大江広元の子孫は意外な人物!?鎌倉幕府に捧げた知略に長けたその人生
大河ドラマ【鎌倉殿の13人】でも、源頼朝の腹心として活躍している大江広元は、鎌倉幕府の草創期に大きく貢献しました。
体育会系が多い坂東武者の中で、鎌倉幕府内で政務や財政を司る政所のトップ・政所別当として手腕を発揮した頭脳派でした。
そこで、今回は鎌倉殿の13人でも持ち前の政治手腕を発揮してくれるであろう、大江広元がどのような人生を送ったのか書いてみたいと思います。
大江広元の出生
大江広元の出生は吾妻鑑の没年を逆算すると1148年に生まれたと推測されています。
大江氏は平安時代から続く学問の名家で、儒学者と歌人の二刀流として有名な大江匡房や和泉式部などが同氏の出身と言われています。
京都の大江惟光の子として生まれた広元は、実母の実家で育てられ1216年に【大江姓】を名乗るまで、母方の【中原姓】を名乗っていました。
源頼朝に出会う前の広元は、下級貴族として朝廷における儀式の執行や上奏文の起草などの官職である【外記】として勤めていました。
このことから大江広元は源頼朝に出会う前は史料に残るほどの人物ではなく、有能ながらも無名の人物として、その半生を過ごしていました。
源頼朝の元へと鎌倉入りを果たす
1184年に源頼朝の招集に応じ大江広元は鎌倉へ向かいました。無名の広元を歴史の舞台に出したのが兄・中原親能です。
源雅頼の家人として仕えていた親能は伊豆で流浪していた頼朝と比較的近い間柄だったようで、頼朝出兵時に平時実の尋問にかかりそうだった所を出奔し、鎌倉入りしていました。
その後、源義経軍に追従し宇治川の戦いで木曽義仲を京都から追い出すと、都にいた広元を頼朝に推挙して鎌倉殿の参謀として活躍する事になります。
広元は、朝廷での実務経験で培った文筆の才を買われ公文所別当に就任します。
それから、公文所が政所に改名されてからも別当を務め、鎌倉幕府と朝廷の交渉役を担っていました。さらに、幕府に仕えていた御家人達の訴えを将軍・頼朝に取り次ぐ【申次】の職務も行うなどもして源頼朝の腹心としての地位を確立しました。
1183年に守護・地頭を設置するのですが、この政策を打ち出したのも大江広元だったと考えられています。
また、源頼朝と義経を仲たがいした時に「兄・頼朝に服従する気持ちは変わらない」という旨の嘆願書が義経から大江広元宛てに送られました。これは、広元が頼朝の一番の側近として信頼を得ていた証拠でもあります。
こうして、鎌倉幕府の参謀として信頼を得て大江広元は高く評価されていくようになったのです。
源頼朝の没後も幕政に加わり手腕を発揮した
1199年に源頼朝が亡くなると、まだ18歳と若い源頼家による専制政治を抑止するために13人御家人による合議制が敷かれるようになります。
その13人の御家人の中に兄と共にその一員となり、執権の北条時政・義時親子に次ぐ鎌倉幕府内のナンバー3の地位にあったと言います。
当時、北条時政と義時親子は幕府内での覇権を確固たるものにするために有力御家人の排除を実行していましたが、大江広元は政所別当として北条氏を陰ながら支えることを選び、その権力を維持しています。
承久の乱でも、嫡男が幕府軍に属してその勝利に大きく貢献し、広元は鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調し、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導きました。
このように大江広元は源頼朝の没後も、北条政子・北条義時のもとで幕政に参与していきました。
冷静さと情熱を持ち合わせた大江広元
戦で功を挙げるより、源頼朝に幕政の助言をしたり、頼朝亡き後は次なる権力者を見極め北条氏に与し、激動の時代を知力で渡り歩いた大江広元。鎌倉殿の13人でも頭脳で時代を駆け巡った官僚としてドラマで描写されています。
広元は自身の生涯を振り返った際に「私は成人してから一度も泣いたことがない」と明言しています。その一言から常に冷静沈着であったことがうかがえます。
一方で、情熱的な面もあり、鎌倉の市街地が戦場になった時に源実朝を誘導しながらも火の海になった鎌倉を唖然と御家人たちはしていました。しかし、広元は幕政において重要な書類が焼失してしまう事を危惧し、街の中へ戻ろうとしました。
周囲が引き止めで火の海に広元が飛び込むことはありませんでしたが、公家出身でありながら鎌倉幕府を確固たるものにした大江広元の責任感がうかがえる逸話です。
そんな冷静で情熱的な大江広元は、生涯を通じて鎌倉幕府に仕え、その発展の基礎を築き1225年6月に死去しました。
大江広元は毛利元就のご先祖様だった!?
大江広元の血筋から、安芸国・毛利元就が出ています。
広元の四男【大江季光】が広元の所領の中から【相模毛利荘】を相続し、その地名から名字を『毛利』に改めました。※本姓は大江のままだったようです。
毛利元就・隆元・吉川元春などの毛利氏の子孫たちに【元】の字が多く用いられているのは、大江広元にちなんでいると伝えられています。
また、毛利家の家紋も初代・毛利季光から受け継いだと考えられているほか、中国地方の『広島』の地名も広元の一字から付けられてたという説があります。
戦国時代に知略の毛利元就と呼ばれ、中国地方10か国も領する大名になれたのも知略で時代を駆け抜けた大江広元の遺伝子を受け継いだからかもしれませんね。