平安時代

後白河院と平清盛の関係はどう変化していったの??

歴ブロ
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後白河院平清盛の話をする前に二人の関係を語るには欠かせない平滋子という女性についてお話ししましょう。

平清盛家系図

平滋子の調整があって初めて後白河院清盛態勢が上手く築けていたと言っても過言ではありません。

滋子は元々鳥羽院の娘・上西門院に仕えていたところを姉で清盛の妻である時子の紹介から後白河院に見初められました。身分が低く当初は女御になれませんでしたが、他の女性とは比べ物にならない程のお気に入りになっ慈子ったようです。

今回は、後白河院と清盛の関係を慈子が亡くなるまで追っていきます。

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二条天皇による親政と崩御後の影響

二条帝後白河院の権力争いが拮抗している中、後白河院と慈子の間に憲仁親王が誕生します。この憲仁親王を立太子させようと後白河派が画策しますが、二条親政派はその陰謀を逆手に取り親政を開始。

二条親政下では摂関家と平家がタッグを組み、後白河派で親政の邪魔になりそうな人物はしっかりと左遷させていたり抜かりない政治を行っていました。

[timeline title=”【二条天皇と近衛基実による政治体制の変化】”]

[ti label=”1161年 9月” title=”憲仁親王が誕生”]後白河院平滋子の間に後の高倉天皇となる憲仁(のりひと)親王が誕生[/ti]

[ti label=”〃” title=”憲仁親王を立太子させようとする陰謀が発覚”]平時忠・教盛・藤原成親・坊門信隆らの解官 / 後白河院による政治介入の停止[/ti]

[ti label=”1161年末” title=”二条天皇による親政開始“]二条天皇による親政開始

関白には近衛基実を置き、藤原伊通平清盛を中心に据えて執政

※清盛は二条帝の乳母・時子の夫で、近衛基実の元に娘を嫁がせている
※二条帝は近衛基実の異母妹を中宮とし摂関家を取り込んだ
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[ti label=”1162年” title=”平時忠・源資賢が二条帝を呪詛した罪で配流”]憲仁の立太子どころか親王宣下も絶望的に[/ti]

[ti label=”1164年” title=”二条天皇に順仁親王が誕生”]二条天皇に順仁親王が誕生

後の六条天皇。満7ヶ月での即位だった[/ti]

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ところが、早すぎる二条天皇近衛基実の死により情勢がガラッと変わります。

[timeline title=”【二条天皇と近衛基実の死前後の情勢】”]

[ti label=”1165年 2月” title=”藤原伊通が亡くなり、二条天皇も病に倒れる”]二条親政体制を支える土台が揺らぎ始める[/ti]
[ti label=”1165年 6月” title=”二条天皇の病が悪化。順仁親王を立太子、その日のうちに譲位”]→ 六条天皇(生後七か月)が即位し、摂政に近衛基実が就く[/ti]

[ti label=”1165年 7月” title=”二条天皇の崩御“]二条天皇の崩御

賢王と称された天皇の若くしての死は政界に大きな影響を与えることに[/ti]

[ti label=”1166年 7月” title=”摂政・近衛基実が薨去“]摂政・近衛基実が薨去

二条親政を支えた中心人物らが全員亡くなった[/ti]

[ti label=”1166年” title=”後白河院の第三皇子・以仁王(もちひとおう)の母方の伯父が失脚”]後白河院の第三皇子・以仁王(もちひとおう)の母方の伯父が失脚

家柄も良く皇位継承者の有力候補だったが、親王宣下も絶望的に平滋子の妨害があったと言われている)[/ti]

[ti label=”1166年 10月” title=”憲仁親王が立太子”]後白河院と平滋子の間に生まれた皇子が立太子[/ti]

[ti label=”1168年” title=”六条天皇の譲位”]憲仁親王高倉天皇として即位する[/ti]

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平家の棟梁であり軍事力を有していた清盛は様々な有力者と自身の縁者との婚姻関係を結んでいたこともあって、情勢の変化があっても舵取り次第で十分身動きが取れる状況にありました(有力者の方も平氏の軍事力は喉から手が出るほど欲しいものでしたし)

清盛後白河院の行動や性格に不安を持っていて「後白河院による院政はちょっと…」という立場ではあったようですが、二条帝の崩御に始まり中心人物らの薨去が続いたことで1166年あたりから清盛は院政派に鞍替えしています。

その後、1167年2月には太政大臣にまで昇進(その後3ヶ月で職をおり、家督は長男重盛に譲っている)しています。

皇位継承者に他の有力者がいるのに第7皇子の憲仁親王が立太子したことで敵対勢力が活気づいたため、それを軍事力+権威を持って抑える目的とも考えられます。

この辺りの時期から後白河院清盛の結びつきは強固なもののように見えます。と同時に武士が太政大臣にまで上り詰めたことや摂関家との軋轢で周囲から多くの反感をかっていったのです。

平家と摂関家との軋轢

二条帝・六条帝と二代に渡って摂政・関白を務めた近衛基実の元には、清盛の娘平盛子(もりこ)が嫁いでいました。基実が22歳、盛子が9歳の出来事でした。基実が亡くなる2年前です。

基実には既に基通という息子がおり、基実が亡くなった1166年には基通はまだ7歳。そのため後任の摂政には基実の弟・基房が継いでいます。

ところが、清盛は「基実の後は息子の基通が継ぐべき!」という立場を取っていました。

基実の遺領(経済的基盤)や代々の日記(当時の日記は儀式や公事の作法・判断の典拠と成り得るもの、知的基盤)東三条殿(摂関家の正邸)などを妻で基通の養母である盛子が相続できるようにしたいという思惑がありました。

実際に相続できるよう平家と親密な摂関家の家司が画策し、実際に相続しています。

が、当然盛子に管理できるわけもなく実質的には清盛が管理を行っていました。所謂「摂関家領の横領」と呼ばれる事件として知られ、当然ながら摂関家は平家に不満を持つことに。

盛子は1179年に亡くなりますが、盛子の死後にこの摂関家領の相続を巡る問題へと続いていきます

後白河院と清盛の政治路線の対立

1170年に起こった嘉応の強訴延暦寺の仏僧達が尾張国の知行国主・藤原成親の配流を求めて起こした強訴で、後白河院清盛の政治の方向性が全く違うことが表面化した事件でもあります。

歴ぴよ
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※強訴とは?強硬な態度・姿勢で無理やり相手方に意見などを通そうとする行動で、院政期には僧兵らが仏罰等をかざして無理な要求を行っていた。

1168年には清盛が病の平癒を願い延暦寺で出家。その後の1169年に後白河上皇も出家して法皇となっています。

通常なら「延暦寺で」となるのですが、清盛延暦寺の接近によって延暦寺が力を持つ中で後白河法皇まで・・・となると延暦寺が更に力を持ちかねません。それを警戒して戒師など8人の役僧は全て園城寺(おんじょうじ)の門徒に担わせています。

実はこの園城寺延暦寺とは10世紀頃から対立抗争を繰り返している寺でもあります。焼き討ち事件も一度や二度ではなく小規模なものも含めると数十回。

そんな園城寺の門徒を戒師としたら延暦寺としては面白くありません。加えて後白河院の近臣達もまた延暦寺領の荘園を縮小させるような方向で動いていました(これまでも延暦寺は色々とやらかしているので後白河院は警戒していたのでしょう)

中でも延暦寺の勢力が強いのが美濃の国。この美濃や尾張の国の知行国主をしていたのが後白河法皇に近い院近臣藤原成親だったのです。

後白河法皇成親を庇い延暦寺に対して強硬な姿勢を貫こうとしましたが、仏罰を気にする公卿と延暦寺と友好関係にある平氏はその行動に否定的。結局、朝廷側の足並みが揃わず事態が二転三転しながらも延暦寺側の要求を飲むことになりました。

数か月後、後白河院清盛は東大寺にて同時受戒(受戒とは仏の教えに帰依するその証に戒名を受け取る事、同時に行ったのは鳥羽院と藤原忠実の例に倣った)を行うことで後白河院清盛の協力体制が盤石であることを示し、政治路線の対立は一応の決着をつけたように見せたのです。

最後に

清盛らと摂関家後白河院との関係も微妙なものになっている中、上手く仲を取り持ったのが滋子とその出身の堂上平氏

後白河院滋子への寵愛や信頼がどれだけ篤かったのかは、姉・時子清盛の娘・徳子後白河院の娘(猶子)として高倉天皇への入内したことにも表れています。

滋子はたまたま後白河院の目に留まり女院とまでなれましたが、本来なら平氏出身の女性は女御にもなれない家柄。高倉天皇の治世を安定的なものにしたいという滋子の意向が、後白河院の猶子にしてから入内という強引な方法に強く影響していたと言われています。

そんな滋子が1176年に二禁(腫れ物)が原因で35歳の若さで亡くなると、表面的には浮かんでこなかった様々な歪みが出てしまい、鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる平氏打倒を目的とした陰謀事件が発覚することとなったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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