【日本史の大まかな流れ】建武の親政・室町幕府設立~滅亡まで
鎌倉幕府滅亡は、後醍醐天皇の倒幕計画がきっかけで全国各地に飛び火し、有力御家人・足利尊氏が幕府を裏切ることで形勢が逆転しました。こうして、後醍醐天皇が念願の天皇による親政を敷き始めると、武家政権を再びこの手で作ろうと模索してた尊氏との対立色が濃くなっていきました。
今回は、室町時代の建武の親政・室町幕府設立~幕府滅亡までの流れをかいていきたいとおもいます。流れと重要語を織り交ぜているため長ったらしい文章ですが、もっと簡単に流れをつかみたいなら日本史の流れ(かなり簡略したやつ)を参考にして下さい。
建武の親政と室町幕府の設立
鎌倉幕府倒した後醍醐天皇は、念願だった天皇による親政【建武の親政】を開始します。
しかし、改革を急ぎすぎたせいか大きな混乱を招く結果となりました。また、鎌倉幕府から没収した所領の分配を公家を優先した事で、武士の反発が強く建武政権樹立わずか1年で武家政権復活を望む武士たちが各地反乱を起こします。
これをチャンスと見た足利尊氏は、1335年に後醍醐天皇に反旗を翻します。
挙兵した尊氏は、京都を占領しその翌年に室町幕府を開きました。
順風満帆に室町幕府を開いたと思われましたが、現実はそれほど上手くいきませんでした。
武士たちの不評を買っていたはずの後醍醐天皇でしたが、いざ戦いが始まると天皇を守ろうとする武士も多数いたことから、天皇の権威は依然として強く現に尊氏は、いったん後醍醐天皇側に敗れていもいます。
朝廷を敵に回すのは得策ではないと悟った尊氏は、朝廷を利用する事を考え始めます。
後醍醐天皇とは別に光明天皇を即位させ、光厳上皇から【院宣】をもらえることが出来れば、【上皇の命令で建武政権と戦っている】と言う大義名分が得られます。
朝廷では、この頃に持明院統と大覚寺統に分かれて皇位継承を争っており、打開策として交互に天皇を建てられていました。そこで、尊氏は後醍醐天皇と対立する持明院統の天皇を擁立し【北朝】を起こしました。
一方で後醍醐天皇は、吉野へ逃れることになり【南朝】を起こすことになります。
こうして、二つの朝廷が同時に存在する日本史始まって以来の【南北朝時代】が始まるのでした。
南北朝時代… 1336(1333)年 ~ 1392年(室町時代の初期)
京の南方にある吉野に逃げ延びた後醍醐天皇は自身を正当な天皇であると主張。結果、京都の北朝と吉野の南朝が対立する南北朝の動乱が起こることに。
後醍醐天皇側の南朝は軍事的には脆弱だったのですが、それでも60年の間滅亡に至らなったのは、北朝内部も常に不安定だった事も挙げられます。
室町幕府を設立した足利尊氏率いる北朝側は、尊氏と直義の二頭政治を行っていました。尊氏が軍事を直義は行政を担っていましたが、政策上の意見の相違や相続問題が絡み、側近を含めた騒乱に発展しました。
これが1350年の観応の擾乱です。
結果、直義が毒殺され乱は終結しますが、残った直義派が南朝側に付いてしまった事で、一時に南朝が勢力を盛り返した時期もありました。
このように足利政権が必ずしも安定していたわけではなかったので、南朝は半世紀以上も続く結果となったのです。
室町幕府の黄金期…足利義満による南北朝統一
こうした南北朝の対立に終止符を打ったのが、室町幕府三代将軍・足利義満でした。
直義が亡くなり30年以上たったこの時代は、旧直義派もその影響力が弱り、南朝勢力の後醍醐天皇、子・後村上天皇もこの世を去り力を失っていました。
むしろこの時代、義満の悩みの種だったのが複数国所有していた有力守護の存在でした。
義満はわずか11歳で将軍に就任しましたが、天性の政治力を発揮します。
やがて、有力守護・山名氏清や大内義弘などの守護大名の力を削ぎ、絶大な権力を誇ることになります。
一方で、南朝で穏健派の後亀山天皇が即位すると【南朝と北朝を交互に天皇にするから合併しませんか??】と迫り、この条件を南朝が飲む形で北朝の後小松天皇に皇位を譲りました。
こうして1392年に南朝の吸収合併にも成功し、幕府設立以降長かった南北朝の動乱に終止符が打たれることになります。しかし、北朝と南朝が交互に天皇になる約束はすぐ反故にされ守られることはなかったそうです。
足利義満の政策
南北朝を統一した義満は、室町幕府の将軍の権威を高めることに尽力します。
武士の力が高まったとはいえ、朝廷の権威はまだまだ健在だったこの時代。そのため、自分の権威を高めることで、朝廷の権威を相対的に低くしようとしました。
庭園に鴨川の水を引き込んだ【花の御所】を作り、上皇の御殿に習い【金閣寺】を建設したのも将軍の権威向上の為でした。1394年にはみずから公家の最高位である太政大臣にも就任しています。
さらに新たに明との貿易に力を入れた時には、天皇を差し置いて【日本国王】と自ら名乗り、貿易の利益を独占しました。こうして室町幕府の権威と力を義満の時代に最盛期を迎えることになりました。
11年にもわたる大戦争・応仁の乱
この時代、庶民の間では荘園領主らに抵抗したり戦乱から村落を守るために自治的性格を持つ惣や惣村と呼ばれる結びつきが出来てきます。彼らは警察や裁判なども行うほか武力も備えていました。
始めのうちは愁訴・強訴・逃散などの手段を使って領主らに抵抗したが、地域的に持つ広いつながりを武器に土一揆という武力蜂起を起こすまでになります。
惣村の発達は市民の生活に賑わいを与え、市と呼ばれる市場(月に6回)が発達。食事も以前と比較すると豊かになり一日2食から3食へ、お茶の栽培も開始。ただし、座と呼ばれる税を納めた見返りにある地域での商品売買の独占権等があったり関所があることで自由な売買ができず、商工業の発展を妨げていたと言います。
結果、荘園領主や国人(地方在住の武士)達は守護大名の力を借りるようになり、ますます守護大名の力が強くなってくるが、この惣や惣村もまた守護大名と実力で対抗できるほどに強くなっていきます。
一方で幕府は、義満の時代を最盛期に4代義持まで平穏な時代が続きました。
しかし、5代将軍・義教死後は守護大名の勢力争いの場なるほど力が周囲に埋もれていく。細川勝元と山名持豊(宗全)を中心とした二大勢力の抗争、斯波・畠山などの抗争が応仁の乱まで発展します。
更にこの頃、家督・財産の相続が分割相続から単独相続へと完全に変化。ところが、この相続する人間が「誰」とは正確に決まっていなかったため、地位を巡っての争いが増加。一族や家臣団の間での抗争も増えていくにつれ、地位の低い者の実力が強化されるように。所謂、下剋上の風潮が強くなってくる。
応仁の乱は、将軍家の後継ぎ問題が発端でした。
8代将軍・足利義政と妻・日野富子に子がなかったので、夫婦は義政の弟・義視を次期将軍に指名しました。しかし、富子に男児が生まれると事態は急変します。義視は元々将軍になるつもりはなかったようでしたが、乗りかかった手前引くことが出来ず、富子側も実子を将軍にしたいので両者に激しい対立が起こりました。
富子は山名豊持を義視は細川勝元と言った有力守護大名を頼り激突したのでした。
また、この頃に管領家の畠山氏と斯波氏でも後継者争いが起きており、それぞれが山名・細川両氏に助けを求めたことで事態は収集のつかないことになりました。
一方で当事者の将軍・義政は、この争いに関与せず自分の趣味に没頭していました。
11年にも及ぶ応仁の乱の一因は、義政の政治のへの無関心が要因であったことは言うまでもなく、この戦いで京は焦土化し幕府の権威は失墜するのでした。
ここまでのポイントとしては、
- 南北朝時代…観応擾乱など
- 三代将軍・足利義満時代…全盛期の北山文化(金閣)
- 八代将軍・足利義政時代…詫びサビ文化東山文化(銀閣)
- 応仁の乱…乱直前の時代背景や誰と誰が戦ったか等
と言う流れで覚えておきましょう。織田信長が登場すると信長中心で動いていくので、『信長時代』的で別で覚えたほうが同じ室町幕府下でも覚えやすいと思います。
戦国大名の誕生と室町幕府の滅亡
下剋上の風潮が全国的となり、実力をつけた様々な大名が争い始まります。
幕府から地方に派遣された軍事指揮官・行政官の事がおり、鎌倉時代には【守護】とも言いました。荘園から税金を徴収する権利や土地の管理を行うようになると、その権限は大きくなり、守護自ら地盤を領国化して守護大名となりました。
しかし、将軍の権威が失墜すると、その後ろ盾を失った守護大名たちは、代わりに力を付けた守護代や国人領主たちに次々と倒されていきます。こうして下剋上で大名にのし上がった者たちを戦国大名と呼びます。
守護大名で唯一残ったのは、武田・今川・大友・島津など少数で、ほとんどの地方では国人や守護代が成り上がって、その土地を治めていくことなります。
鉄砲の伝来
この頃、世界的にはいわゆる大航海時代で、鹿児島の種子島にポルトガルが着き、南蛮貿易が始まります。鉄砲が伝来し、それまでの戦の方法が劇的に変化します。
鉄砲が日本にもたらされたのは、1543年の事で中国船に乗っていたポルトガル人2名が種子島来航し、彼らが持っていた二丁の鉄砲を種子島時尭が購入したのが現在の通説です。
こうして偶然伝わった鉄砲により、武士の戦闘方法も変わり築城法にも変化が現れました。平安~鎌倉時代にあった一騎打ちによる戦は終わり、鉄砲伝来以前は足軽集団戦法が主流でしたが、鉄砲が広まると鉄砲足軽による集団戦が重視されるようになります。
築城法も戦国中期までは、山の上に築城する山城だったが、濠と石垣で囲んだ平城が作られるようになりました。
キリスト教の伝来
1549年にフランシスコ=ザビエルよって伝えられたのが、キリスト教でした。
宣教師がキリスト教を布教する背景には、日本の物産に目を付けていたと言われています。
15世紀までの日本は、外国にとって魅力のない国でした。しかし、16世紀になると銀の産出国として世界的に脚光を浴びることになります。世界遺産に登録されている【石見銀山】が開発され、日本は世界有数の銀産出国となったのです。
これに魅力を感じたポルトガルが、キリスト教宣教師を先発隊として送り込み、貿易の足掛かりとしたのです。
日本側にとっても宣教師たちは、歓迎すべき存在でした。
九州では、キリスト教信者になる【キリシタン大名】が誕生し、彼らの多くは南蛮貿易の利益が目当てだったと言います。また、当時は一向一揆などの仏教勢力に手を焼いていたので、信長や秀吉も政権初期は、宣教師を保護し仏教勢力の牽制を図りました。
織田信長と室町幕府滅亡
群雄割拠した戦国時代の前半戦に勝利したのが【織田信長】でした。
若かりし日には【うつけもの】と呼ばれていた信長でしたが、尾張国を制圧した後にわずか20年で関東一部から中国地方に至るまでの広大な領地を手に入れ天下統一までの足掛かりを築きました。
天下統一のプロセスの中で信長は、足利義昭を15代室町幕府将軍として奉じ上京しています。こうして、将軍の権威を利用して天下を思うままにしていこうした信長でしたが、義昭との折り合いがつかなくなり対立します。
織田信長と対立した足利義昭は、将軍の権威を使い各国の大名に信長包囲網の結成を促していきます。この義昭の再三の包囲網を蹴散らせては、義昭を丁重に扱ってきましたが、とうとう手に負えなくなり、将軍の居城・二条城を追い出し京都を追放しました。
研究者の間では、どれを持って室町幕府が滅亡したのかはありますが、通説では足利義昭が織田信長によって京都を追放された年を持って【室町幕府滅亡】としています。
室町幕府滅亡については、こちらの記事で触れていますので参考にしてみてください。