戦国時代・九州地方の三国志
1582年に中央では、本能寺の変で織田信長が明智光秀に打たれる事件がありました。
その頃、九州地方では島津、大友、龍造寺氏の大名家が九州の覇権を取ろうと切磋琢磨していました。この3大名家で初めに衝突したのが、島津と大友氏でした。
島津義久VS大友宗麟・耳川の合戦
島津氏との戦いで敗れた日向国の伊東氏は大友氏に逃れていました。
伊東氏の逃亡で、日向国の国人衆たちは次々と島津に臣従しました。着々と日向国での勢力を伸ばした島津氏がついに、大友氏の本拠地のある豊後と日向地方の国境まで伸ばしてきました。
島津の勢いに危険を感じた大友宗麟は、日向国境付近へ進軍を開始します。
3万の軍勢を派遣し、島津へと下った国人衆たちの討伐し、日向国北部は大友の傘下に入り、日向と豊後の国境付近に安定が訪れました。
連勝続きで気をよくした宗麟は、日向国をさらに侵攻する計画を立てます。
ここでの大義名分は、匿っている日向の元大名・伊東義祐の領地を奪還し、伊藤家のお家再興を支援することでした。
これはあくまでも建前で、宗麟の本音は日向国にキリシタンの国を作ることを計画していました。宗麟はこの頃にはキリスト教の熱心な信者となってました。
元々北九州地方は、お寺や神社の勢力が強い地域だったため大友領でのキリスト教への改宗が中々上手くいかず手を焼いていまいした。そこで、日向国を奪いキリシタンと宣教師を集めた神の国構想を計画していました。
大友家臣団は、理由が理由だけに猛反対しましたが、大友宗麟は言うことを聞きません。こうして、大友宗麟自らが総大将として、4万の軍勢が日向へと南下をします。
この知らせを受けて島津氏も迎え撃ちます。
北九州最大の大友氏が南下をしてくるのですから、島津氏はこの戦いを家の存亡をかけた戦いと位置づけて各地からできる限り兵力を召集します。
日向に入った大友軍は、島津氏の小領主達を撃破しつつ南下し、島津にとって落とされると危険な重要拠点【高城】を包囲します。ここには、島津家久が守備をしていましたが、その兵わずか3000人。しかし、山田有信が奮戦し、大友軍も中々城を落とすことができません。
島津勢の奮闘で持久戦に入ったところで、島津軍の本体が到着し両軍にらみ合いとなります。しかし、総大将と武将達の間で、戦略の違いから大友軍の中で仲間割れが発生。
慎重派と総攻撃派との意見がぶつかり、攻撃派が軍師の意見を聞かずに島津軍へ突撃をしてしまいました。おまけに、大友宗麟は家臣たちの再三の出陣要請を拒否し、後方に作った聖堂でイエス様にお祈りを捧げる日々を送っており、戦場は部下にまるなげをしていました。
こうして大友軍の一斉攻撃が始まったのですが、序盤は覚悟を決めた大友軍がさすがに強く、島津軍の前線部隊は崩壊し、先陣の武将にも大きな被害が出ます。しかし、深入りし過ぎて島津軍の鉄砲の的となります。一斉反撃が始まると、高城の島津家久も城から打って出ます。
多方向から攻撃を受け始めた大友軍はまともに戦えるような状況ではなくなり、多くの武将達が討ち死に。大友軍は川を越えて後退しなければならなかった事と、耳川が増水していた事で、渡りきるのに手間取り島津軍に追いつかれ、大友軍が甚大なる被害を受けました。
この被害が尾を引いて大友氏そのものを衰退させる原因となりました。
この九州の勢力図を変えた一連の戦いを耳川の合戦とよばれています。
秋月氏など、大友氏に仕方なく臣従していた北九州の勢力は、耳川での大友家の大敗を聞いて再び離反します。大友氏と和睦していた龍造寺氏も、大友家の弱体化を見て大友領への進攻を再開します。島津軍もさらに日向の占領を進めた結果、九州の勢力図は大きく変化しました。
島津氏の大躍進
北九州最大の勢力であった大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗したことは、九州各地の勢力に大きな影響を与えました。特に大友氏の配下となり支援を受けていた相良氏と阿蘇氏は、必然と島津氏の矛先が向くことになります。
大友氏との合戦に勝利した島津氏は、すぐに相良氏へ侵攻を開始します。
戦況は、相良氏も奮闘はしましたが、国力の差は歴然で2年の戦いで相良氏は降伏をし、島津の勢力は肥後へと広げていきました。
次に倒すべき相手は、肥後中部の阿蘇氏でした。余り大きな大名ではありませんでしたが、名将・甲斐宗運と言う知勇兼備の武将がいました。
そこで島津氏は、相良氏に阿蘇氏討伐の命令を出しますが、相良義陽と甲斐宗運は盟友でしたが、背に腹は変えられないと渋々阿蘇氏の宗運と対峙することになります。
戦場で義陽は、自ら不利な場所に陣を張り宗運との対戦を待ちました。
甲斐宗運は、当初は罠と思ったようですが、相良義陽が自ら死を選ぼうとしていることを察しその運命を嘆きます。
結局は、宗運によって相良軍は討ち滅ぼされ、相良義陽は討ち死。その義理に準じた戦死と外交努力で相良氏は島津氏の配下として存続しますが、相良氏討った甲斐宗運は2年後に病死します。
阿蘇氏の宿将・甲斐宗運の死と当主と跡継ぎの死で、阿蘇氏は衰退し島津氏の侵攻で滅亡することになります。こうして、肥後国の半分を支配下に置いた島津氏は九州の南半分を支配する勢力に成長しました。
龍造寺隆信の天国と地獄
北九州では大友氏が弱体化すると龍造寺氏が勢力拡大のため、大友領へ開始しました。筑前・筑後に侵攻し、大友勢力を撃破し臣従させていきます。さらに、肥前の西部(長崎県)を支配すると、肥後の北部も勢力化に置き九州北部に大きな勢力を築きました。
こうして、龍造寺隆信 は五州二島の太守と呼ばれ、龍造寺氏は全盛期を迎えることになりました。しかし、肥後の北部に龍造寺氏、南部に島津氏が勢力を伸ばし隣接したことにより、両家の緊張が高まっていきます。
龍造寺隆信はこれまでに無い躍進のためか、芸者遊びの毎日を送り始めます。
しかもこの頃の隆信は非道さと残忍さが目立ち始め、敵対する者は一族や家臣もろとも皆殺しにし、自分に反対する家中の者も容赦なく粛清し始めていました。人質に送られてきた幼い子供を処刑したこともあったようです。
龍造寺隆信は、元から粗暴なところがあったようですが、名将・鍋島直茂が冷静で慈悲深く、隆信の短所を補う形で上手く龍造寺家が運営されていました。しかし、全盛期を迎えた頃には、鍋島直茂の忠告も聞かず、直茂を転封させ遠ざけていました。
一方で、龍造寺氏に逆らうとどうなるかわからないと言う恐怖を与えることで、敵の降伏を促したり、反乱を抑える一定の効果はあったようですが。もはや残忍さの度が過ぎていました。
※明治維新のお話ですが、藩祖【鍋島直茂】の佐賀藩のお話です。
人心はドンドンと離れていき、ついに筑後で蒲池鎮蓮が反乱を起こしました。
蒲池氏は、隆信が龍造寺家を継いだばかりの頃、配下に反乱を起こされて行き場を失った時に、彼をかくまって復帰を支援してくれた恩義あるでした。しかし、隆信は反乱を起こした蒲池氏を許さず、和睦をしたいとおびき出して殺害すると、蒲池氏の一族や同郷者達を殺し合いをさせる行為をしました。
この事件によって、今度は臣従していた有馬氏が反旗を翻します。
龍造寺隆信は有馬氏討伐に、息子・政家に命令しますが、政家の妻は有馬氏の姫でした。そのため、政家は中々煮え切らない態度をとっていましたが、その様子に起こった父・隆信が自ら軍を率いて有馬氏討伐に出陣しました。
有馬氏当主・晴信は、3000の兵で迎え撃ちますが、龍造寺軍は3万~5万。そこで、晴信は、島津氏へ援軍を求めました。援軍要請を受けた島津氏でしたが、九州各地で大友氏や龍造寺氏と対峙していることや島原半島の地理に詳しくないと言うことで、援軍は送らない方が良いと言う意見が多かったそうです。
それでも、島津義久は『当家を頼って一命を預けて来た者を見殺しにするのは仁義に反する。戦は兵の数で決まるものではない』と言い、援軍を決定します。
こうして、戦上手の家久に3000人の兵を与え、船に乗り島原半島へ有馬氏を救援するために向かいました。援軍の情報を聞いた龍造寺隆信は、警戒をしましたが島津軍の兵が多くないと分かると、そのまま進軍を開始しました。
上陸した島津軍は、有馬軍と合流し兵士たちに決死の覚悟をさせて、文字通りの背水の陣をしきます。城で守っても包囲されるだけで、これ以上の援軍も期待できないため、こちらから打って出て有利な地形に敵を誘い込み、敵本陣を狙うという作戦で龍造寺氏と戦うことにしました。
先鋒部隊には、幼い我が子をはりつけにして処刑され、龍造寺家から離反した赤星統家の部隊が、つとめることになりました。島津家久は鉄砲隊を率い、龍造寺軍の進軍先で敵を待ち伏せする釣り野伏の準備にかかります。
龍造寺軍は最初、部隊をいくつかに分けて慎重に進んでいましたが、敵が小勢なのを知ると、一気に敵の城に攻め込もうと、自ら本隊を率いて進撃します。
そのまま、両軍の先鋒部隊と戦闘に入りますが、島津軍の部隊は早々に敗走し、龍造寺軍は追撃に入ります。
しかしこれが、島津軍の得意戦術 【釣り野伏】で、龍造寺軍の主力は、そのまま田んぼの狭いあぜ道である沖田畷に誘い込まれてしまいます。
島津軍を追撃中の龍造寺軍の先頭部隊は沖田畷に入り込み、そのまま島津軍を追っていましたが、ここで伏兵で島津家久の鉄砲隊が一斉掃射を開始します。
突然の伏兵で龍造寺軍は後退しようとしましたが、後方から味方の兵がすごい勢いで次々と押し寄せてきたので下がることができません。せまい、道を大軍で通ろうとすると当然渋滞が起き、隊列も細長くなります。
渋滞で進軍が思うようにいかない龍造寺隆信は、イライラし始め伝令で先鋒隊に早く進むよう促します。残忍で有名だった隆信が怒っているので、それを聞いた将兵達は、あわてて前進を開始。後ろからドンドン押し寄せて進軍したため、最前線の兵士達が次々と押し出され絶好の鉄砲の的となり悲惨な状態となっていました。
そんな状況で、有馬軍が龍造寺軍に砲撃を開始。龍造寺軍は大混乱し、続いて島津軍が本陣めがけてなだれ込みました。混乱しえいる上に、細い隊列で連携も取れていない龍造寺軍は、次々と分断されて壊滅状態になります。
この戦いで、龍造寺四天王と言われた百武賢兼や円城寺信胤などの主力武将も次々と討ち死にします。大混乱の中、龍造寺隆信も島津兵により討ち取られてしまいました。戦国大名の中で戦闘中に敵兵に首を討ち取られたのは、今川義元と龍造寺隆信くらいだと言われています。
龍造寺四天王の一人・江里口信常は、隆信戦死の報を聞き一矢報いよう島津家久に切りかかりましたが、傷を負わせただけで近衛兵に討ち取られます。
一方で、龍造寺家軍師・鍋島直茂は、本隊と別の部隊で行動していたため、何とか戦場から脱出し生還を果たしたようです。
当主含め、主力の武将の大半が戦死した龍造寺軍の損害は、あまりにも大きく、すでに人心も失っていたことも相まって、各地の勢力は龍造寺氏から離反していきます。
大友氏の支配下を取り込んで北九州最大の大名となっていた龍造寺氏は、この一戦であっという間に衰退していきました。
一方で、大友・龍造寺の両者を倒した島津氏は、名実共に九州一の勢力となり仕上げの九州地方統一に向けて動き出します。しかし、中央では本能寺の変後に織田信長の後継者となった豊臣秀吉が次なる天下人として台頭し始め、次なる目標を九州に定めていました。
豊臣秀長が総大将となって九州征伐に向かうことになるのですが、島津氏と豊臣氏の戦いは、別の機会に書いていきたいと思います。