わかりやすい藤原広嗣の乱と名門藤原氏の没落
藤原氏は長屋王の変で大きな謀反に繋がりそうだった所をどうにか納めることができ、その後藤原氏の娘が光明皇后として初めて皇族以外からの皇后を立てることに成功しました。しかし、当時の流行り病・天然痘によって4兄弟は737年に次々と倒れます。当然この4兄弟の死は長屋王の祟りとして恐れられることになりました。
これがきっかけに藤原氏の勢力は一時衰退します。
代わりに出てきたのが皇族出身の橘諸兄(たちばなもろえ)です。彼もまた藤原氏の娘を妻としていたり母親が藤原不比等の妻・橘三千代だったりと藤原氏とは繋がりもありましたが、藤原不比等の死後は皇族の一員として動いている事も多く反藤原氏の面もありそうです。
権力争い関係なしに「間違いは間違い」と正していただけな印象も見方によってはあります。
この時、橘諸兄と共に政治のブレーンとしてついたのが唐へ留学していた吉備真備と玄昉。この二人の排除を求めて藤原不比等の3男で式家の祖である藤原宇合の子・藤原広嗣(ひろつぐ)が乱をおこします。反藤原体制に反対して起こった乱だと一般的には言われています。
藤原不比等の孫・藤原広嗣
藤原氏と言えば、中臣鎌足が藤原姓を賜った事に始まり、その息子・不比等の子である四兄弟が4つの藤原四家を作りました。
藤原南家=武智麻呂(むちまろ)
藤原北家=房前(ふささき)
藤原式家=宇合(うまかい)
藤原京家=麻呂(まろ)
家の名は概ね、屋敷のあった場所や役職がなどに由来しています。
藤原姓でもう一人有名な藤原道長は、北家の嫡流を汲み藤原北家は政治の世界で最も成功した家柄とされています。広嗣は藤原式家・宇合の子として生まれました。
そんな名門・藤原式家に生まれた広嗣でしたが、父・叔父を含む藤原四家の開祖たちが天然痘により急死。若い広嗣たちに四家は託されましたが、光明皇后の異父兄の橘諸兄が朝廷の中枢に君臨することになりました。
橘諸兄政権下の藤原広嗣
諸兄政権で重用されたのが吉備真備と玄昉。本来、政治の中枢に来るような家柄ではなかったのですが、両者とも遣唐使として中国大陸から多くの経典や書物、学識を持ち帰って聖武天皇の信任を得ることになりました。
真備と玄昉の躍進と反比例するように、名門・藤原氏は落ち目となっていました。
特に広嗣率いる式家は、739年に九州の大宰府に左遷されています。
中枢から遠ざけられた広嗣の不満は吉備真備と玄昉に向けられ、何かとつけて言いがかりをつけていくようになります。この時、真備が従五位上だったのに対し、広嗣は従五位下だったので、官位的に負けていました。
藤原広嗣の乱
740年に藤原広嗣は聖武天皇に上奏文を送りました。
「最近、災害が多いのはすべて橘諸兄が吉備真備と玄昉を重宝し始めてからだ。この2人を政界から追放すれば、世は平穏になるでしょう。」
前年に九州では、飢饉と疫病に見舞われ、このような天災は吉備真備と玄昉を重宝しているからだと、わがまま放題の内容でした。しかし、聖武天皇はこれを単なるわがままとは取らず、国家転覆を企んだ謀反とみなし藤原広嗣の討伐を命じるのでした。
広嗣自身は謀反のつもりはなかった思われますが、天皇が謀反と判断し740年、大野東人を大将軍、紀飯麻呂を副将軍に任じて17000人の兵で九州へ出兵しました。
こうして藤原広嗣の乱が勃発することになりました。
藤原広嗣は、九州で兵を集め豊前国で天皇軍を食い止めようとしまししたが、聖武天皇の迅速な対応で広嗣軍が豊前国に付く前に政府軍が制圧しました。こうして広嗣軍は、計画を変更し3方向からの各個撃破戦法へ変更しましたが、奮闘むなしく敗れてしまいます。
こうして藤原広嗣の幼稚な上奏文により勃発した藤原広嗣の乱は、聖武天皇の迅速な対応であっけなく鎮圧されました。しかし、この幼稚な理由を上奏する人物を同調してしまうほどに九州の人たちは律令国家に対して強い反発をしていることも読み取ることができます。
こうして、聖徳太子から続いた天皇統治の国家運営が完成されることになりました。
藤原広嗣の乱を別視点から考える
ですが実はこの乱、権力争いの結果という側面ではなく別の側面から見ることも可能です。
豈、武を偃(や)め、備(そなえ)を棄てて将士解体し、(中略)兵法に曰く、安しと雖(いえど)も戦を忘れば必ず危うし、彼の来たらざるを恃むことなかれ、我が備へて待つあるを恃むなり、と。
兵法にもあるように『安い(政治がしやすい?)からと言って戦を忘れたら危ない、敵が来ないことに希望を見出すのではなく自分で備えて有事に備えよ』という旨が書かれた『松浦廟宮先祖次第并本縁起』。これが広嗣の上奏文だと言われています。
この史料は同時代の史料として怪しいとされていますが、上奏文には「信頼すべき部分もある」とも言われているようです。古代史が専門の仁藤敦史氏の著作『女帝の世紀:皇位継承と政争』では広嗣が吉備真備と玄昉の失政を追求したことの真意がどのようなものだったのかを以下のように言っています。
広嗣は軍団兵士制を廃止するなど 、対外的防衛を怠った聖武を批判していることになる。当時、広嗣は太宰の少弐の地位にあったが、帥は欠員で、大弐は在京しており、現地での最高責任者でもあった。対外的防衛と外交の最前線である大宰府の責任者として、聖武の弱腰を批判したことは十分に想定されるのではなかろうか。
藤原広嗣が左遷された原因が親族批判のためとされていて、その批判というのが対外的防衛の強化にあったのではなかったのか?当時藤原氏唯一の議政官・豊成への非難があったのではなかったのか?そんなことが書かれています。
つまりは対外関係と軍備問題における諸兄政権との政策の相違が原因になったということです。長屋王の変の前にも藤原四氏と橘諸兄との政策の方向性が異なっていたことが指摘されています。結局、740年に起こった藤原広嗣の乱は九州での大規模な反乱に繋がりました。
排除しようとしたのが吉備真備と玄昉の二人だったのは聖武天皇や橘諸兄を表立って避難できないことは勿論、遣唐使帰りなことも無関係とは思えません。乙巳の変での蘇我氏の立場にも似ているような気がしますし、今現在の安保関連の動きや親○○派と議員さんが呼ばれることが多い今の状況にも非常によく似ていると思います。
まさに「歴史は繰り返す」です。