源頼朝死後も鎌倉幕府をささえた尼将軍・北条政子はどんな人??
鎌倉幕府を設立した源頼朝の正室として知られる北条政子は、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主役【北条義時】の姉でも事でも知られています。
幕府成立後の頼朝亡き後、その情熱と負けん気の強さと政治力で鎌倉幕府を支えていました。後に、尼将軍とも言われた、北条政子の生涯はいったいどのようなものだったのでしょうか??
北条政子の誕生と源頼朝との出会い
北条政子は1157年に伊豆国の有力豪族【北条時政】の長女として生まれました。
1160年に平治の乱で敗れた【源義朝】の子・頼朝が伊豆へ流刑された事で、在庁官人だった北条時政がその監視役を任じられていました。
この時、源頼朝は14歳で、政子はわずか4歳の時でした。
二人が出会ったのはまだ子供でしたが、頼朝が流刑の身のまま20年の歳月が流れ伊豆で過ごすうちに政子と頼朝は、恋仲へ発展していきました。
その関係が明るみに出るのは、1177年頃で二人は結婚を望んでいたのですが、北条氏が平氏の流れを汲んでいた事で、敵対する源頼朝との結婚は周囲から反対されていました。
【源平盛衰記】によると、父・時政は2人の結婚を阻止しようと、平家出身の【山木兼隆】と政子を婚約させました。しかし、政子は山木邸を抜け出し源頼朝の元へ逃げ込み、駆け落ち同然で結婚してしまいました。
この逸話は創作だとされていますが、それだけ北条政子の頼朝への思いが強い表れだともいえるでしょう。
実の息子を容赦なく幽閉する冷酷な面も…
政子の強い思いに根負けした時政は源頼朝との結婚を認め、政子は二男二女を産みます。
1182年に長男・後の鎌倉幕府二代目将軍・源頼家を1192年には後の3代目・源実朝が生まれました。
しかし、1199年に源頼朝が急死し、頼家が18歳の若さで2代目将軍に就任します。その後、頼家の独裁を防ぐために北条時政や義時、比企能員などの13人の有力御家人による【13人の合議制】を発足します。
こうして、頼家は訴訟を直接裁断することができなくなったのです。
源頼家は、自身の乳母の夫・比企能員を重用したり、側室を比企氏から選んだりと、何かと贔屓する傾向がありました。さらに、頼家と比企能員の娘との間に長男が生まれたことで、比企氏が権勢を振るうようになりました。
そんな幕府の状況の中、源頼家は1203年に病で倒れ、一時危篤状態に陥ります。
これを機に、頼家の後ろ盾になっていた比企氏が本格的に台頭する事を恐れた北条政子と父・時政は、弟・実朝を3代将軍に擁立します。しかし、病から回復した頼家がこの事を知り、比企能員に北条氏討伐の命令を出します。
結局、北条氏討伐は失敗に終わり、源頼家は実母である北条政子により「修善寺」に幽閉され、殺害されてしまいました。
父親・北条時政の追放にも関わった
正式に源氏の家督を継いだ源実朝の補佐役の執権に北条時政が就任しました。
この時、まだ12歳の実朝は政治を取り仕切る能力がなかったので、執権である北条時政が幕府における政治を取り仕切り、実質的な権力を独占していました。
さらに時政は、実朝が将軍についてながらも、後妻の【牧の方】と共に長女の婿である【平賀朝雅】を次期将軍に擁立しようと画策します。この企みを耳にした北条政子は、弟・義時と共に、時政と牧の方を伊豆の国へ追放しました。
その後は、北条義時が2代目執権として権勢を振るうことになります。
このように、実の息子と父を相次いで処罰した北条政子は、非常に冷酷な女性と思われがちですが、愛する源頼朝が作り上げた鎌倉幕府を何とか存続させたいと言う思いが、この決断だったとも言えます。
しかし、1219年に鶴岡八幡宮にて、将軍・源実朝が、源頼家の次男・公暁に暗殺される事件が起こり、源氏の嫡流が途絶えてしまいます。
実の息子を突然の暗殺劇で亡くした北条政子ですが、悲しみに暮れる間もなく次期将軍となる人物を探すために奔走します。
そして、源氏と縁戚にあった【藤原頼経】を京都から招き、鎌倉幕府4代目将軍としました。とはいえ、頼経はまだ乳児であったので、北条政子が後見人となり、幕府の政治は二代目執権・義時と共に実権を握ります。
この時、すでに出家して尼になっていた事から【尼将軍】と呼ばれるようになります。
承久の乱における北条政子の名演説
鎌倉幕府から権力を奪われていた天皇家を含む朝廷側は、権力奪還のために虎視眈々と機会をうかがっていました。源氏は元々、天皇家の流れをくむ家系でしたが、実朝暗殺で源氏の血が途絶えたことで源氏と天皇家の関係が無くなっていました。
実朝事件を好機と見た後鳥羽上皇は1221年(承久3年)に、鎌倉幕府に仕えていた御家人達に対して同幕府を討つように命じました。これにより、承久の乱が勃発します。
武家政権・鎌倉幕府が設立したとはいえ、天皇は絶対的な存在でした。その存在からの幕府討伐命令を受けた御家人たちは、朝廷側と幕府側、どちらの味方に付くのか悩み、板挟み状態となりました。
御家人たちの苦悩を知った北条政子は、彼らを鼓舞するために一世一代の演説を行います。
【これが私からの最期の言葉です】と前置きで始まった北条政子の演説の内容は…
「源頼朝公が鎌倉幕府を開いて以降、あなた達は幸せに暮らせるようになりましたね。これはすべて、源頼朝公のおかげ。その御恩は山よりも高く海よりも深いのです。しかし今、天皇や上皇をそそのかす者が現れ、幕府を討伐するという道理に合わない命令が朝廷より出されています。悪いのは上皇ではなく、その周囲の人間なのです。我々がすべきことは、残された鎌倉幕府を守り抜くこと。そして、将軍から受けた多大な御恩に報いて下さい。朝廷側に付きたい者は、今すぐここで申し出なさい。
御家人たちが懸念していたのは、幕府側に付くことで朝敵扱いされないかでした。そこで政子は「悪いのは後鳥羽上皇ではなく、裏で上皇たちをそそのかしている人物である」と強調し、たとえ幕府側に付いたとしても朝敵にはならないと説いたのです。
吾妻鑑によれば、この演説を聞いた御家人たちはみな涙を流し朝廷に付くものは誰一人いなかったと伝えられています。
当時の日本では、大勢の男性が女性の話に耳を傾けるなど無いことでした。
そんな常識の中で、御家人たちが政子の演説に心を動かされたのは、源頼朝没後の鎌倉幕府存続のために尼将軍として尽力する姿を御家人たちに示していたからだと考えられます。この名演説は後世まで名言として伝わり、幕府軍の結束が高まり承久の乱は幕府軍が勝利を収めることになります。
源頼朝のように御家人たちの心を的確につかむことができた北条政子の力で、鎌倉幕府による武家政権が長く続く事につながりました。
北条政子の死とその後の鎌倉幕府
吾妻鑑によると北条政子は、1225年5月に病に伏していたと伝えられています。一時は回復の兆しがあったのですが、再び悪化し1か月後にそのまま帰らぬ人となりました。
政子が亡くなった翌日にその死が発表され、鎌倉幕府の政所執事・二階堂行盛などの多くの御家人が出家して追悼の意を表しています。
源頼朝の正室として、頼朝亡き後に尼層群としてその生涯をささげ鎌倉幕府の基盤を築き、御家人たちを筆頭に民衆にも慕われていたことがこの事でうかがえます。
北条政子の死後は、その甥である北条泰時が3代目執権に就任し、それまで独裁的であった執権政治を改め、【評定衆】を設置し合議制による【執権政治】を確立する事になります。
北条政子の名は死後付けられたものだった!?
日本史上に残る女性政治家の中でとくに有名な北条政子ですが、女性の本名は公にしないとする社会通念が有ったので、北条政子の場合もこれに該当しました。
つまり政子とは本名ではなく、62歳の時に朝廷より【従三位】に叙された際に、記録に残す必要があったために急遽【北条政子】と呼び名が付けられました。
これまで政子は、源頼朝の御台所と呼ばれていました。
御台所とは、「御台盤所」(みだいばんどころ)の略。「台盤所」は、貴族の屋敷や宮中にあった配膳室のことを指し、そこから転じて、将軍や大臣など貴人の妻に対する呼称として使われていました。
頼朝死後は「尼御台」とよばれ、文字通り出家した高貴な人の妻と言う意味でした。
そのあと、幕政の実権を握り尼将軍と呼ばれるようになり、政子の名がつけられた時には源頼朝や頼家、北条時政もすでに亡くなっていまいた。つまり政子と言う名は、父や夫にも知られていなかった可能性が有ります。
実際に便宜上、朝廷が慣例に従い北条時政の娘だから【政子】と記しただけだとも言われています。そのことから、彼女自身も【政子】の自覚が無く、事実生前の書状などに【政子】の署名は存在しません。
この北条政子と言う名は、江戸時代の書物に登場しており、それ以降に定着した名前のようです。明治・大正の教科書では【政子】や【平政子】と使われていたようですが、【北条政子】とは記されていませんでした。
北条政子は、昭和になり日本辞典などが北条政子と記したことでそれが本名と信じられたと言われています。ようするに北条政子は辞書用語だったようです。
私たちは【北条政子】と何も疑問もなく使用していますが、それは便宜上使っているだけで歴史を紐解くと本名が明らかになってくるかもしれませんね。