敵同士だったドイツと急接近した日独伊三国同盟
1940年に日本・ドイツ・イタリアの三国の間で軍事同盟が結ばれました。
第一次世界大戦では日本とドイツは敵同士で、戦後処理で日本はドイツの植民地を奪っていたことを考えると互いに手を組むのは不思議な出来事でした。
満州事変と日中戦争の件で世界的に孤立を深めていく日本がドイツに急接近するきっかけが1933年の国際連盟脱退です。ドイツも国際連盟を脱退しており『日本が脅威と感じているソ連がドイツの敵である』という利害が一致していることから「ドイツと手を結ぼう」と言う意見が陸軍から出てきました。
しかし、実際には上手くはいきません。ドイツ国内では中国と手を組むべきと言う意見が強く、満州建国で中国と関係が悪化していた日本とは敵対する意見すらありました。
ところが、ある人物の登場でドイツは急に親日路線を舵を切りました。その人物こそナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーです。
1930年代のヨーロッパの情勢
東アジアで日本が孤立している頃、ヨーロッパでは新たな戦争が起こりそうな気配がありました。1933年にドイツで、ヒトラー率いるナチス党が政権を握り軍国化を進めていたのです。
1938年、ドイツはオーストリアを併合。さらに、ミュンヘン会議を行い、チェコスロバキアの一部を獲得して東に領土を獲得していきました。
一方イタリアでは、1929年にムッソリーニが政権を掌握。ファシスト体制を整えて一党独裁を確立させます。
この二国には、ソ連が大嫌いと言う最大の共通点がありました。
ヒトラー自身、著書の中に『ソ連を潰してゲルマン民族がする地域を拡大すべき』と東方生存圏を唱えています。ナチスと言えばユダヤ人迫害をイメージしますが、ロシアのスラブ人も同様に敵視しており、虐殺すべきだとヒトラーは考えていました。
イタリアのムッソリーニもファシスト体制を揺るがしかねない共産主義者を弾圧しており、こうした事から二国は防共同盟と言うソ連に対抗する同盟を結んでいました。
その後、1940年にドイツ・イタリア・日本の三国間で同盟を結ぶことになり、ソ連・イギリス・アメリカに対抗する日独伊三国同盟が成立していくことになります。
ドイツの思惑と日独伊三国同盟
ドイツの中国友好路線を180度転換したヒトラーの意図には何があったのでしょうか??
それはソ連対策とアジアでの牽制役を日本にやらせるためでした。
ヒトラーはヨーロッパの征服を企んでいました。
日独が軍事同盟を結べば、ドイツが欧州各国と戦争する事になれば日本も参戦する事になります。そうなればイギリスやフランスの植民地の防衛に力を注ぐ必要が生まれるために戦力が分散されると考えたのです。
こうして、1936年11月日本とドイツは日独防共協定を結びます。防共『共』とは共産主義のこと。つまりはソ連に対する相互防衛協定の意味を持つ協定でした。
さらに同じく国際的に孤立していたイタリアも日独に接近し、協定は日独伊防共協定へと姿を変えて、日独伊三国同盟締結の実現は秒読みの段階まで入りました。
しかし、ここで状況が変化します。
1939年にドイツは敵国だったはずのソ連との独ソ不可侵条約を結び和解してしまいます。さらには、共同でポーランドに侵攻し第二次世界大戦を開始しました。日本を無視した暴挙に当時の首相は「欧州の情勢は複雑怪奇」と言い残して総辞職。同盟実現は消えてなくなりました。
しかし、その後のドイツの快進撃を目の当たりにした日本国内では、日中戦争の生き詰まりとアメリカとの緊張が高まりも相まって再びドイツとの同盟話が再燃しはじめます。
これほど強いドイツが味方になればこの苦境も打破できると思いも込めて、1940年9月に日独伊三国同盟が締結される運びとなりました。
強国との同盟は信用できないものに…
三国同盟は日本にとっては希望でした。
ドイツの後ろ盾があれば、イギリスやフランスのアジアの植民地を奪うことができ、日中戦争を有利にできる公算が高い。交渉次第では日米関係の改善もできるかもしれません。
さらにソ連はドイツの関係は良好で、日独伊にソ連を含めた四国の同盟を結べる可能性すら出てきました。事実、三国同盟を結ぶ際に「ドイツは日ソの仲介人になる」と言われた事から同盟締結に躍起になったほどでした。
しかし、独ソ不可侵条約が裏切られる事から見るに、ドイツは信用してはいけない国だったのは日本はまだ知らなかったのです。
1941年、突然ドイツがソ連に宣戦布告をして戦争を始めてしまうのです。
ヒトラーは元々ソ連を倒してその領土を手中に収めて大ドイツ帝国を作り出す構想を描いていました。ドイツ国内でもソ連と戦うか否かで意見が対立した居ましたが、どちらにしろ日本がドイツの心の内を読み切れていいなかったのは事実でしょう。
独ソの開戦でソ連がアメリカとイギリス側に付いただけではなく、ドイツの戦力が分散した事で陥落寸前のイギリスも盛り返してきてしまいます。
さらに日本の誤算はこれだけでは終わらず、アメリカのルーズベルト大統領がこの同盟に大激怒し、日米関係の改善するどころかアメリカが第二次世界大戦の参加を決意する要因の一つとなってしまいました。
こうして日本は、ドイツと手を組むことによって更なる窮地に立たされたことになるのでした。
日独伊三国同盟の影響
話を少し戻しますが、1940年に日独伊三国同盟が成立すると、翌年ソ連との交渉を始めます。その結果、1941年4月に日ソ中立条約を締結してソ連と日本は中立を結ぶことになりました。
ソ連との条約で日本はイギリスとオランダの植民地のある南方へと進出したかったと考えていたようですが、その二か月後にドイツが独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻してしまいます。
一方でドイツからしてみれば、日ソ中立条約は思惑から大きく崩壊する誤算でもありました。
ドイツがソ連侵攻中に日本からウラジオストクを攻撃しシベリアに侵攻すればソ連はたちまち崩壊するとドイツは踏んでいました。しかし、日本とソ連が中立条約を結んだ以上、日本は独ソ戦に参戦する事が出来ません。
これはソ連にとって幸運な事で、ソ連は極東に置かれた戦力を全てドイツ戦に向けることが出来るようになり、ソ連の有利な戦況となってしまいました。
さらにドイツの誤算は、1941年12月の日本による真珠湾への攻撃でアメリカとの戦闘状態に突入しました。日本とアメリカが開戦した事によって、ドイツはアメリカに宣戦布告をしなくてはいけない状態になってしまい、アメリカの参戦が決定的になってしまいます。
イギリスの首相は、アメリカの参戦に対して「この戦争に勝てる」と発言した事から、アメリカの参戦はとても大きなものだと感じられます。
日独伊三国同盟のその後
もはや同盟が機能しなくなった日独伊三国同盟。アメリカとソ連の本気にドイツと日本が勝てるわけがありませんでした。
1942年にはミッドウェー海戦で日本が敗れ太平洋の制海権を失い、さらに1943年にはイタリア降伏すると、日独伊三国同盟は劣勢になっていきます。
1944年にはソ連の総反撃が始まり、どんどんドイツは首都であるベルリンへと後退していきます。一方の日本も勝てる戦いが無くなり日本本土に後退しました。
そして、三国同盟のメリットを何も生まないまま、1945年4月首都ベルリンが陥落し、5月にドイツ降伏。8月には日本が降伏し日独伊三国同盟は消滅しました。