開国から幕末までの流れ 1 ペリー来航~薩長同盟
厳密に幕末の期間に関する定義はありませんが、一般的に1853年の黒船来航~江戸城無血開城後あたりが一般的でしょうか。見方によっては幕末の期間の定義は様々ですが、ここでは幕藩体制が完全に終了した廃藩置県を断行した1871年までを幕末の定義とします。
元号から言えば、少し明治に入りますが、歴史の流れを開国~廃藩置県までの幕末から明治初期までの一連の流れを書いていきたいと思います。
黒船来航~薩長同盟までの年表
まずは、年表を元に流れを確認しましょう。
- 1853年6月 ペリーが浦賀に来航
- 1854年3月 日米和親条約締結
- 1856年8月 初代アメリカ総領事にハリスが下田に着任
- 1858年4月 井伊直弼大老に就任
- 6月 日米友好通商条約締結
- 9月 井伊直弼による安政の大獄開始
- 1860年3月 桜田門外の変
- 1861年10月 皇女和宮降嫁
- 1862年1月 坂下門外の変
- 4月 寺田屋事件
- 8月 生麦事件
- 1864年7月 禁門の変
- 1866年1月 薩長同盟
この記事ではここまでの流れを書いていきたいと思います。
わずか十数年でこのような内容の濃い出来事が(細かく書くともっと)あったのがお分かりいただけます。
ペリーの黒船来航
1853年に黒船に乗ってペリーが浦賀に来航し、江戸幕府に対して開国を迫ります。
この辺の詳しい事は、黒船来航の記事の書いてありますので読んでみてください。
幕府は開国の返事を翌年に先延ばししてとりあえずその場を凌いぎました。
そして、約束通り1854年にペリーは再びやってきます。この時の交渉により1854年3月31日、日米和親条約が結ばれることになり、幕府の鎖国体制は終焉します。
日米和親条約では、
- 下田と函館の港を解放
- 領事の在中を許可
- アメリカに対して最恵国待遇
- 船の燃料や食料の補給
について盛り込まれました。
その後、イギリスやロシア、オランダ等とも同様の条約を結ぶことになります。
この日米和親条約に基づき1856年に初代駐日総領事のハリスが下田へとやってきます。そのハリスは、自由貿易とさらなる開港を目的とした通商条約の締結に着手します。幕府側は、条約締結やむなしと考えていましたが、朝廷が側は反対していました。しかし、大老に就任した井伊直弼が1858年に朝廷の許可得ずに日米友好通商条約に調印をします。
- アメリカに領事裁判権を認める
- 日本に関税自主権がない
- 神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港
と言うような不平等な内容でした。
その後幕府は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ぶことになり、これを【安政の5カ国条約】と呼ばれます。
この不平等条約は、のちに明治政府が改定のため奔走することになります。
安政の大獄と桜田門外の変
先ほども書きましたが、大老に就任していた彦根藩主・井伊直弼は、勅許を得ないまま日米友好通商条約に調印をします。
また将軍家の方では、13代家定に子がなく将軍継嗣問題がおこっていました。この将軍の後継者に一橋家の慶喜を推す派閥と、紀伊藩の徳川慶福を推す派閥が対立します。
慶福派の井伊直弼は一橋派を押し切って慶福を将軍の跡継ぎと決定します。
その強引なやり方に一橋派の大名や尊王攘夷を唱える志士たちから強い非難の声が上がりました。直弼はそれらの公家や大名を弾圧して、その多くを処罰しました。
これらの一連の弾圧を安政の大獄と言います。
特に厳しい弾圧を受けていた水戸藩を脱藩した志士たちは、井伊直弼の暗殺を計画して、1860年に江戸城登城途中の直弼を桜田門外にて襲撃して暗殺を行いました。
これが桜田門外の変です。
幕府の最高実力者を暗殺するというこの事件は、幕府の権威を大きく失墜させるには十分な出来事でした。
公武合体策と尊王攘夷運動
桜田門外の変以降幕府はその権威を回復せんと、公武合体を推進していきます。
幕府は、皇女和宮の徳川家茂への婚姻を朝廷へ願い出ましたが、天皇は他の皇族との婚約を理由に断っていました。再三の願いで岩倉具視を通じて、幕府が「七八カ年乃至十カ年」という期限付きではあったが、天皇は婚姻を認めることになり、和宮は江戸城に入りました。
※尊王攘夷とは、尊王=天皇を敬い、攘夷=外国の侵略を撃退しようとする思想の事
この政略結婚で、尊王攘夷論者から非難されて、時の老中安藤信正は1862年に江戸城坂下門外で水戸藩士に襲われ老中を退く事態になります。【坂下門外の変】
この事態の中で、薩摩藩主・島津久光が幕政改革を幕府に要請します。幕府は、その要請を受け入れ、松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職、京都守護職には松平容保を任命して、幕政を改めました。
また、参勤交代の緩和、西洋式軍隊の導入、安政の大獄の処罰者の放免などの文久の改革を行います。
薩摩の島津久光が公武合体政策を進める一方で、京都では下級藩士の主張する尊王攘夷論を藩論とする長州藩の動きが活発になります。急進派の公家と組み朝廷を動かして、将軍を上洛させて攘夷の決行を幕府に迫りました。幕府はやむなく、1863年に譲夷を決行するように諸藩に命じました。
これは幕府の弱体化をはっきりと示した瞬間でした。
その日のうちに長州藩は、下関海峡を通過する外国船を砲撃して攘夷の実行を始めました。
そんな長州藩を見て、薩摩、会津藩は長州勢力を追放します。
長州勢力は、勢力の回復のために、池田屋事件を皮切りに京都に攻め上りますが、会津・薩摩・桑名藩に敗れます。【禁門の変】
薩長同盟
幕府は、兵を動員して長州討伐へ向かいます。
しかし、長州藩の上層部は藩内の尊攘派を弾圧して幕府に恭順の態度を取ったため、幕府軍は交戦のしないまま兵を引き上げます。
長州から砲撃を受けた外国勢は、本格的に報復攻撃に出ていて、下関の砲台を占拠していました。この外国勢の圧倒的な戦力に、高杉晋作は攘夷は不可能と考え、親幕派の上層部に反旗を翻し、藩の主導権を握ります。
そして、長州藩は再び反幕府派へと転じていきます。
一方、薩摩藩では島津久光の行列に乱入したイギリス人達を供回りの藩士たちが切りつけた生麦事件が起き、この事件が大きな国際問題になります。
この事件の報復としてイギリスと薩摩による薩英戦争が起こり、薩摩はイギリスの砲撃を受けることになります。そのイギリスの戦力を目の当たりにして、西郷隆盛や大久保利通は藩の考えを改めることになります。その結果、薩摩藩は攘夷から開国へと変化していきます。
こうして薩摩藩と長州藩は同時期に外国の軍事力を目の当たりにして、同じ考えを持つようになります。その敵対していた両藩を取り持ったのが、坂本龍馬です。
共に討幕をと考えていた西郷隆盛と木戸義孝を説得して薩長同盟の密約をかわす事になり、幕末の流れを一気に決定づける出来事になったのです。