カペー朝の誕生~百年戦争前夜までを分かりやすく解説!<中世フランス各国史>
フランスを時代区分で分類するとメロヴィング朝~百年戦争までが中世と言われています。封建社会が成立していた時代ですね。百年戦争以降は封建社会の衰退が著しく、次第に強い王権による統一国家が作られていきます。
<フランス中世の王朝の変遷>
サリー人の長・クローヴィスによりフランク族が統一される
メロヴィング朝で力を持つようになっていた宮宰のピピン3世により開かれる
カロリング朝時代に国王の地位につくこともあったロベール家出身のユーグ・カペーにより誕生
カペー朝の後にヴァロワ朝へと移っていくのですが、この継承問題とイングランドとの領地問題が重なって起こったのが百年戦争です。
今回ははじめにユーグ・カペー以外でカペー朝で特に抑えておいた方が良い3人
- フィリップ2世
- ルイ9世
- フィリップ4世
に焦点を当てた上で百年戦争前夜までのカペー朝で起こった出来事をまとめていきます。
ユーグ・カペーについては下の記事で触れているので良かったらご覧ください。
フィリップ2世【尊厳王】(在位1180~1223年)
フィリップ2世は、父ルイ7世と母アデルの間に生まれ、フランス国王の支配領地を大幅に拡大させた【尊厳王】のあだ名を持つ清濁併せ持った国王です。それまで一諸侯と大した変わらない位の権力しか持ち得なかったカペー朝の王権を大きく発展させたことで知られています。
詳しくは別記事『フィリップ2世の治世』に書くので割愛しますが、イングランドのヘンリー2世→リチャード1世→ジョンの3代の国王達と長期戦でやり合って(直接対決より内戦を煽る方が多かった)、父の代に奪われたフランス領地を奪い返しました。
※イングランドと領地を争っていたということで、詳しくは中世イギリス史『中世、英仏関係が悪化した背景とは?』『中世イギリス史<プランタジネット朝>』でもまとめています。
さらに官僚制も整備して王領地の管理にも勤めました。
イングランドに奪われていたフランス領地の大半を奪還し、王権を強くさせた
- フィリップ2世が活躍した背景
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カペー朝第4代国王フィリップ1世の時代。1066年にフランス王国と臣従を結んでノルマンディー公となったロロの子孫であるウィリアム1世がグレートブリテン島へ侵入しノルマン朝を開くという出来事がおこりました。
これを機にフランス王国に臣従した諸侯でありながら、イングランドの国王という捩じれ構造が長い間続いていきます。これがそもそもの対立の根源となります。
さらに時がすすみ、イギリスで無政府時代と呼ばれる時代になると、第6代フランス国王ルイ7世(フィリップ2世の父)は妹をイングランド初の女性君主となったマティルダと対立していたスティーブンの息子と結婚させていました。
スティーブンは「今まで女王なんていなかっただろ」とマルティダが女王になることに反対・対立していた立場でした。ただ、この時点ではアンジュー家にも飴を与えており、どちらかに肩入れまでしていなかったようです。
が、その後、敵対していた側のアンジュー家の息子アンリ(以降、ヘンリー2世と呼ぶ ← 英語読み)が広大な領地を持つと状況は一気に変わっていきます。
アキテーヌ公の領地を受け継いだ娘アリエノールと結婚して広大な領地を手に入れていたはずのフランス国王ルイ7世が彼女と離婚し、その元妻がヘンリー2世と再婚したために陥った窮地でした。
離婚直前のアリエノールには不倫の噂があった上に男児がいなかった。ルイ7世は仮にこれから男児が産まれても出生に疑いがついて回る以上、婚姻関係を続けるのは厳しいと判断して離婚したのが裏目に出てしまったのです。
ルイ7世はスティーブン側に肩入れしますが、ウスタシュの死など不幸もあってスティーブン陣営は瓦解。
結局、ヘンリー2世はイングランド王兼ノルマンディー公(他にもフランス北西部のアンジュー伯)となってアンジュー帝国と呼ばれる程の大きな領土を手に入れプランタジネット朝を誕生させています。
フランスの西半分(←ピンクの部分)は臣下が領有という非常に厄介な状況をルイ7世は作り出してしまいます。この困難な状況の中で生まれたのがフィリップ2世だったのです。
ルイ9世【聖王】(在位1226~1270年)
フィリップ2世の孫にあたる国王。祖父と父の代で強い王権化の元で抑え続けられた諸侯達が12歳という年齢でルイ9世が即位したため反乱や陰謀を駆使してピンチとなりましたが、母ブランシュが摂政となり抑え込んでいきました。
彼の治世下で抑えておきたいポイントはこれ。
- アルビジョア十字軍の終結(1209~1229年)→ 南仏への王権の伸長
- イングランドとの国境の設定
- 第6,7回十字軍の遠征
基本的にルイ9世の治世下では内政を重視し長期間平和を維持し続け、西ヨーロッパ国際政治の中心的地位にまで押し上げています。また、後々聖王と呼ばれる程の敬虔なキリスト教徒で臣下や身内から反対されながらも2回の十字軍遠征を行った国王としても有名です。
アルビジョア十字軍とは?
ルイ9世の治世は中世後期にあたり、ヨーロッパではローマ教会の堕落に対する批判が強まるようになっていました。各国と叙任権闘争を繰り返していたわけで当然と言えば当然の話かもしれません。
- ワルド派
- カタリ派
- アルビジョワ派
こういったキリスト教の異端派が生まれていました。この異端派のうちアルビジョワ派が南フランスのトゥールーズ・アルビ地方で地方豪族に支持されるようになっています。
そこで祖父フィリップ2世の辺りの時期の教皇・インノケンティウス3世が異端撲滅を目指してアルビジョワ十字軍を提唱しました。
南東に位置するトゥールーズ・アルビ地方まで王権を拡張したかったフランス王家は、それに同調。祖父・父の代で南フランスを攻め込み、ルイ9世の治世下(ただし、この時は母の影響が大きかった)の1229年に王弟とトゥールーズ伯の娘との婚姻関係を結んで終結させ、南フランスにも王権を広げています。
イングランドとの国境はどうやって設定したの?
ルイ9世の時代には即位したのが子供の頃だけあって何度も諸侯の反乱を起こされおり、その反乱に乗じてイングランド王ヘンリー3世が父王ジョンの代で獲られた領地を取り戻そうと戦いを何度も仕掛けられていました。
この戦いでは最終的にルイ9世が勝利しています。ただし、あまり戦いを長引かせたくないルイ9世はわりと寛大な処置でゆるしています。
「ノルマンディーやアンジューなど亡き父王ジョンが失った領地を正式に放棄してね。フランス領地はガスコーニュだけ」という条件で1259年パリ条約を結んで手打ちにしました。
※ちなみにアルビジョワ十字軍を終わらせた時の条約もパリ条約(1229年)です。
2回の十字軍遠征
後にルイ9世が『聖王』と呼ばれるほど敬虔なキリスト教徒であったため、聖地イェルサレム奪還を目指して起こしたのがこの2度の十字軍遠征です。
この頃のイングランドや神聖ローマ帝国は内部事情やローマ教皇との対立から十字軍遠征を行う意思はなく、さらに社会が豊かになりつつある状況だったために世論もそこまでして十字軍遠征を強行する必要はないと考えていました。
ルイ9世の周囲も十字軍遠征はするべきではないと止めていたのですが、年齢を重ねるにつれ頑固になっていったとの話もあり聞き入れることはなく、2度目の遠征ではルイ9世自身の命まで落とすこととなっています。
彼の2回の遠征を機に十字軍は完全に下火となりました。
フィリップ4世【端麗王】(在位1285~1314年)
非常に整った顔立ちから「端麗王」のあだ名がつけられたフィリップ4世の治世下で押さえておく部分は、やはりローマ教会の関係の変化。中世ヨーロッパの一大政治勢力であった教会権力が衰退している中で王権の強化を図った国王です。
聖職者が担っていた立ち位置に世俗の法曹家を据えて官僚制度の強化に務めました。
フィリップ4世が国王となった頃のヨーロッパは
- 十字軍遠征の影響で商業が発展
- 騎士・諸侯の力が少なくなり
- 十字軍言い出しっぺの教会の権威が衰退
しつつあり、
そんな中で発展してきた商業地フランドル地方を巡ってフランスはイングランド王エドワード1世と対立します。
1294~1299年まで長期間戦争を行なったこともあって、その戦費を
- 聖職者の課税
- 貨幣改鋳
- テンプル騎士団の解散 (←戦費調達のため騎士団から借金、借金帳消しと資産没収を狙った)
などで補おうとしています。
その結果教会側は大反発。アナーニ事件が引き起こされることになります。
アナーニ事件とは?
教会・聖職者の課税に大反対したのがローマ教皇のボニファティウス8世です。
そこでフィリップ4世は、いくら教皇の権威が衰退しはじめていたとは言え直接的に対決するのは得策じゃないため
- 聖職者
- 貴族
- 第三身分(平民)
こういった身分の異なる各代表達に徴税を承認させるため三部会(←身分制議会の代表)を開いています。で、実際にフィリップ4世はあらかじめ国内の支持を取り付けました。
それでも教皇は納得できないわけで...フィリップ4世を破門にしたり抵抗しますが、それまでと違って破門がそこまで大きな痛手とならなかった。
ボニファティウス8世自身が即位に際して疑惑があった他、華美や賭博を好んだ・傲慢な性格だったなど色々言われていた人物で敵がたくさんいたという背景もあったようです。
こうして互いの衝突が激しくなっていく中、とうとうフランス国王側がローマ近郊のアナーニに滞在していたボニファティウス8世を襲撃 → 軟禁すると約一か月後に憤死(実際には持病によって死亡したとされる)しました。
これがアナーニ事件です。
教会大分裂とは??
アナーニ事件を機にローマ教会の権威が衰退していることが明らかとなり、ローマ教皇は一時期空位になっています。この空位後についたのがフランス人の教皇。このフランス人教皇がついた時にフィリップ4世は教皇庁をフランスの一都市アビニョンに移しました。
教皇を無理やり支配下に置いたため、ユダヤ人が新バビロニアに捕らえられたバビロン捕囚になぞらえて『教皇のバビロン捕囚』なんて呼ばれています。
ところが、教会内部ではイタリア人教皇を推す声も多くローマに残った者達もいたため、ローマとアビニョンに2人の教皇と教皇を補佐する枢機卿団が並立する『教会大分裂(大シスマ)』を引き起こしていきます。
なお、この教会大分裂はフィリップ4世の死後から50年以上先の話ですが、アナーニ事件と教皇庁がアビニョンへ移されたことが大きな転機となっていました。
こうしてフランスでは近世絶対王政に向かう転換期を迎えたのです。
- 教皇をおさえるために三部会を開くように
- ローマ教皇ボニファティウス8世との争い → アナーニ事件
- 教皇庁を南仏のアビニョンに移す → 教会大分裂 → 教皇・教会の権威が失墜
百年戦争前のカペー朝の状況とは?
最後に紹介したフィリップ4世。彼の息子の代になると2~6年の短命政権が続きます。
成人男子が3人もいて短命政権になった理由は分かりませんが、フィリップ4世の代で「悪魔崇拝をしている」と濡れ衣を着せられて逮捕・拷問の末に処刑され解散させられたテンプル騎士団の呪いなんてことが、まことしやかに囁かれていたようです。
加えて、息子のルイ10世・フィリップ5世・シャルル4世の妻たちの不倫スキャンダル(ネールの塔事件)で女性の王位継承が完全否定されることとなります。
元々フランク王国時代の法典で『女性の土地相続権はあるけど結婚後に相続権は配偶者や息子に行くよ』っていうようなことが書かれたサリカ法というのがあったんですが、王位継承権については曖昧な部分を有していました。それがスキャンダルを通して完全に断たれたわけです。
こうして『直系に近いけど女系』のイングランドと『傍系で少し離れちゃうけど男系』のフランスといった構図ができあがりました。
他に領地問題も絡んできますが、こちらは百年戦争を扱う時にまとめようと思います。