平安時代

平将門の乱が起こった背景を調べてみる

かなり昔のものになりますが、昭和45年のNHKで放送された「日本史探訪」という番組で平将門について故・赤城宗徳氏と故・大岡昇平氏とが対談されています。この対談内容をまとめた書籍を手にすることが出来ました。

赤城氏は平将門を研究、大岡氏はフランス文学の翻訳家で研究者、そして評論家で時代小説でもあります。その題材は多岐に及びますが『レイテ戦記』など負けた側の立場にたった話が多かったそうです。

そんな二人による平将門の対談は非常に興味深いものがありました。負けた側は大体ひどく書かれるもの。そんな事情を念頭に置いた対談がなされています。

もちろん現在では当時の研究とは違った解釈や説が出てきていますが、この「日本史探訪」に載っていたような敗者側から見た立場で平将門の乱を探っていこうと思います。

平将門の乱

平将門の乱は平安時代中期、関東一円で起こった内乱です。939年、常陸・下総・上野の国府を占領し新皇を称した末に、平貞盛・藤原秀郷らに討たれ反乱が終結しています。

将門の親や親類は国府の長官として関東の常陸・下総・上総国へと赴任しています。

赴任してから将門の父・良政が築いた遺領を国香や良兼といった将門の叔父たちの間で勝手に分割してしまったのが事の始まりだったのではないかと言われています(詳しくは後述)

他にも別の説があるので、その別の説も後述することにして、まずはどんな登場人物がいて、どんな経緯で事が起こったのかを見ていくことにしましょう。

ちなみに将門の母親は県犬養春枝女(あがたのいぬかいのはるえのむすめ)で、家系図を見ると良将が亡くなった後に遺領の取り分を軽視されてもおかしくない立ち位置にいるのが分かります。

 

略年譜(現在の年表に直してあります)

出来事
903年陸奥鎮守府将軍下総守・平良将の子として将門が産まれる。幼くして父を失う?(←ここはハッキリしません)
918年16歳で京に上り、左大臣藤原忠平に仕える
930年28歳で帰郷
931年「女論」により平良兼(後に将門の室となる女性の父)将門の仲が悪化
935年2月33歳、常陸で伯父の平国香(=良望)源護と争い、国香が焼死。源護の息子らは殺害された。
同年10月源護の娘婿でもある平良正(将門は甥に当たる)将門が破る
937年35歳、上京して事情を陳述。合戦の罪を許されることに。ところが、良兼(高持の後を継ぎ上総介を勤めた。当時の一族の長)からの急襲を受けて敗走。
同年9月良兼を破る
同年12月良兼貞盛らが誤って朝廷の所有する官牧(=国有の牧場)・常羽御厩(いくはのみまや)を攻撃。朝廷の怒りを買った良兼らが追捕される。
938年36歳で国香の子・平貞盛を破る。貞盛は上京して将門の逆心を訴える。この時、将門は朝廷の召集に応えなかった。
939年6月平良兼が病死
同年37歳、武蔵国(東京、埼玉、神奈川の一部)興世王源経基が赴任。武蔵の国の郡司だった武蔵武芝興世王源経基との間に紛争が起こる

武芝平将門に調停を依頼。興世王武芝は和解するも、経基は敗走。

経基が敗走後、朝廷に将門・興世王・武芝で謀反を起こそうとしていると誣告するも、その訴えは棄却。

同年農地を経営するも税を納めず、常陸介に抵抗していた藤原玄明が将門の所へ身を寄せるように ⇒ 常陸国府を討つことに(平貞盛の画策か??)

忠平に向けた書状には、常陸介・維幾の子の為憲(ためのり)が公の威光をかさに着て玄明を圧迫。玄明の愁訴があったので事情を確かめに常陸国府に出向くと為憲が平貞盛と結託して兵を集めて挑んできたとの旨が書かれていたようです。

=国府に軍を向け討ち落としたという事で、朝廷に反旗を翻した形となる ⇒ 興世王の進言もあって、結局、下野や上野国府も降伏させ関東一円を支配、新皇を称するように

※ちょうど、この頃藤原純友が西国で謀反を起こしています

940年38歳で貞盛藤原秀郷らの軍に敗れ戦死。

経歴を見てみると、周りに頼られる義侠心に溢れる人だったことが伺えますね。

 

反乱の原因

最期の方の経歴を見ると義侠心にあふれていそうな人物にも関わらず、自身の縁者との仲に亀裂が走ってしまったのには主に二つの理由が知られています。

一つは931年の「女論」。平良兼が自身の娘と将門との結婚を反対したことだと言われています。もう一つは将門の父、良将の遺産相続を巡る争いです。

将門が京から戻った時には良将の遺産のうち良い場所は全て伯父達に取られ将門は鬼怒川の遊水地帯…今でも洪水が頻繁に起こる場所に開拓地を求めなければならなくなりました。

最終的に将門を討った国香の子・貞盛ですが、事情が事情だったうえに貞盛は中央に出仕していたこともあって当初は将門との講和を目指していました。父は焼死したという事で源護と将門の戦いに巻きこまれた「事故」と捉えていたようです。当初は良兼も積極的には行動していませんでしたが、良正が敗れ協力を仰がれたことで一族の長として将門を放置する事が出来なくなりました。この良兼の説得もあって貞盛も将門との紛争に関わるようになってしまったようです。

上の説明だけだと平氏内のいざこざは見えてきますが、何故、源護(みなもとのまもる)まで紛争に関わったのかが見えてきません。

先程の家系図でも書いたように、源護の娘たちは平国香・平良兼・平良正に嫁いでおり、両者は縁戚関係で結ばれています。 源護は常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有していたと考えられていますが、その領地と接していた平真樹(たいらのまき・まさき)と領地争いをしていました。常陸国に元々地盤のなかった国香や良正は、姻戚関係を理由に積極的に源護側に協力します。こういった事情もあって源護は将門と対立していったわけです。

 

一方、平真樹の娘は平将門に嫁いでいます(良兼の娘も将門の妻として嫁いでいます)。平真樹が源護に敗れると将門の領地も危うくなるような状況でしたから、平将門は平真樹の「源護との争いを仲介してほしい」という頼まれ事を了承する事となります。

ここから源護や平国香や良兼らとの一族内での紛争が始まりました。

両者ともに主力は半農半兵の家族単位で出来た「伴類」という勢力。当時、京と比べると東国の暮らしは見劣りするうえ、生活条件も悪いです。そんな状況下で国香や良兼ら既存勢力に期待できなくなってきたこともあって、将門は彼ら伴類の協力を得ることができました。

将門自身が騎馬戦に秀でていたこともありますが、伴類の中にも蝦夷征伐から帰ってきた腕っぷしの強い人たちも含まれていたこともあって、朝廷が出て来るまでは戦は優位に進められました。将門の乱の最後の方には一種の軍事組織の様なものも成立していたようです。

 

大岡氏と赤城氏の対談では、軍事力を養わなければ同族との争いに勝てないけれど、軍事力を大きくし過ぎるとその維持ために支配権を広げなければ養っていけない。それが国府攻撃に繋がった。その後、結局は国の最高権力まで侵し京都からの正規軍が来たという事で伴類たちが怯んでしまったことで敗れたのではないかという旨を話していました。

その後、権力に屈さず世に受け入れられない者を代弁してきたこともあって多くの逸話や伝説として残り続けました。 江戸では権威に屈しない英雄として崇拝されていたそうです。

なお、将門を葬った墳墓周辺での天変地異が相次いだことから1309年に神田明神に合祀されることになりました。この神田明神は江戸幕府を開く際に江戸城から見て鬼門に当たる場所に遷座されたそうです。これは幕府が行う政治に朝廷は関与させないよという決意を表しているとも言われています。

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歴ブロ
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。