鎌倉殿の13人

吾妻鑑にも書いてない源頼朝の死因について考える

歴ブロ

1199年に源頼朝は53歳でその生涯を閉じました。

その死因について真っ先に知りたいのが歴史好きの悲しいサガなのですが、吾妻鑑には不思議なことに頼朝の死の3年前からの記録がすっぽりとなくなっています。これは作為的としか考えられられません。

あれほどに歴史に名を残した偉人であるにもかかわらず、その記録がないことで様々な説が飛び交っています。

そこで今回は、源頼朝の死について考えてみたいと思います。

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源頼朝の突然の死

2022年7月6日現在、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が死去し二代目鎌倉殿・頼家の体制を作ろうと北条義時が奔走する様子と北条氏と比企氏の間に不穏な空気が流れ始めた様子が描かれています。

上述の通り鎌倉幕府公式記録『吾妻鑑』には源頼朝の晩年期である1196年~1199年までの記録がなく、詳しい死因が書かれていません。

その死について初めて書かれていたのが頼朝の死から13年たった頃でした。

内容も『この相模川の橋が壊れて地元民が困っている。ここは昔、頼朝公が落馬し程なく亡くなってなっているので縁起が悪い』と言った程度です。

頼朝死亡の詳細が書かれていないのは『吾妻鑑』を愛読していた徳川家康が尊敬する源頼朝の最後がとても不名誉な死であったことから、該当箇所を破り捨ててしまったのではないかと言われています。

しかし、いくら天下を収めた家康でも全国にある『吾妻鑑』の現本と写しを集めていたとは考えにくいので、この説はあくまでも伝説の域を超えていません。

藤原定家の日記『明月記』には、早朝に頼朝死去の知らせを得たとあり、慈円の『愚管抄』では15日~16日ころから噂になってたとされています。

幕府から京都への正式連絡は17日ころと思われますが、それ以前から頼朝の重病説が京都にも流れていたのでしょう。

ほかの公家の日記には、一様に11日に危篤に陥り出家し13日に死去したとも記されています。その死因が【飲水重病】とされ、糖尿病を患っていたようで数ある死因説の一つとされています。

吾妻鑑では落馬後にほどなく死去すると書かれていますが、武家の棟梁だけに乗馬には慣れていたはずで、心臓発作などの突発的な疾病で落馬した可能性が高いのではないかと思われます。

吾妻鑑には書かれていませんが、ほかの史料に死去までの三年の出来事があります。

元 号西 暦出来事主な出典先
建久7年1196年7月建久七年の政変 
建久8年1197年7月14日大姫死去 
建久9年1198年12月27日相模川橋供養 
建久10年1199年1月11日出家猪隈関白記

公卿補任

  1月13日頼朝死去猪隈関白記

百錬抄

として上記のことが分かっています。

ドラマでもあった頼朝のマゲを切ったシーンは、1月11日だったのかもしれませんね。

  • 猪隈関白記…関白・近衛家実の1197~1211年までの日記
  • 公卿補任 …歴代朝廷の高官の名を書いた職員記録
  • 百錬抄  …冷泉天皇即位967年から後深草天皇退位1259年までの政治や社会の動きが書かれた史料

源頼朝の死去は朝廷にとっても一大事と藤原定家は記していることから、幕府内だけではなく日本全国に衝撃が走ったのでしょう。カリスマが亡くなった衝撃が大きいからこそ、権力の継承は速やかに行われました。

頼朝死去の7日後の20日、朝廷は頼家を左中将に任じ、26日には頼朝の後継者として【諸国守護】を奉行するように宣下します。とても用意周到な措置で、これは愚管抄にも書かれており、1月15日~16日頃には頼朝の危篤連絡とその後の対応要請が幕府側から通知されていたようです。

※当時は連絡手段は手紙なのでタイムラグがあります。

鎌倉殿の13人でもあったように、源頼朝が運ばれてきてから亡くなるまでの間に幕府内では事後の対処が着々と進められていた事になります。

源頼朝死後の鎌倉幕府

諸国守護奉行宣下が2月6日に鎌倉へ届くと、その日に幕府が政所の吉書始の儀が、北条時政・大江広元・三浦義澄・比企能員・梶原景時等の主要御家人列席の上で執り行われました。

吉書始の義とは業務開始の儀式とされ、現代風に言えば【新しい体制の発足式】と言ったところでしょうか?

本来、政所は公卿で三位以上の身分でなければ設置できないのですが、この時頼家は五位の身分で該当していませんでしたが、急を要するということで特例として認められました。

頼朝死去から20日も満たない時期に二代目鎌倉殿の体制を始動させること自体が異常で、まさに用意周到に準備されていたと言いたい所ですが、吾妻鑑には【天皇の命令なので仕方がない…】と書かれています。

ちなみに吾妻鑑は、北条得宗家側の記述であることを付け加えておきましょう。

源頼朝の死因

どの史料でも「相模川橋供養の帰路に病を患った」という所は一致しているので、この時期頼朝は何らかの病を患ってたいのは間違いないのでしょう。

しかし、最終的な死因に関しては様々な説かささやかれています。

病死説

藤原定家・慈円などの記録には、【急病】【病気】と記されています。頼朝は塩辛いものを好んだ上に、棟梁としてとてつもないストレスを考えると、糖尿病や脳梗塞になったのではないかと考えられています。

落馬説

吾妻鑑の記述通り、相模川の橋の開通イベント帰りに落馬して死去したとされています。

『頼朝が落馬してから間もなく亡くなった』と記載されています。落馬から死亡まで17日あったようですが、落馬が直接的な原因による頭部外傷性の脳内出血も十分考えられる死因です。

もちろん、落馬前に病を発症したことで結果的に落馬するケースもあり得る話です。

水神に取りつかれた

橋供養の帰りに、水を司る水神に取りつかれそれがもとで死んだといわれています。

相模川河口付近は馬入川と呼ばれており、頼朝の乗っていた馬が暴れだし川に入り落馬して溺死したとされています。水飲の病は川でおぼれ水を飲みすぎたことに由来すると言われますが、この説も根拠は薄いです。

怨霊の怨念によって呪い殺された

これまでの行いから、源義経、義仲、安徳天皇、平家の怨霊が現れ病気となって死んだという説。この時代は、怨霊や祟りが信じられていたのですが、現代医学のような疾病名が特定されないと正しい学説とは言えません。

暗殺説

源頼家と実朝が何者かに暗殺されていることから、その事実を隠すべく吾妻鑑への記載を避けたとする説。

吾妻鑑の編纂が北条得宗家よりであるため北条氏の何らかの思惑で暗殺されたのではないかとされています。ちなみに伊豆では水銀が産出されそうです。

誤認殺傷説

愛人のところへ夜這いに行く途中、不審者と間違われて切り殺されたとする説。

全く根拠はなく切り殺した人間や夜這いに行く人の特定もされておらず学術的には成立していません。しかし個人的には、【家康がこの記述を破り捨てた】とつながっているのではないかと勘繰るのは私だけでしょうか??

その後は13人の合議制へ移行

二代目鎌倉殿になった頼家でしたが独裁色が強かったことで、1199年4月12日に鎌倉殿の裁判権を止めて、有力御家人たちによる13人の合議制が行われることになります。
吾妻鑑の記載には、頼家が無能だったのでその権力を制限して合議制に転じたと記しています。

そのメンバーには、北条時政・義時親子を始め、政所始に参列したメンバーが名を連ねています。しかし、その大半が、幕府創世記の活躍した者たちで、宿老といえば聞こえが良いですが、相当の年齢を重ねている者ばかりでした。平均年齢が60を超えており、唯一北条義時が30代です。

実際に、合議制発足後翌年には三浦義澄が安達盛長が亡くなっています。

北条氏から父・息子が名を連ねていることを考えると、時政がまず実権を握りそのあと義時に譲るというシナリオを考えていたのかもしれません。

その後、御家人の血で血を洗う抗争の時代に入ります。北条氏による比企氏と頼家とその嫡男・一幡の排除し、源実朝が三代目・鎌倉殿に就任しました。

実際には頼家暗殺は北条氏が手を下していないと言いますが、吾妻鑑の編纂や数々の状況証拠を考えるとまずやっていると考えてもよさそうです。三代鎌倉殿に実朝を立てた北条氏は、時政が初代執権となり鎌倉幕府の実権を握ることになるのです。

この御家人同士の血で血を洗う抗争を鎌倉殿の13人ではどのように描かれるか、これから楽しみでもあります。

次回はネタバレを含むかもしれませんが、御家人同士の権力争いについて書いてみたいと思います。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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