どうして藤原純友の乱は起こったのか?
少し間が空いてしまいましたが、935年以降に続いた下総の私闘で最終的には国司への反乱にまで発展した平将門の乱について以前お話ししたかと思います。
今回は、その平将門の乱と合わせて『承平天慶の乱(当時の元号に由来)』とも呼ばれる『藤原純友の乱』についてお話ししようと思います。この『藤原純友』については『将門記』のような史料が全く残っておらず、様々な説が出回っています。
今回は近年言われている新説を中心に紹介します。
藤原純友の乱の概要
藤原純友の乱とは、伊予国の日振島(愛媛と大分の間)を拠点として瀬戸内海全域から豊後水道にかけて起こった乱のことです。元々、現地に出現していた海賊たちを抑えようと派遣された藤原純友が突如海賊の頭領として海賊たちをまとめ上げ暴れ回った事件と言われています。
藤原純友は藤原北家出身で藤原基経を大叔父に持つエリートにかなり近い血筋の出身です。父は従五位の下で貴族の末席にかろうじて就いていた人物で太宰府の小弐という役職に就いています。ところが、純友はその父親を早くに亡くしたことで京での出世街道から見事に外れてしまいました。
そんな時、チャンスが訪れます。
932年4月『追捕海賊使の事を定める』12月『備前国、海賊のことを報告する』とある他、その翌年には追捕使だけでなく南海道諸国に警固使が、934年にも武蔵国(現東京・埼玉・神奈川の一部)と諸家の兵士が海賊追捕のために派遣される程瀬戸内海周辺は荒れているという状況にありました。
当時の外国との交渉窓口は大宰府がメインであり、京へ行くための交通手段として水運は非常に重要視されています。934年の冬には伊予国の不動穀(=不動倉に保管された稲穀のことで、いざと言う時に使われるはずのもの)までもが奪われており、この重要地点を抑えて武功を立てれば出世の見込みも出てくることでしょう。
当時は『武<文』の傾向が強くありました。何しろ東北や九州の反乱もある程度落ち着き、大陸も安定しない状況が続いていましたので…
正確な年は確認できませんでしたが、藤原純友はこのような状況の中、朝廷からの任を受け父の従兄で伊予守藤原元名に従って伊予掾として瀬戸内海の海賊の取り締まりを行う事になります。
※下の国司の職務表を見てみると、国司のトップは守ですが仕事が多いことを見ると現場は守よりも掾の方が関わることが出来ただろうと予測できます。海賊との接点は十分にあったと考えられるでしょう。
国司の職務
役職 | 人数 | 職務 |
---|---|---|
守 | 1人 | ●神社の維持管理●戸籍・計帳の作成 ●公民の保護育成 ●農業の維持管理 ●治安の維持 ●孝子・国学の学生などの推薦 ●訴訟の受付・判決 ●祖・調・庸、出挙など税の徴収 ●蔵・武器・駅伝馬・狼煙・牧・関所・家畜・遺失物の管理 ●寺院・僧尼の戸籍の管理 ●雑徭・兵士の挑発・使用 |
介 | 1人 | 守に同じ |
大掾
少掾 | 1人
1人 | ●治安維持 ●目が作成した文書の審査・承認 ●目が発見した公務遅延の判断 |
大目
少目 | 1人
1人 | ●文書授受の記録作成 ●文書草案の作成 ●公務遅延の発見、公文の読申 |
※ほかに権官や員外官を儲ける場合がある。人数については国の等級に左右される。
日本の歴史|平安時代 『揺れ動く貴族社会 四』川尻秋生著 小学館より抜粋
藤原純友の動向
次は具体的に藤原純友がどう動いたとされているのか史料を見ていきます。
まず、『日本略紀』には936年(承平6年)の段階から
南海賊徒首(なんかいぞくとのかしら)藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯聚(とんしゅう)し、千余艘を設け、官物・私財を抄劫(しょうごう)す。
と書かれていて、伊予国の日振島に藤原純友が党を結成して海賊行為を行っていたとされています。
一方で、『本朝世紀』の939年12月条には
今日、伊予国、解状を進(たてまつ)る。前掾藤純友、去る承平六年、海賊を追捕すべきの由、宣旨を蒙(こうむ)る。
と書かれています。今まではどちらかと言うと日本略紀による記述を重要視していましたが、近年では伊予国の解文(上申文書)を引用している後者の方が信憑性があるのでは?ということとなっているようです。
結局936年と939年には何があったのかと言うと・・・
- 936年に藤原純友が警固使として海賊を鎮圧・その後、伊予に土着
- 939年12月21日に突然藤原純友が謀反
尚、伊予国が送った解状は純友の反乱について書かれたものです。
では、何故突然の謀反となったのでしょうか?
従来の説では
瀬戸内の海運業者でもあった海賊たちが、純友を担ぎ上げて党を結成し、新たな社会的位置づけを要求して立ち上がった
とか
王臣家の家人であった純友が、承平六年(九三六)に放棄した海賊を自分の部下として組織し、海運権や交易権の承認を求めて決起した
などとされてきたところですが、新説では
純友・藤原文元たちは、承平の海賊鎮圧に功績があったにもかかわらず、恩賞が与えられなかったことに不満をもち、その要求のために蜂起した
というのです。
この新説の根拠は当時の太政大臣・藤原忠平の日記『貞信公記』によるものですが、別の解釈もあるそうではっきりしません。気になる方は川尻秋生氏の揺れ動く貴族社会 (全集 日本の歴史 4)をご覧ください。全て、上の本による引用です。
この時代、有力貴族の子孫が増えすぎて父親がなくなるなどのイレギュラーが発生しすると、すぐに出世街道から転がり落ちる時代です。四等官制でも少し触れましたが、五位以上の貴族には様々な特権が与えられる反面それ以下の官人達は一気に待遇が悪くなります。
同時に、902年の醍醐天皇による延喜の荘園整理令の影響で国司たちの権限は非常に強い物になっていて出世の道を断たれた貴族の子孫たちは積極的に地方へ行こうとする時代でもありました。
その競争率の激しい「地方行き」が可能な家柄で、しかも土着までできるような元貴族たちは純友と同様、京での出世が見込めないけれど元々は結構な地位まで行けたであろう人達と考えることが出来るのです。また、地方へ行って一旗揚げようと考える人たちですから「武功が認められれば・・・」と考えていても不思議ではありません。
そんな中で上の人たち(守あたりの人物か??)から恩賞がもらえなかったらどうなるか・・・不満が大きくなって謀反も十分考えられる流れです。
朝廷側は、東では将門の乱を抱えており西の藤原純友の乱だけに集中する事は出来なかった。そこで「出世欲」を上手く利用して内部崩壊を図ります。純友配下に位階や官職をチラつかせて離反を促したのです。
中には何人か寝返り純友討伐に加わった者もいた上、時が経つと東の将門が敗走。当初は小康状態を保っていたのが徐々に劣勢となり、結局純友親子や配下も殺害。鎮圧されることになりました。