第一回:わかりやすい日本史の流れ【旧石器・縄文、弥生時代、古墳時代】
歴史の勉強は大まかな流れをつかむと良いと言うことで、日本史の流れをシリーズ化して記事にしていきたいと思います。この記事の他に、奈良・平安・鎌倉時代と順番に読んでいくことで日本史の大まかな流れをつかむことが出来ることでしょう。
第一回目は、旧石器時代から古墳時代までを駆け足で見て行きます。
重要語句や政策・出来事を詳しく知りたい方は、それぞれに記事を作成していますので、リンクに飛んでください。youtubeもやっていますので動画を記事の最後にでも載せておきます。
旧石器時代【日本人はどこから渡ってきたの?】
日本列島がシベリア並に寒い気候だった時代。マンモスなどの大型獣を追ってきた人々が定住し、打製石器や磨製石器を使った狩猟メインの生活になったとも言われていますが、ルートは一つではなく南方からやってきた人々もいたようです。
以前までは日本列島に人が住むようになったのは縄文時代と言われていましたが、関東ローム層の崖から2万4千年ほど前の打製石器を発見にした事から定説が覆っています。
その後、相次いで旧石器時代の遺跡が日本でも発見され、岩宿遺跡から石器が発見され、野尻湖周辺のでは私たち人類の直接の子孫【新人】が住んでいたとされています。
かれらは、元々地続きだった日本列島でしたが2万年前頃に大陸と分離して現在の形になったと言われてます。その前後に、新人が誕生しました。
大陸と分離した日本列島でしたが、当時氷河期で海が氷におおわれていて地続きであったことから、シベリアやアジア北部の人たちがナウマンゾウやマンモスを狩りながら、北海道へと南下していったと考えられています。
ただし日本人のルーツは、北海道ゆかりの人類だけではなく、朝鮮半島から九州に渡ったり、東南アジアから黒潮に乗って北上してきた人たちもいました。
これらの人類たちが日本列島のやってきて、交じり合い今の日本の先祖となったと今では考えられています。
縄文時代…土器の発明により食生活がグレードアップ!!
温暖化が始まり、日本列島を覆っていた氷河がとけ陸続きだった列島が島国に。温暖化に伴い大型獣が姿を消し、採集メインの食糧獲得へ変化。それとほぼ同時に竪穴式住居での定住生活と食糧の加工に土器使用が開始されることとなります。
温暖化によって動物が小型化したものの、栗やドングリなどの植物が豊富になったこともあって、縄文時代半ばに温暖な気候で27万人まで増えています。
縄文時代も、狩猟や採取で小規模の集団を作り定住することなく食料を求め移動して生活をしていたのが定説でしたが、1994年の三内丸遺跡の発掘により従来の縄文人のイメージが覆されることになります。
遺跡では、縄文前期から中期にかけて数百人規模の集落が形成され、土地は区画整理されており居住区、広場、墓、ゴミ捨て場も備えていました。ここからわかることは、縄文人は何世代にもわたりその場に定住してたことでした。
また、遺跡からは矢じりや刃物の原料となる北海道の黒曜石や岩手県の琥珀、新潟のヒスイも出土していることから、遠方同士の集落の交易があったとされる証拠となります。
縄文人の食生活が飛躍的豊かになったのは【土器】の発明にほかなりません。
土器の発明により、食料の煮炊きが可能になり、それまで食べられなかった固い食べ物が職せるようになり、食の質が格段にアップしました。食生活の安定で定住化が進みそこに技術や文化が生まれたのです。
弥生時代…コメ造りの始まり
稲作に関しても弥生時代から始まったと私たちの世代では習ったものです。
しかし、研究が進みこれらの定説も覆されており、縄文時代前期から地層から稲の化石が出土されていることがわかり、一部の地域で稲作※が行われていた事がわかっています。
※この頃は水稲栽培ではなく陸稲栽培だったようです。
コメを大量生産する水稲技術が渡ってきたのが、縄文時代後期から弥生時代にかけてのようで、朝鮮半島ルートで渡ってきたとされています。一説では、中国大陸での戦乱により玉突上に民族移動が起こったことで(寒冷化が一因とも)長江流域の民が日本列島に渡来人としてやってきたと言われています。
わずか100年ほどで西日本の主な平野に広がり、東日本へ定着しました。寒冷な東北や北海道地方にはあまり定着しなかったようです。現在コメどころと呼ばれている東北地方に稲作が定着するのは平安時代以降になります。
収穫したコメは高床式倉庫に貯蔵され、必要な分が脱穀されて玄米や白米に生成されました。そして、この時期に作られた弥生式土器で調理され食べられていました。
始めて格差社会ができたのも弥生時代
食料調達していた狩猟や採取の時代は、その日暮らしでたくわえがなく格差が生じる事もそれを奪い合う事もありませんでした
しかし、弥生時代になると水田稲作で穀物の余剰ができ、高床式倉庫で貯蔵もできるようになりました。
人々は、財産を蓄えることを覚えたのです。
財産が有れば争いの火種を産むのが人間の悲しいサガ…
つまり、稲作技術の向上は、人々に豊富な食料と引き換えに【戦争】をもたらしました。
始めは小さな集落(ムラ)だったものが統合や再編を経て大規模な政治的集団(クニ)へと変化、弥生時代晩期には日本国内が内戦状態になります。
こうして、内戦を制した力のあるクニが国家を形成していくことになります。
戦いが繰り返され、集団が大きくなるにつれてその集団のリーダーが誕生します。これには、豊富な食料をもたらしてくれる人がリーダーになりました。
コメ作りには、種まきから収穫まで組織的に行う必要があります。そのため、集落全体の農業計画を立てたり、人々をまとめる能力が求められるために、この時代では農業経営のエキスパートが支配者として君臨していました。
こうして内乱状態が続いた日本国内では、紀元前1世紀ころには100以上の小国が存在していたと言われています。
邪馬台国の卑弥呼
日本は2世紀後半になっても、争いが絶えず内乱状態が続いていたと伝えられています。
しかし、長く続いた内乱を一人の女性・卑弥呼の誕生で平和が訪れることになります。
中国の後漢書によると以下のように書かれていました。
【日本には邪馬台国をはじめとする数十の国があったが、卑弥呼が邪馬台国の女王になると30もの国が協力し邪馬台国連合が誕生した】
その邪馬台国の卑弥呼とはどんな人物だったのでしょうか??
15歳で女王になり、民衆の前にはほとんど顔を出さずに宮殿の奥で1000人の奴隷に囲まれて暮らしていたようです。生涯独身を貫き、その生涯を閉じた時には100人以上が後追いをしたと言います。
彼女は、神の意志を聞くことができる巫女だと言われ、神の声を聞いて予言をしたり神祈って雨を降らせたり、天災が起これば神の怒りを鎮める役割を担っていました。
しかし、卑弥呼はこれに終わらず、魏に外交使者を送り、従属する小国から税金を取り立て、朝鮮半島との交易にも力を入れていました。こうして、卑弥呼は政治・宗教だけではなく、経済を支配していたのです。
古墳時代…最初の統一政権である大和朝廷
卑弥呼没後から5世紀になるまでの日本の記録が著しく乏しいために、4世紀の日本は【空白の4世紀】と呼ばれています。
その空白を埋める数少ない史料【高句麗好太王碑】によると、391年に倭は朝鮮に進出して百済や新羅を従えたと記されており、4世紀末の日本はすでに、外国に攻め入るほどの力を持つ統一国家が形成されていたと推測されています。
この時期に突然、古墳が誕生している事もヤマト政権が形成されていたことがわかります。古墳が作られたのは、3世紀後半~7世紀にかけての事ですが、弥生時代とは明らかにスケールが違うことがわかります。
ヤマト政権がどのようにして生まれたかは謎だらけですが、大王を中心として豪族を従え、勢力を広げていったのは確かな事です。その勢力は、奈良盆地を中心に埼玉県まで達したと言われています。
また豪族が地方を治めるため氏姓制度や国造制(地方の支配権を保証するが、大和政権への奉仕を求めたもの)という制度が整えられます。
仏教が伝来し、有力な豪族でもあった 蘇我氏と物部氏の対立が本格化した結果、祭祀を司っていた物部氏が没落。全国的に仏教が広まり、次第に蘇我氏が政治の実権を持つように。そのことに不満を抱いていた崇峻天皇を蘇我氏が暗殺する事態にまで発展しました。