松平信康の育て方の失敗から学んだ徳川家康の子育て術
2023年7月13日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
徳川家康は、側室も多く子宝にも恵まれた人物でした。 長男・信康は、わがままに育ってしまい後に信康事件で切腹をします。 次 …戦国時代の武士の収入、同じ武士でも大名と武将・雑兵では大違いだった
2023年5月25日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
戦国時代の武士たちの働く場は主に戦場。 武士を大雑把に分ければ、雑兵と武将がいます。武士が支配する領地には、主君からのルールに …鉄の結束であった徳川家の三河武士は、本当に忠義者たちだったのか??
2023年5月22日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
徳川家康の天下統一の偉業を陰ながら支えたのが、三河武士と呼ばれる譜代の家臣達。 忠義に厚く主君のために命を張る、戦闘民族のよう …【チャットGPT】で信長・秀吉・家康の生涯を聞いてみたら驚きの答えが!!
2023年4月22日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
今や政治のニュースでも話題に出てくるのがChatGPTですが、公明党の山口那津男氏が自分の事を聞いたら、そのような人物は存在しないと …徳川家康の決死の逃走劇・伊賀越えでは家康はどうした??
2023年1月26日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
1582年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれた時、徳川家康は堺に滞在しており、尾張経由の街道を通ると明智光秀が包囲網を敷いて居て …戦国大名の誕生と大名家の国家戦略
2020年10月3日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
戦国大名は、合戦に勝利し領地を広げる事だけを考えていた訳でありません。 治める領地と領民を守り繁栄させるために、大名達は領国経営と外交政策にも力を入れていました。今回は、 …長宗我部元親の四国統一の道のり
2019年3月1日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
長宗我部元親は、土佐国の弱小領主から土佐一国を治めるまでになり、最終的には四国全土を一代でほぼ征服した戦国武将です。中国の毛利氏、九州の島津氏と並び、西日本の3大大名家の一つと …島津義久の九州統一戦と豊臣秀吉の九州討伐戦
2019年2月19日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
龍造寺氏を倒した島津氏は、北九州の勢力も傘下に加え、九州統一を着実に進めます。一方で、島津氏に初戦でやられ、大人しくしていた大友氏は龍造寺氏の崩壊に乗じて、立花道雪を派遣し、北 …戦国時代・九州地方の三国志
2019年2月17日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
1582年に中央では、本能寺の変で織田信長が明智光秀に打たれる事件がありました。 その頃、九州地方では島津、大友、龍造寺氏の大名家が九州の覇権を取ろうと切磋琢磨していまし …島津氏、大友氏、龍造寺氏による九州地方の三国県立時代
2019年2月13日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
戦国時代は、日本中が戦乱に明け暮れた時代でした。 これまで、関東や東北、近畿地方などの状況を紹介して来ましたが、九州や四国地方にも …東北の雄、伊達氏の登場と東北の勢力争い
2019年1月26日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
東北地方(奥州)は、平氏政権・室町幕府などの近畿地方ほ政権下では、政権中心から遠いため、独立的な勢力が生まれていました。しかし、鎌倉幕府・江戸幕府のような関東地方の政権では、東 …親子二代の下克上、斎藤道三の美濃統一への道
2019年1月23日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
織田信長が美濃攻略後に拠点とした岐阜城は、鎌倉時代の1201年に二階堂行政が築城したとされています。 室町時代に入ると、美濃国の守護・土岐氏の守護代である斎藤氏が、それま …分国法、今川仮名目録の名門・今川氏の台頭と衰退
2019年1月18日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
今川氏は、清和源氏の流れを汲み、南北朝の争いでは今川頼国が尊氏側の北朝に属し、各地で戦功を上げました。この功績で、丹後・但馬・因幡の守護 …西国最大勢力を誇った大内氏と大内義隆
2019年1月11日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
大内氏は日本の大名では珍しく、百済の王族の末裔と自称していました。 先祖代々、周防国府を世襲した官人から守護大名になり、戦国大名に成長し、周防・長門・石見・豊前・筑前守護 …細川政元のクーデター明応の政変
2018年12月23日 歴ブロ 楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
<画像wikipediaより引用> 応仁の乱の混乱の中、近江を支配していた六角氏の荘 …