日本史の流れ

【日本史の大まかな流れ】仏教の伝来と飛鳥時代、奈良時代の流れ

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神社でお参りをしたり、亡くなったらお寺のお墓に入る、現代の私たちは神道と仏教の共存を何も違和感なく受け入れています。

古代日本は元々神道の原型となる自然崇拝が主流でした。

しかし、飛鳥時代頃になると大陸から仏教なる異教が伝わることになります。その仏教の受け入れをめぐり賛成派と反対派が激しく対立する事になりました。

公式で仏教が伝えられたのは、538年と言われています。

以前から渡来人によって仏教は密かに信仰されてはいましたが、公式にはこの年に百済の王様から仏像や仏典が中央政府に贈られています。

 

この記事では、飛鳥時代を経て奈良時代までの流れを書いていきたいと思います。

 

仏教受け入れをめぐって大和政権内で対立

この仏教受け入れをめぐっては、大和政権時代に渡来人との関りが深かった【蘇我稲目】と軍事の祭祀を担当していた【物部尾輿】の反対派で対立していました。

それ以前から政権の覇権を争っていた両氏は、この仏教問題で対立が深くなります。

仏教を受け入れは、宗教上の問題と共に誰がどういった形で政権を握るかと言う政権争いに絡む問題となっていったのです。

 

この時代の大和政権は、祖先を同じくする【】によって構成された連合政権でした。

そして、古代神道では【】の祖先である氏神様を祀っていたので、それぞれの氏によって祀る神が異なっていました。

一方で、外来宗教の仏教は、氏ごとの仏がいるわけではなく、氏姓制度とは関係のない宗教でした。そこから、仏教の受け入れの是非を氏姓制度に基づいた【豪族の連合政権】を続けるか、王が全ての氏を束ねる【中央政権国家】を目指すかで対立していました。

この蘇我氏VS物部氏の対立は、蘇我馬子が聖徳太子らと共に物部氏を破り決着する事になります。

こうして仏教は、公式に認められ蘇我馬子は、一族の氏寺として【法興寺】を建立しました。こうして日本は、仏教を中心とした中央集権国家への道を歩むことになりました。

 

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飛鳥時代…聖徳太子と蘇我馬子

日本人の誰もが知っている政治家の聖徳太子

仏教の定着と推古天皇の摂政として数多くの政策を成し遂げた人物です。

しかし、物部氏との対立で政権の中枢にいたのは聖徳太子だけではありませんでした。それは、蘇我馬子でした。

聖徳太子の父・用明天皇は蘇我氏の血を引く天皇で、馬子の力で即位しています。また、太子の妻も馬子の娘と結婚しており、蘇我氏とは切っても切れない縁でした。そのため、太子の行った政策の裏には常に蘇我馬子の影がちらついていました。

603年に定めた【冠位十二階】は、世襲する氏姓制度を廃止し、冠位を個人に与えるもので、能力があれば昇進できる当時としては画期的なシステムでした。しかし、実際には蘇我氏などの有力豪族には与えられておらず、これは蘇我氏側が冠位を与える側にいた事を示しています。

 

とはいうものの、聖徳太子が国家建設に向けて政策を打ち出していたことは事実で、十七条の憲法では近代的な意味の憲法ではなく役人の心得を示したような条文ですが、そこには豪族の融和を図り仏教と天皇中心の国作りを進めようとする太子の理想が込められています。

また、外交政策でも太子は手腕を発揮しており、中国との途絶えていた国交を再開し、600年にはい回目の遣隋使を派遣しています。その後は、冠位十二階や17条憲法を定めて再び小野妹子らの遣隋使を送っています。

 

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しかし、聖徳太子には伝説的なエピソードが多過ぎて、どこまでが本当かは不明です。摂政就任後に数年で隠居し、謎の死を遂げているのも不思議です。

そんなことから、聖徳太子にまつわる数々の伝説は作り話だと言う研究者も多く、近年では架空の人物だった説も浮上しています。

 

乙巳の変と蘇我氏の滅亡

大和政権の実権を握っていた蘇我氏はさらなる権力拡大のために、自分たちの近親者を天皇にするために、次期天皇候補である山背大兄皇子を排除し、皇極天皇を擁立します。

それに危機感を持ったのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。

特に中大兄皇子は、皇位継承問題の当事者でもあることから、このまま蘇我氏が権力を持ったままなら天皇どころか自分の命までも脅かされる可能性が有りました。

そこで中大兄皇子は、中臣鎌足と共に蘇我氏討伐の計画を練り、蘇我入鹿を天皇宮へおびき出し暗殺をしました。それを知った蘇我蝦夷は、自宅に火をかけ自害して果てました。

こうして、馬子・蝦夷・入鹿と三代に渡り大和政権を牛耳っていた蘇我氏の宗家は滅亡したのです。このクーデターを乙巳の変と呼ばれ、そこから始まる改革が【大化の改新】と言います。

 

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大化の改新

乙巳の変を成功させた中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳天皇を擁立し新政府を樹立します。

年号を【大化】と改め、政府の基本方針を示す【改新の詔】を発表しました。

  1. 豪族の土地や人民の私有を禁じ国家の物とする
  2. 都と地方の行政組織と交通・軍事制度を整える
  3. 戸籍・計帳・班田収授を実施する
  4. 新たな税制を導入する

これは中国に習った律令国家4か条でした。

 

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古代最大の内乱、壬申の乱

壬申の乱は、天智天皇の王位継承問題で、天智天皇没後空白となった皇位を争ったのが、弟・大海人皇子と天智天皇の息子・大友皇子でした。

叔父と甥の権力闘争だったのですが、どちらが正当な後継者だったのかは当時は非常にあいまいだったとされています。このような場合は、天智天皇本人の意思が重要だったのですが、天皇本人は大友皇子を後継者にしたかったと言うのが定説となっています。

しかし、天智天皇が死の2か月前に大海人皇子に【次はお前だ】と言うのに対し、大海人皇子は、【自分は王位を継がず出家します】と答えていました。王位を継ぐ意思を見せていなかった大海人皇子でしたが、【ここで色気を見せては野心がばれてしまう事】を恐れての出家発言でした。

そこで、大海人皇子は、野心がないことを見せるために吉野へ隠居します。

しかし、天智天皇が逝去すると吉野を出て兵を集め大友皇子のいる近江の都へと攻めあがるのでした。そして、大友皇子を自害に追い込み、672年9月に天武天皇として大海人皇子は天皇として即位しました。

 

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日本初の基本法典・大宝律令

天武天皇が即位し、701年に日本初の基本法典である【大宝律令】が制定されました。

律令の【律】は、刑法にあたり【令】は行政法や民法にあたります。令に関しては、天智天皇や持統天皇時代にも制定されていましたが、律と令が揃った本格的な基本法典は、大宝律令が初めてでした。

日本は大化の改新以降、律令国家の完成を目指してきましたが、大宝律令の成立によって律令国家プロジェクトが一つの形となりました。

大宝律令の成立により、色々な官僚機構が誕生しますがそれは現在の官僚機構も無縁ではありません。中央省庁としての中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・行部省・宮内省・兵部省の8つの省を儲けています。

大蔵省は、つい最近まで残っていましたし、宮内省は現在の宮内庁のルーツであることは言うまでもありませんね。

 

また、大宝律令には役所のルールとして【役所で扱う文章には元号を使う】【印鑑を押す】【定められた形式に従って柵瀬された文章以外は受理しない】などと定められています。こうしたルールは現在の役所にも残っており、そういう意味では現代の日本人も大宝律令の影響下にあるという事です。

 

大宝律令と役職や政治制度 律令国家となった飛鳥時代から奈良時代にかけての日本は、今でいう法律のようなルールが明確に定められるようになった時代です。 70...

 

最先端の都市をモデルに710年に作られた平城京

飛鳥時代の都では、排水での不備や臣下が宮殿を見下ろすといった立地の悪さの他、飛鳥地方周辺の旧豪族らの力をそぐなどの目的から都を奈良の平城京へ移してからの時代を指しています。

天智天皇の子・元明天皇が平城京を造営し、唐の都・長安をモデルとして作られました。

 

平城京を中心とした貴族文化の天平文化 ※画像はイメージで、鎌倉の大仏です。 中央集権体制が確立した奈良時代は、平城京を中心に富が集まり、貴族文化が花咲きました。この...

 

平城京の特徴は、天皇の住居である内裏を中心に朝堂院や各宮庁が並ぶ大内裏を北に配置し、そこに南に向かって朱雀大路が伸びて、それを軸に東と西に分かれ碁盤の目になっています。

建物は、白い塀、朱色の柱、緑色の屋根瓦と言った唐風のものが中心で、ペルシャから伝わった絨毯やガラス製品もあったそうです。

こうした家に住めたのは、有力な一部の特権階級だけで、身分によっては平城京から離れたかやぶき屋根の和風建築に住んでいたり、地方ではまた竪穴式住居に住んでいた人も大勢いたと言います。

 

日本の長安として栄えた平城京でしたが、都を流れる川を飲料水と排泄処理に使用していたので天然痘が流行しました。また、大量の瓦を焼いていたので大気が汚染され、環境問題も深刻だったようです。

 

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藤原氏の勢力拡大

奈良時代に入ると、朝廷は蘇我氏の代わりにたいと居してきた藤原氏によって翻弄されていくことになります。

藤原氏の祖は、天智天皇の腹心で活躍した中臣鎌足が【藤原】の姓を賜った事からその歴史が始まりました。その藤原氏が、かつての蘇我氏のように天皇家を操り政権を牛耳っていくことになります。

 

その権力は、藤原鎌足の子・不比等の子である藤原四兄弟の頃から始まりました。

720年に時期天皇候補であった長屋王が台頭すると藤原四兄弟と衝突します。

藤原四兄弟は、不比等の娘・光明子を皇后に立てて実権を握ろうとします。

それ以前は、皇后は後続に限られていたので、前例のない話でした。この婚姻話を阻止しようと動いたのが長屋王でしたが、藤原四兄弟はこれは謀反だと言いがかりを付けて王を自害に追い込みました。

 

これが729年の長屋王の変です。

長屋王の変の影響と目的 前回の記事藤原氏の台頭の続きの様なものになりますが、今回は長屋王の変について調べてみる事にします。 藤原不比等が台頭する少...

 

こうして、光明子が皇后に立てられ藤原四兄弟は実権を握るのですが、737年に平城京で天然痘が流行し4人ともあっけなく死んでしまいました。

その後の藤原氏はパッとしなく、藤原広嗣は740年に地方豪族と結託し反乱を起こしますが、敗北し斬首されています。757年に、南家・仲麻呂が反対派を一掃して実権を握りますが、764年に反対派に敗れ近江で没しています。

こうして奈良時代は、政権争いが相次ぎ、権力者が目まぐるしく変わった時代でもありました。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。