫡男・重盛は鹿ヶ谷の陰謀で配流された藤原成親の妹を奥さんにしていましたから微妙な立場に置かれ、以後、清盛時子の子である宗盛が表に出るようになります。

 

なお、この辺りの時期に伊豆に流されていた源頼朝北条政子と結婚したようです。

 

源平合戦と源源合戦

鹿ヶ谷の陰謀で表面化したように、後白河法皇と平家の対立は明らかでした。ついに1179年には清盛後白河法皇を幽閉してしまいます【治承三年の政変】。

さらに続けて1180年、義妹の建春門院(滋子)後白河法皇の間に生まれた高倉天皇の元に嫁がせていた娘・建礼門院(徳子)が産んだ安徳天皇を即位までさせました。

 

親王宣下を受けなくても皇位継承に望みをかけて出家もせずにいた以仁王は、この安徳天皇の即位で完全に皇位継承を絶たれたことになります。

さらに平家にしてみれば要注意人物であったことから経済基盤となる荘園まで没収されてしまいました。時代、洋の東西問わず経済基盤を失えば行動に移す者も出てきます。以仁王もその一人でした。

こうして以仁王が全国の源氏に平氏追討の令旨を発したのです。

 

源頼朝と木曾義仲の挙兵

1180年、以仁王は中央政界に留まっていた源氏の長老源頼政とともに兵をあげるも残念ながら計画が露見し志半ばで討たれてしまいました。が、両者の挙兵は多くの反平家を立ち上がらせます。

源頼朝木曽義仲もその中の一人です。

頼朝の挙兵

頼朝挙兵後の動き

頼朝の挙兵以後、東国の武士たちは続々と合流。初期の石橋山の戦いでは300騎と非常に心許ない兵力だったのが一か月後には2万騎もの兵力まで拡大していました。

さらに富士川の戦いの頃には2万騎の兵に加えて甲斐源氏まで加わり、平氏軍は及び腰になったそうです。水鳥の羽音を敵(源氏)の襲来と勘違いし敗走したと言われています。

※ちなみに、この甲斐源氏との合流の際に頼朝の弟・源範頼も派遣されてきたのではないかと見られているようです

 

この後一気に頼朝は京へ向かおうとしましたが千葉・上総・三浦らに諫められて東国の足元固めに奔走し始めました。

なお、この翌日に頼朝は弟の義経と面会。頼朝の挙兵を聞いて加勢を申し出たのでした。

 

一方、富士川の戦いの半年後の1181年、京では大きな変化が起こります。あの平清盛が熱病で死亡したのです。

 

木曽義仲の挙兵

木曽義仲信濃(長野県)の木曽で成長したため、木曽義仲と言われています。頼朝の父・義朝の弟・源義賢の息子です。

同じ源氏でありながらも頼朝とは一緒に挙兵せず、頼朝の挙兵1か月後に兵をあげました。

 

源義仲(wikipedia)より

この挙兵に対して追討令を受けた城長茂(じょう ながもち)が越後から侵攻してくるもこれを撃退すると、続けて越後~北陸にかけて一気に平定して独自の勢力を築き上げていきます。

危機感を覚えた平氏は4万~10万とも言われる大兵力を木曽義仲に向けました。ところが、この軍勢を倶利伽羅(くりから)峠の戦いなどで返り討ちにしています。

この勢いのまま木曽義仲は京に侵入すると、平氏一門は1183年に安徳天皇と三種の神器と共に都落ち。なお、都落ちしてしまったため後白河法皇の意向で(三種の神器なしではありますが)高倉院のもう一人の息子・後鳥羽天皇を即位させています。

 

頼朝と木曾義仲の対立

以上のような経緯で入京した木曽義仲でしたが、彼らの軍は戦いには非常に強くとも急激に大きくなった軍でしかありませんでした。無法者の寄せ集めばかりだったわけです。

京の都では略奪や暴行などが行われてしまいます。そのうえ、義仲自身も京や朝廷のしきたりを知らず、割と早い段階で後白河法皇と対立することになりました。

この対立を受けて後白河法皇が頼ったのが頼朝です。

 

後白河法皇から「東国の支配を認めますよ」という宣旨を受けて、源範頼義経らに軍を授けて義仲討伐へと向かわせます。宇治川の戦いなどで叩き潰し、最期にはわずか数騎で戦った粟津の戦いで討ち死にすることとなったのです。入京からわずか半年の出来事でした。

 

平氏の滅亡

源氏同士で戦っている裏で逃げ延びた平氏たちは中国・四国・北九州で密かにその勢力を盛り返し瀬戸内海を手中にしていました。さらに生前清盛が整備した福原の地に入り、近隣にある一の谷には軍事拠点を築いて入京する機会を伺っていたのです。

そんな最中、後白河法皇から和平協定の知らせが届きます。

平氏達は安堵して一息ついていたところに全面から源範頼が、後方の急斜面から義経らの軍勢が急襲してきました。いわゆる一の谷の戦いです。

一の谷の戦いで敗れた平氏は讃岐国(香川県)の屋島に逃れます。

ちょうどこの頃、戦で大活躍した義経後白河法皇から頼朝の許可なく任官を受け、頼朝に咎められてしまいました。その間も範頼らは屋島の戦いを続けますが停滞したため、再度義経を起用すると敵の裏をかいた作戦を通じて粉砕したと言われています。

が、この一連の経緯は史実かどうか分かっておらず、義経の悲劇の死に合わせて盛った演出の可能性もあると言われているようです。

屋島での戦いで敗れた後も平氏らは更に西進し、最終的に壇ノ浦へ。この壇ノ浦の戦い安徳天皇は崩御、平氏は滅亡することとなりました。

 

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源頼朝が征夷大将軍となる

後白河法皇からの任官の件で不仲になった頼朝義経。さらに後白河法皇は両者を仲違いさせるよう働きかけ、1189年、義経は兄から討伐され自害まで追い込まれました。

また、最期の最期に義経が頼った(以前世話になっていた)東北の奥州藤原氏を「義経を匿った」として征伐しています。

 

奥州藤原氏の最盛期を築いた藤原秀衡は源義経を養育していた 源義経とも深いかかわりがある奥州藤原氏の藤原秀衡。死の直前、3人の息子に義経の指示に従い鎌倉に備えよと遺言を残したほどでした。 ...

 

こうした戦いの裏で平氏一門の所領(1184年)を獲得したり守護地頭の任命権を獲得したり(1185年)して政権基盤を築き上げ1192年には征夷大将軍に任命されました。

1192年、1185年と諸説ありますが、このような形で鎌倉幕府は誕生していったのです。

 

なお、源頼朝木曽義仲義経を仲違いさせるなど、数々の権謀術数を駆使して院や朝廷の権力の維持を務めた後白河法皇は頼朝が征夷大将軍になったその年に崩御しています。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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