第一次世界大戦後の日本の外交問題
明治政府をけん引してきたトップたちが西洋諸国の植民地にされる危機感を抱き、日本を近代的な強い国家にしようと必死に頑張ってきました。
文明国だという事をアピールするために、なれない洋服を身にまとい外国人を舞踏会に招き、国を守るために国軍も作りました。さらには、鉄道を敷いて交通のインフラを整備し、製糸業にも力を入れて産業力強化を図ってきました。
明治終わりから大正に入る頃にはその成果が報われ始めてきました。
列強国入りを果たした日本
1918年11月、30か国以上が参戦し、1000万人以上の戦死者を出した第一次世界大戦が終結。この戦争によってヨーロッパは荒廃し、多く一般市民が犠牲となりました。
日本と言えば、この戦争を通じて名実ともに列強の仲間入りを果たし、完全に世界が認める国家となりました。戦争終結翌年の【パリ講和会議】では、イギリス・フランス・アメリカ・イタリアと共に五大国の仲間入りを果たしました。
さらに1919年のベルサイユ条約では、日本はドイツが領有していた南太平洋諸島の委任統治権と中国の山東半島の権益を取得しました。
こうして日本は近代化を遂げて、列強の仲間入りを果たしました。
しかし、急速に成長する日本に西欧諸国は警戒感を強め、日本は新たな問題に直面する事になります。西欧諸国が震撼させた第一次世界大戦の影響は、遠い日本にも及ぶことになっていくのでした。
捕虜の扱いが紳士的だった日本政府
同盟国だったイギリスが戦争に参加していた事から、日本もドイツに宣戦布告して中国配属のドイツ軍を撃破し勝利を収めています。
このドイツとの戦闘で日本は国際法を順守しました。
敵国であるドイツに対して、紳士的に振る舞い捕虜に対する大軍は丁寧そのものでした。
青島で捕らえられたドイツ兵捕虜4700名は、日本国内の複数の捕虜収容所に送られたが、彼らが監禁されるようなことはなく、地元住民との交流も盛んにおこなわれました。
徳島県の収容所では、ベートーベンの第9が披露されたり、他の検疫所ではドイツ人捕虜で菓子職人のカール・ユーハイムが日本で初めてバームクーヘンの実演販売を行いました。また、敷島製パンの初代社長もドイツ人パン技師に製パン技術をならい創業を果たしています。
こうしたドイツ人捕虜たちにより、日本各地にドイツ文化がもたらされ、現在にも継承されています。こうした日本政府のドイツ人捕虜に対する厚遇や地元住民の温かさが、文化継承に一役買っているからにほかなりません。
人種差別と闘った日本政府
終戦後、戦勝国の一因として挑んだパリ講和会議では、日本は西欧諸国を驚かせる提案を出しました。それが、国際連盟の規約に【人種差別撤廃】の条項を盛り込むことを提案し、さらに積極的に行動もしたのです。
20世紀初頭は、白人による有色人種への差別感情は、現代と比べ物にならないほどひどい物でした。アジア各国を平気で植民地化していたのも、有色人種の国を未開国と位置づけ【自分たちが文明化してやる】と言う態度がありました。
当時のアメリカでも、日系移民を【職を奪う】と言う理由で嫌悪する排日感情が高ぶっており、日本時の自尊心を大きく傷つけていました。
こうした差別感情を無くすために、日本は国際会議の場で初めて、人種差別問題を明確に主張したのです。
しかし、人種の平等をうたいながらも、日本は大戦中から中国に対して強固な姿勢を取っており、領土の割譲や権益拡大を無理やり認めさせていました。こうした事から日本が本当に人種差別撤廃を考えていたのかは別の話かもしれません。
とは言え、これまで西洋諸国から全く出てこなかった人種差別と言う話題が、黄色人種国家である日本から出た意義は極めて大きい。実際に人道的な面から賛成する国も多く、出席国16票中11票の賛成を獲得することが出来ました。
しかし、アメリカとオーストラリアが猛反対し、議長のアメリカ・ウイルソン大統領が【全会一致が必要】として決裁を取り下げました。
その後、1920年に国際連盟が発足。
42か国が参加し、日本はイギリス・フランス・イタリアと共に常任理事国となり、第一次世界大戦の教訓から戦争のない国際秩序を作ろうとしました。ここでもアメリカは、国際連盟の提案をしたのにもかかわらず、米国会議の承認が得られず国際連盟の加入を拒否しました。
こうした勝手な行動を見て、日本もまたアメリカに対する反感を募らせていくのでした。
大きくなるアメリカとイギリスの圧力
日本へのアメリカとイギリスの圧力はこれだけではありませんでした。
パラオ・マーシャル諸島の統治権が認められていた日本に対して、アメリカからの横やりが入ってきました。
アメリカは、パラオ・マーシャル諸島の統治権を日本が得たことについて、自国が統治するハワイとフィリピンの間に位置する事で東アジアと太平地域の権益持続について不安を覚え始めました。
また、当時世界最大の海運国家だったイギリスもアジアや太平洋の権益を守るために、アメリカ同様に日本の増長を恐れ始めました。ロシア帝国が崩壊したいたので、日本との同盟を維持する必要はない。
こうした米英の思惑が一致し、日英同盟が破棄、日本の主力艦比率は米英の6割に抑えられ、さらに山東半島の権益の多くを中国に返還する事になりました。
世界からの孤立を恐れた日本は、この申し出を受け入れたのですが一方で国内の軍部の不満が大いに高まる事になりました。
こうして、産業力を蓄えた日本は近代国家の仲間入りを果たし、中国・アメリカ・イギリスと外交面で緊張を抱えながらも、さらなる経済成長を目指して国際社会で舵を取っていくことになるのです。