源頼義が活躍した前九年の役はなぜ起こったのか?
平安時代の後期には、学校でも習う重要な争いが東北地方でありました。
それは、前九年の役と後三年の役です。
この二つの戦いを通じ源氏と関東武士との強い主従関係が構築され、源氏の関東支配がより盤石なものとなり、後の鎌倉幕府の基礎となりました。また、世界遺産となった平泉の奥州藤原氏の繁栄のキッカケにもなりました。
前九年の役・後三年の役をちゃんと理解するには、まずは時の東北地方の状況を知る必要があります。
10世紀頃から、朝廷の軍事力が低下する中、武士の実力を見せつけることとなる平将門の乱や藤原純友の乱などの反乱が相次ぎました。11世紀に入っても反乱は続き、1028年には平忠常の乱がおきます。この乱とあわせて、源氏の東国進出を決定づけたのが前九年の役(ぜんくねんのえき)でした。
この記事では、「前九年の役」についてわかりやすく書いていきたいと思います。
前九年の役とは?
11世紀の平安時代後期に東北地方・陸奥国で起こった反乱を前九年の役と言います。
陸奥国の有力豪族であった阿部氏が反乱を起こし、源頼義が出羽の豪族・清原氏と共に鎮圧にあたりました。
この戦の発端は、阿部氏が朝廷への納税を果たさなくなり、1051年に陸奥守【藤原登任】が兵を率いて討伐へ向かいます。この鬼切部の戦いで、藤原登任が阿部氏に敗れ陸奥守を更迭されることになります。
登任の後任で陸奥守となった源頼義は、出羽の清原氏と共闘し乱を一気に鎮圧します。
この源頼義の活躍は、平忠常の乱を鎮めた父についでの源氏の活躍となり、源氏の東国進出が決定的なものになりました。
これがザックリとした前九年の役の流れです。
それでは、詳しく紹介していきましょう。
前九年の役が起こった背景
平安時代後半は、豪族や有力農民らが武士として台頭し、大規模な反乱を度々起こすようになります。これらの乱で、武士たちの力を見せつける事となり、朝廷にとっても武士たちは欠かせない存在になっていました。
武士の台頭
10世紀になると、地方の豪族や有力農民たちが武装して勢力の拡大を図るようになり、兵(つわもの)と呼ばれるようになります。このつわものたちは、一族郎党を従えて争ったり、国司にも反抗をするようになります。
京に近い、機内付近では、成長した豪族たちが武士と呼ばれるようになり、朝廷や貴族たちに武芸をもって仕えるようになります。
武士となった豪族たちは、各地で結びつきを強めながら武士団を形成します。
中央から離れた地方では、旧来の豪族やその土地に定着した国司たちの子孫が武士団を形成していきました。
武士の大規模な反乱
武士たちは各地に武士団をつくると、良馬を産する東国で成長したのが平将門でした。
その将門が下総から勢力を拡大し、大きな反乱に発展したのが「平将門の乱」です。
将門は東国の大半を征服し新皇(しんのう)を称するに至りますが、父国香を殺された平貞盛らによって倒されます。
また、瀬戸内海では、藤原純友が海賊を率いて藤原純友の乱をおこします。
伊予の国府を奪うと淡路から大宰府まで広範囲に勢力を広げましたが、小野好古(よしふる)や清和源氏の祖である源経基らによって討たれ乱は鎮圧されます。
前九年の役の直前に起きたのは、平忠常の乱でした。
平氏は将門の乱以降も関東に勢力を保ち続けており、もと上総の国司であった平忠常が乱をおこしますが、源頼信によって乱は鎮められます。
武士の位置づけの変化
こういった反乱から武士の力が次第に認知されていき、中央貴族の血を引くものが棟梁として武家を形成し、勢力を伸ばしていくのでした。特に、源満仲は、仕えていた摂関家の保護を得て武家の棟梁として権勢を強めていきました。
こうして、前九年の役が起こる事の日本は、各地で武士団による反乱が相次ぎ、源氏が重職として活躍することになります。
前九年の役の戦いの経緯
陸奥国で強大な力を持っていた阿部氏は、源頼義にいったん降参をしますが、再び反乱を起こします。乱の長期化に伴い、頼義は出羽国の清原氏と共に阿部氏の鎮圧にあたります。
鬼切部(おにきりべ)の戦い
前述しましたが、源頼義が阿部氏を討つまでの一連の戦いを前九年の役と呼ばれています。
その火ぶたが切って落とされたのが、鬼切部の戦いです。
当時、陸奥国でも力を持っていた阿部氏は、陸奥国奥六郡に柵を築いて独立国家的な勢力を作っていました。1051年に、安倍氏が朝廷への納税をしなくなったことから、陸奥守・藤原登任が懲罰のため数千の兵を向けると鬼切部で争いとなります。
しかし、藤原登任軍は安倍軍に大敗を喫し、そのまま登任は陸奥守を更迭され、河内源氏の源頼義が後任となりました。
すると、阿部氏はいったん頼義に降参します。
その功績で、頼義は1053年には鎮守府将軍となります。
阿久利川事件
1056年に源頼義が陸奥守任期満了になる2月に、国へ帰るために阿久利川で野営をしていた所、密使による情報に端を発し安倍氏と朝廷との戦いが再開されることとなります。
さらに内通の疑いで頼義は国府にいた平永衡を処罰すると、身の危険を感じた藤原経清は安倍軍に寝返ります。
1057年に頼義は、挟撃策を講じると、津軽の安倍富忠を味方に引き入れることに成功し、阿部頼時を死に追いやります。
黄海(きのみ)の戦い
安倍氏の長であった、安倍頼時が1057年7月に戦死し、貞任が後を継いだのち同年の11月に源頼義は、国府軍1800を率いて安倍氏討伐に出ました。
対する安倍軍は、国府軍の進路を把握し、地の利も生かし兵力でも優位に立つなど、完全に国府軍を手玉に取っていました。結果、安倍軍が圧勝し、源頼義は30年来の家臣を失い、自身と息子も命からがらわずか六騎で落ち延びることが出来ました。
この戦いに勝利した安倍氏は、再び奥六郡の実権を握ることとなりました。
この大敗で源頼義は軍事行動を起こすには兵力の回復を待つしかありませんでした。
一方で安倍氏は勢力を広め、国へ納めるべき徴納物を奪うなど源頼義をあざ笑うかのような行動に出ます。
清原氏が戦いに参加
陸奥国で勢力を伸ばす安倍氏を横目に、源頼義は関東、東海、畿内から苦心して兵力を集めます。それと同時に、中立を保っていた出羽の豪族清原氏を引き込むことに成功し、家長のの清原光頼の弟武則を総大将とする軍勢が派遣されることになりました。
清原氏の参戦で朝廷軍の兵力はおよそ1万人にもなり、7つの陣に分け北上しながら柵を一つ一つ攻略していきます。
- 第一陣、武則の子である荒川太郎武貞率いる総大将軍。
- 第二陣、武則の甥で秋田郡男鹿の豪族志万太郎橘貞頼率いる軍。
- 第三陣、武則の甥で娘婿である山本郡荒川の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍。
- 第四陣、貞頼の弟新方次郎橘頼貞率いる軍。
- 第五陣、将軍頼義率いる軍、陸奥官人率いる軍、総大将武則率いる軍。
- 第六陣、吉彦秀武の弟といわれる斑目四郎吉美候武忠率いる軍。
- 第七陣、雄勝郡貝沢の豪族貝沢三郎清原武道率いる軍。
一万の兵力のうち、源頼義軍が3000人ほどだったそうです。
小松柵の戦いと安倍氏滅亡
小松柵は天然の要塞でしたが、清原氏の参戦や将達の活躍で朝廷軍が勝利しました。
小松柵の戦いで敗退した安倍軍は北へ敗走し、衣川の関へ籠りますが官軍の勢いがすごく、あっという間に衣川を制圧するのでした。安倍軍は、さらに北の本拠地・厨川柵まで退き籠城を決めますが、官軍が火攻めで厨川柵を焼き上げ陥落させました。
当主・阿部貞任が深手を負い亡くなったことにより、安倍氏が滅亡し長きに渡る前九年の役が終結する事になります。
前九年の役の戦後処理
清原氏の参戦前の苦戦の一因として、藤原経清が裏で援助していたことから、源頼義の経清に対する恨みが深く、経清が捕縛されたのちに苦痛を長引かせるために錆刀で斬首したとされています。
1063年に戦いの報告を朝廷に報告した源頼義は、伊予守に任命されます。
しかし、自分に従った家臣たちの恩賞が出なかった事に納得がいかず、伊予には赴任せず、頼義は朝廷に家臣たちの恩賞の交渉を続けました。
平忠常の乱を鎮めた源頼信に続き、その子の頼義が前九年の役を鎮めたことにより、源氏の東国進出は確たるものとなりました。
後の後三年の役では、頼義の子の義家が活躍し、さらに源氏は武士の棟梁としての地位を固めてくことになるのですが、これはまたの機会に紹介しましょう。